「あの……、旦那様、大旦那様」
「どうかしたのか?」
ベテランの使用人である滑川が、当惑した表情でお伺いを立ててきた事に、雄一郎のみならず総一郎も怪訝な顔をしたが、相手の続けた言葉で盛大に顔を引き攣らせた。
「その……、門の所に『真澄様に呼ばれた』との事で、沢渡先生がいらしてますが、どう致しましょうか?」
柏木家と長い付き合いのある顧問弁護士の来訪に、広々とした応接室内の空気が凍った。しかし放置できる筈もなく、雄一郎が頭を抱えながら指示を出す。
「どうもこうも……、門前払いなど出来ないから、中にお通ししてくれ。それから真澄の部屋に、茶を二人分頼む」
「畏まりました」
そして室内の人間の視線を一身に浴びて居心地悪い思いをしつつ、滑川は一礼してその場を後にした。
それから更に一時間程して、疲労困憊の顔付きで清人が階段を上っていた。
空いている手を軽く壁に付く様にして、心なしかヨロヨロと廊下を進み、真澄の部屋まで辿り着く。そして深呼吸してからゆっくりとドアをノックした。
「どうぞ」
「真澄、ちょっと話があるんだが……」
入室を了承する声に、清人が気合いを入れてドアを押し開けつつ声をかけたのだが、丸テーブルを挟んで真澄の向かい側に座っている人物を認めて不自然に口を閉ざした。しかし当人は清人の内心の動揺を知ってか知らずか、鷹揚な笑みを浮かべながら新年の挨拶をしてくる。
「やあ、佐竹君……、ではなかった、清人君。新年おめでとう。今年は春から、えらく賑やかになりそうだね?」
柏木家の顧問弁護士であり、自分と同じく柏木産業外部取締役である沢渡の些か意地の悪い笑みに、清人は気力を振り絞っていつもの笑顔で返した。
「あけましておめでとうございます、沢渡先生。新年早々先生のお世話になる様な事態を引き起こさないよう、今年も気を引き締めて行きたいと思います」
「それは何よりだ。ところで真澄君に話があるとか?」
「はい」
「それはちょうど良かった。私の方は一通り話は済んだので引き取らせて貰うから、心置きなく話し合いたまえ。それでは真澄君。必要書類は後ほど届ける様手配するよ」
椅子から立ち上がりながらわざとらしい位に愛想良く清人に声をかけた沢渡は、真澄に向き直って退出する旨を告げた。対する真澄も愛想良く応じる。
「宜しくお願いします。新年早々お呼び立てして、申し訳ありませんでした」
立ち上がって頭を下げた真澄に、沢渡は楽しそうに付け加えた。
「ああ、見送りは良いから休んでいなさい。興奮すると身体に障るからね」
「分かりました、それではここで失礼させていただきます」
「ああ。清人君も失礼させて貰うよ?」
「……いえ、ご足労ありがとうございました」
どう考えても面白がっているとしか思えない沢渡の態度に、清人は顔を歪めそうになるのを何とか抑え、真澄が元通り椅子に座ったのに続いて、今まで沢渡が座っていた椅子に腰掛けた。そしてテーブルに先程玲子から渡された書類を置きながら、静かに声をかける。
「真澄?」
「今更話って何かしら?」
万年雪並みに冷え切った声で返されて清人はたじろいだが、覚悟を決めて真澄の方に書類を押し出した。
「その……、お義母さんにお願いして、色々削って貰ったから。これなら何とか世間一般的に見ても、ちょっと派手な披露宴位の内容と規模に」
「一体『誰』と『誰』の披露宴の話をしているのかしら? 皆目見当がつかないんですけど。教えて頂けます? 佐竹さん」
まるで目に入れたくも無い様に書類から目を逸らしつつ、素っ気なく言い放った真澄に、清人は顔色を変えてテーブルに両手を付き、深々と頭を下げながら懇願した。
「すまない、真澄! 頼むから何とかこれで妥協してくれ! 精一杯頑張って、削れるだけ削ってみたんだが、これ以上はどうしてもお義母さんが妥協してくれなくて」
「じゃあ私と離婚したら、お母様と再婚するのね。止めないからどうぞ遠慮しないで? ちゃんとお義父様って呼んであげるし」
「後生だから、頼むから離婚云々とか、そういう台詞は」
「本当に男って嘘吐きよね。『何でも望み通りにする』とかなんとか言っておきながら」
「今回のこれ以外については、勿論そうするつもりだ。だから」
「どうだか。ああ、お金は有り余ってるから慰謝料と養育費は要らないわ。安心してね?」
「だから今回だけは勘弁してくれ真澄!」
拗ねまくっている真澄と、半分泣きが入りかけている清人のやり取りを、弟や従弟達が揃ってドア越しに立ち聞きしていたが、その中で浩一は冷静に上を向いた清香の両眼に目薬を点眼しつつ、穏やかな口調で言い聞かせた。
「やっぱり収拾がつきそうに無いな……。ほら、清香ちゃん、そろそろ出番だよ。打ち合わせ通り宜しく頼むね?」
「うん、頑張るわ!」
涙ぐみつつ真剣な顔で頷いた清香は、浩一達がドアから離れたのを確認してから勢い良く真澄の部屋のドアを開け放し、泣き叫びつつ乱入した。
「真澄さん! お願い、お兄ちゃんを見捨てないでぇぇっ!!」
「清香ちゃん?」
「清香?」
いきなり現れた清香に驚き、反射的に二人は椅子から立ち上がったが、清香は些かも躊躇う事無く真澄の胸に飛び込んだ。
「ここで真澄さんに見捨てられたら、お兄ちゃんは絶対一生濡れ落ち葉で私に纏わりついて、聡さんをいびり抜いちゃうもの!」
「それはそうでしょうね」
「……おい、清香」
清香の訴えに真澄は深く頷いて同意を示し、清人は顔を引き攣らせた。しかし清香の訴えは更に続く。
「うっかり変な女に引っかかったりしたら、目も当てられないし」
「そんな事になったら、清香ちゃんも遠慮なく縁を切るのよ? 甘やかしたら駄目なんだから」
「あのな、真澄……」
「真澄さん以外の人を『お義姉さん』なんて呼ぶのは嫌だし、真澄さんの子供に『清香叔母さん』って呼ばれるのを、今から楽しみにしてるのに、別れちゃやだぁぁっ!」
そこで清人を半ば無視しつつ、自分の背中に両腕を回してしがみつき、盛大に泣き喚き始めた清香を、真澄は苦笑しながら宥めた。
「ああ、清香ちゃん落ち着いて。こんなろくでなしのせいで泣いちゃ駄目よ? せっかくの可愛い顔が台無しだわ」
「で、でも……」
ウルウルと見上げてきた清香の泣き顔を見て、真澄は仕方無さそうに両手を上げた。
「分かったわ、今回は清香ちゃんに免じて許してあげる。多少恥ずかしくても我慢するわ。だから泣き止んで頂戴」
「真澄さん、本当に?」
途端に顔付きを明るくした清香に、真澄は思わず失笑した。
「ええ、誰かさんと違って、私は軽々しく口からでまかせは言わないわよ?」
「ありがとう真澄さん! 大好き!」
「私もよ、清香ちゃん。これからも子供も含めて、仲良くしてね?」
「うん、こちらこそ宜しくお願いします!」
抱き合いながら笑顔で会話している妻と妹を見て、清人は緊張の糸がぷっつりと切れた様に椅子に座り込み、テーブルに突っ伏して動かなくなった。そして廊下に待機していた面々も、揃って安堵の溜め息を吐き出す。
「やれやれ、何とか一件落着か?」
「清香ちゃん、最後の方、目薬の効果だけじゃなくて、マジで泣いてたよな」
「清香ちゃんを送り込んで正解でしたね、浩一さん」
楽しそうに声をかけてきた友之に、浩一は疲れた様に言葉を返した。
「一般的に『子はかすがい』と言うしな。清香ちゃんは子供じゃないが、俺達とは違う意味で、姉さんは清香ちゃんを無茶苦茶可愛がってるし。下手に俺達が宥めるより、清香ちゃんの涙の方が姉さんは折れると思っただけだ」
「確かにそうですね」
「下手をすると……、姉さんは清人と別れても、清香ちゃんとは縁は切らない気がする」
そんな事をどこか遠い目をしながら浩一が呟いた為、周囲の者達は思わず顔を見合わせた。
「……それってどうなんだ?」
「一般的に、離婚しても子供は手放さないパターンか?」
「何かありえそうで笑える」
「いや、笑えないから」
「取り敢えず、清人の努力の成果を見せて貰わないか? あの中で果たしてどれが残ったのか、興味があるだろう?」
そこで幾分茶化す様に浩一が提案すると、皆嬉々としてそれに従った。
「ああ、忘れるところだった。……清人さん! 早速努力の成果を見せて欲しいな」
「頑張ったって言っても、どれ位かな~?」
からかう口調で次々に真澄の部屋に乱入した面々は、驚いている真澄を尻目にテーブルに近寄り清人が持参した書類に手を伸ばした。しかし素早く手を伸ばした清人がそれを上から押さえ、ゆっくりと上半身を起こしながら低い声で毒づく。
「お前ら……、他人事だと思って能天気に言うな」
「他人事だからな。仕方が無いだろう」
しかしあっさりと浩一に切り返され、苦笑するしか無くなった清人は潔く諦め、あちこちが二重線で削除された書類をその場全員に向けて差し出し、中身を披露した。
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