「あ、あのっ! 川島さんっ!」
「どうかしましたか?」
「これっ! このご祝儀袋……」
先程加積が車椅子で前を通り過ぎた際、翠の目の前に無造作に置いて行った非常識な代物を見て、恭子は思わず溜め息を吐いた。一応白い和紙で包み、豪奢な水引で飾り付けてはあるが、明らかに立体感あり過ぎのそれに、思わず一瞬遠い目をしてしまう。
「……現金じゃなくて、小切手とかにして頂いたら、ここまでかさばらなかったんですけどね。五百万位ですか? この厚みからすると」
「ごひゃっ! ど、どうしっ……」
完全に舌が回らなくなっている翠や、動揺しているスタッフを宥める様に、恭子は慎重に口を開いた。
「別に間違いとか、爆弾とか入っていませんから大丈夫ですよ? 中身を確認したら、後から纏めてフロントで預かって貰うようにスタッフにお願いしますし、こんな人目がある所で強盗する人も居ないでしょうから落ち着いて下さい」
それで何とか判断力を取り戻した翠が、素朴な疑問を口にした。
「そ、そうよね。だけどあの人、佐竹君側の招待客よね? 五百万をポンとご祝儀によこすなんて、一体どんな関係者なのかしら?」
それを恭子が笑って誤魔化す。
「それより、皆さんお待ちですから、急いで招待客の対応をしましょうか」
「え、ええ、ごめんなさい、そうよね!」
「お待たせしました。こちらにお名前を御記入願います」
「本日はおめでとうございます」
それから何事も無かったかの様に、周囲にざわめきが戻ってきたが、少し離れた所から一部始終を見ていた清香は、先程漏れ聞いた会話の内容について首を捻った。
「……さっきの人、どうして恭子さんを『椿』なんて呼んでたのかしら? 恭子さんも旧知の人物みたいに対応してたし、人違いってわけじゃ無さそうだけど……」
「さぁ、何だろうね。兄さん側の招待客だし、確かに恭子さんとも知り合いみたいだけど……」
微妙に察する所のあった聡だったが、余計な事は言わずに惚けてみせた。すると清香が本来の目的を思い出す。
「じゃあ私、ティーラウンジの方におじさま達が居るので、受付が始まった事を教えて来ますね?」
「そうだね。それでは失礼します」
「ああ」
「またな」
そして清香と聡が連れ立ってその場を後にしてから、男達は揃って顔を見合わせた。
「……要するにあれか?」
「あれだよな。以前チラッと聞いた、川島さんが清人さんの下で働き始める前に、愛人契約してたって相手だよな?」
「だけどさっきのやり取りからすると、あの女性は本妻だろう? 何で恭子さんと仲良さげなんだ?」
「それ以前に、何でそんな人物を自分の結婚披露宴の席に、夫婦で招待するんだよ。恭子さんだって出席するのに」
「相変わらず、清人さんの意図が読めないな。意味が分からん。そう思いませんか? 浩一さん……って、あれ?」
てっきり側にいるものと思っていた浩一がいつの間にか姿を消していた為、正彦は面食らったが、明良があっさりとその理由を告げた。
「浩一さんなら、恭子さんとあの女性が話し始めた辺りで、凄い怖い顔をしてどこかに行ったけど?」
それを聞いた正彦が、末弟を軽く睨みつつ問いただす。
「止めなかったのか? お前」
「え? 止めないと何かまずかったわけ?」
僅かに気圧されながら明良が怪訝な顔で尋ね返すと、正彦は溜め息を吐いてから、自分自身に言い聞かせる様に呟いた。
「でも、まあ……。これから披露宴だしな。見える所に怪我はさせないだろうから、ほっといても良いか」
「そうだな。俺達も行こうか。そろそろ修も奈津美さんと幸ちゃんを連れて、親族控え室から移動してくる頃だし」
「可愛くないおじさんじいさん達が一杯だから、若い子の顔が見たいよな」
「お前の守備範囲には乳幼児まで入るのか? 危ない奴」
つい先程の微妙な空気を払拭するべく、そんな無駄口減らず口を叩きながら、一同は披露宴会場に向かって足を向けた。
同じ頃、新郎の近親者でありながら、新郎側親族控え室に居座るのを良しとしなかった小笠原夫妻は、そんな騒動とは無縁のまま、ティーラウンジでゆったりと披露宴までの待ち時間を過ごしていた。
「ねぇ、あなた……」
「どうした」
これから披露宴に参加するにしては浮かない顔付きの妻に勝が怪訝な顔を向けると、由紀子が俯き加減に、やや後悔している口調の呟きを漏らす。
「……やっぱり黒留袖は止めて、洋装の方が良かったかもしれないわ」
自分の留袖を見下ろしながら溜め息を吐いた由紀子に、勝は本気で呆れた顔になった。
「お前、何を今更な事を。まさか今から、着替えに帰るつもりか?」
「流石にそんな事はしないけど……。挙式中も何となく視線を集めていたみたいだし」
膝の上で両手を組みながらボソボソと告げる妻に、勝も一応頷いてみせる。
「それはまあ……、参列者の中には彼と小笠原の関係を知らない人間が、結構混ざっていたみたいだからな。どうして私達が最前列に居るのか、不審に思われても仕方がない」
「だから、親子関係を公にしていないのに、黒留袖なんて親族なのをあからさまにする様な衣装で出席したら、清人の機嫌を損ねると言ったのに……」
もう殆ど愚痴になりつつある涙声の妻の訴えに、勝は些か持て余し気味に応じた。
「気を悪くしたなら、直接文句を言ってくるだろう。彼は挙式前後も何も言わなかったぞ? 公にするしないはともかくお前が彼の母親なのは事実なんだから、挙式及び披露宴に出席するなら、黒留袖以外に有り得ない」
「あなたがそんなに頑固だったなんて、今の今まで知らなかったわ!」
「……参ったな」
いよいよ泣きそうになって、強い口調で訴えた妻に勝が閉口したところで、タイミング良く聡と清香がやってきた。
「父さん、母さん、お待たせ」
「おじさま、おばさま、披露宴会場の受付が開始されましたから、頃合いを見て移動を……。あの、どうかしましたか?」
「何かあった?」
何となくただならぬ雰囲気を察した二人は慎重に問い掛けたが、由紀子は慌てて涙を抑え、勝はホッとしたように微笑した。
「いえ、何でも無いの。ちょっとね」
「助かったよ。今由紀子に拗ねられていた所でね」
「あなた!」
「じゃあそろそろ会場に行こうか」
些か強い口調で由紀子が夫を窘める感じの声を出したが、勝は平然と立ち上がり披露宴会場に向かって歩き出した。それに由紀子も諦めて従い、聡と清香も首を捻りつつ後に続く。そして程なく会場に到着すると、恭子が如才なく微笑みつつ頭を下げてきた。
「小笠原様、本日は挙式に引き続きのご出席、ありがとうございます」
「やあ、川島さん。ご苦労様」
「それではこちらをお持ち下さい」
「どうも」
短いやり取りで受付を済ませた一家は、広い会場内へと足を踏み入れた。そして周囲をゆっくりと見回す。
「さてと、結構な規模だな。やはり柏木さんが相手だと、これ位は必要か」
「えっと、俺達の席って…………、は?」
「……え?」
聡は会場のテーブル上の名札で自分達の名前を探し、由紀子は先程手渡された席次表を広げて自分達の席を確認しようとしたが、二人ともすぐに信じられない物を見たかの様に固まった。聡は出入り口のすぐ側のテーブルに自分達の名前を見いだしたからであり、由紀子は自分達の肩書きとして『新郎母』『新郎継父』『新郎弟』の表記を認めた為である。しかし勝だけは由紀子が広げた席次表を覗き込みつつ、面白そうに笑った。
「やっぱりな。ほら、黒留袖で正解だったろう?」
「あなた、知ってたんですか!?」
「父さん!」
妻子に非難がましい目を向けられた勝は、笑いを堪えながら弁解した。
「はっきりと聞いてはいなかったが、彼が披露宴の招待状を持参した時、清香さんと同じテーブルに席を用意すると言われただろう。忘れたのか?」
「確かにそう言っていましたが! それは清香さんとは気心が知れている間柄だからという事で!」
「清香さんは彼の妹で、当然新郎側の親族席テーブルなんだから、同席するならこの肩書きは自然だと思うが? これでフォーマルドレスとかだったら、確実に浮いていたぞ。どうだ、俺の言う通りにしておいて良かっただろう?」
「…………っ」
得意気に胸を張った夫に若干腹を立てつつも、これ以上口を開いたら嬉しさのあまり泣き出してしまいそうで、披露宴開催直前に騒ぎを起こしたくない由紀子は必死に口を噤んだ。しかし聡はまだ狼狽気味に、傍らの清香を振り返って問い掛ける。
「清香さん! 清香さんは知ってたの!?」
「えっと……、実は私も、昨日柏木家に出向くまで知らなくて……。一応皆さんに教えようかと思ったんだけど、真澄さんから『土壇場で怖じ気づいて、敵前逃亡されて欠席になったら清人が恥をかくから、開始まで黙ってて』と念を押されてもので……」
言いにくそうに清香に告げられた男二人は、苦笑いするしかできなかった。
「敵前逃亡って……」
「怖じ気づかれるのは予測済みだったらしいな」
「あ、でもちょっと待って! いきなり披露宴の進行上で何かしろと言うのは、心の準備ってものが!」
ふと思い付いた懸念に慌てて聡が問いただしたが、清香はそれにも落ち着き払って答える。
「それって所謂『両親への花束贈呈』とか『感謝の手紙朗読』とか『出席者へのご挨拶』とか『新郎新婦並びに両親揃って出席者お見送り』とか?」
「うん、そんな所だけど……」
「そういうのは一切無いから、心配無いですよ?」
「どうして? 披露宴の定番だよね? 柏木家側だけでするとか?」
その素朴な問い掛けに、清香は小さく肩を竦めた。
「そうじゃなくて、その手の物は悉く真澄さんが却下したみたい。聞いた話だと『子供じゃないから、列席者への挨拶は自分達でできる』とか『こんなお涙頂戴の恥ずかしいのは嫌』とか『長時間立つのは嫌だし、一人だけ椅子に座ってふんぞり返っていたら、清人を尻に敷いていると思われかねない』とか頑強に主張したらしくて」
「……最後のは、結構切実な訴えっぽいね」
思わず聡が失笑してしまうと、清香も釣られる様に笑った。
「そんな訳で、おじさま達はただ座っているだけで大丈夫ですから」
「なるほど。それは分かったが……、清香さん。一つ質問しても良いかな?」
「はい、何でしょうか?」
「清香さんが言ったように、ただ座って出しゃばらずに大人しくしているにしても、こちらのテーブルにやって来る人間に対してはどう対応すれば良いのか、お兄さんから聞いていますか?」
真顔でそう問い掛けてきた勝に、清香が心得た様に頷く。
「はい、一応は。お知り合いに加えて、知らない方も興味本位でお酌とかしに来そうですよね。お兄ちゃん曰わく『別に嘘を吐く必要は無いのでご勝手に。そちらの判断にお任せします』だそうです」
「分かりました。こちらの判断で、それなりにあしらう事にしましょう」
そこで破顔一笑した勝から横で大人しく控えている由紀子に視線を移した清香は、幾分申し訳無さそうに声をかけた。
「それで、その……、これにはこう書いてありますけど、別にこちらから挨拶とかに出向かないとも言っていたので……」
そこで言葉を濁した清香に、由紀子は柔らかく微笑んで頷く。
「ええ、分かっているわ。だから清香さん、そんなに困った顔をしないで?」
「はい」
そしてホッとしたように笑った清香と由紀子を促し、勝と聡は指定されたテーブルへと向かった。
「じゃあ早速席に着こうか?」
「そうだな。ほら、由紀子。出入り口付近で突っ立っていると邪魔だろう」
そうして小笠原一家は、会場内のあちこちから好奇心に満ちた視線を浴びつつ、清香と一緒のテーブルに着いた。
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