「由香里ねぇ、三人の子持ちで、一番上はもう中学生なの。三人とも男の子でね、毎日家の中が戦場なんだって。想像するだけで凄そう~」
「確かにそうですね」
クスッと笑った真澄に、その光景を想像した清人も思わず笑いを誘われる。それで幾分気分が上昇したのか、真澄は幾分明るい声で続けた。
「家族仲が良くってね~、今日は久々に皆で遊びに行ったんだって。最近ご主人が売れてきて、生活に余裕が出て来たみたいだし~」
「それは良かったですね」
「うん。それで……、由香里から『相変わらず仕事一筋で頑張ってるのね。私には真似出来ないわ。凄いわ』って言われて……」
段々声が重く小さくなり、とうとう暗い表情で黙り込んでしまった真澄に、清人は慎重に声をかけた。
「……誉めて、貰ったんですよね?」
「うん」
素直に小さく頷いたものの、真澄は少しの間沈黙を保ってから、自分に言い聞かせる様に話し始める。
「でもそれは、誰だって頑張れば出来る事だもの。私の代わりは幾らでも居るもの。全然、凄く無いもの」
「真澄さん?」
いきなり真顔になって、急に何を言い出すのかと戸惑った清人だったが、真澄は構わず話を続けた。
「認められたくて、仕事で結果を出したくて職場で頑張って来たけど、ただそれだけだもの……。会社に必要なのは『柏木真澄』個人じゃなくて、『有能な社員』ってだけだもの……」
「確かにそうかもしれませんが」
「由香里は『今でも第一線で働いてて凄い』と言うけど、私に言わせれば手探りで家事育児をやりつつパートにも出て家計を助けて、一家をしっかり支えている由香里の方が、はるかに凄いと思うのよ? だってあの家庭で由香里の代わりができる人間なんて、絶対居ないもの」
そこまで話を聞いた清人は、背中をベッドから離して真澄の顔を覗き込むようにしつつ、なるべく穏やかな口調を心掛けながら真澄を宥めた。
「お友達の話を聞いて、色々考えてしまったんですね……。でも真澄さんは最近ミスが続いてて、ほんの少し弱気になっているだけですよ。それは所謂『隣の芝は青い』って奴です。多少の違いは有りますが、誰しも自分と環境や立場が違う人間に対して、憧れを持つものですから」
「そう、なんでしょうね。分かってはいるのよ……」
「真澄さんは、今まで仕事一筋で来た事を後悔しているんですか?」
その問い掛けに、真澄は両手でグラスを抱えたまま、無言で首を振る。その為、清人はもう少し踏み込んだ質問をしてみた。
「それなら……、後悔はしていないけれど、やっぱり結婚して子供が欲しいとか思っているんですか?」
その問い掛けに、真澄がゆっくりと視線を上げて、ぼんやりと反対側の壁を見ながら呟いた。
「……どうかしら? 確かに子供は欲しいかもしれないけど、結婚して貰えないもの。流石にシングルマザーは論外だしね」
「真澄さんだったら、誰でも結婚してくれますよ」
僅かに胸の痛みを覚えつつ清人が口にした言葉を、真澄は真顔で頭を振って否定した。
「違うの」
「何が違うんです?」
「結婚して欲しい人は、私の事、全然好きじゃないの。死んだ女性の事が、今でも好きなんだもの。死人相手じゃ勝負も出来ないし……。でもやっぱり、その人以外と結婚したくないの……」
再び俯き、真澄が沈んだ声で切々と訴えた内容を聞いて、瞬時に清人の腸が煮えくり返った。本音では(それはやっぱりあの内藤支社長の事か!?)と怒鳴りつけて問い質したいところだが、そんな気持ちを賢明に抑えつつ尋ねてみる。
「因みに……、その人が誰か、聞いても良いですか?」
(名前を聞いてしまったら、海の向こうだろうが何だろうが、半殺しにしてしまうかもしれないが……)
質問をした時に僅かに声が震えてしまった上、思わずそんな事を考えて舌打ちを堪えた清人だったが、真澄は清人の様子に構う事無く淡々と告げた。
「……王子様」
「は? ……あの、もう一度言ってみて貰えますか?」
「だから、王子様」
この場にそぐわない単語が出て来た事に戸惑い、何か聞き間違ったかと再度答えを促した清人だったが、真澄の答えは変わらず憮然とした表情になってしまう。
「真澄さん? ひょっとして、ふざけているんですか?」
しかしそれを聞いた真澄は清人の方に顔を向け、涙目でぐずり始めた。
「真面目に、言ってるのにっ……。何? 私じゃ彼に不釣り合いで、似合わないって言いたいの? 酷いっ……、あんまり、だわっ……」
今にも泣き出しそうな状態になってしまった真澄に清人は本気で狼狽し、慌てて謝罪した。
「すみません。……そうですね。真澄さんはお姫様ですから、結婚相手は王子様ですね?」
「そう、言ってるのに……」
宥められて真澄が何とか落ち着くと、清人は安堵すると同時に(あの内藤なら、間違っても王子様って顔でも年でも無いな……。もっと若い、他の男なのか?)と、何となく釈然としない思いを抱える事になった。
そして少しの間考え事をしながら真澄を眺めてから、グラスの中身を舐めるように少しずつ飲んでいる彼女に静かに声をかける。
「真澄さん。結婚相手は、どうしても王子様じゃないと嫌ですか?」
「嫌」
「強情ですね……」
素っ気なく答えた真澄に清人は困った顔をしたが、それは一瞬のみで、すぐに顔付きを改めて真澄に再度呼び掛けた。
「真澄さん……」
「なぁに?」
「俺と結婚しませんか? 俺は間違っても王子様と言われる様な人間ではありませんが、あなたの事を一生大事にしますよ?」
呼び掛けられても正面を向いて飲み続けていた真澄は、そう言われて緩慢な動きで清人の方に顔を向けた。しかしその顔には、不思議そうな表情のみが浮かんでいた。
「……どうして?」
「俺があなたの事を好きだからです」
「どこが?」
「全部です。一晩中語っても語り尽くせないと思いますが、試しに一つ一つ説明してみますか?」
「……ここに詐欺師がいる」
「酔っ払っていても手強いな」
丁寧に疑問に答えても、面白く無さそうに再びプイと視線を逸らされ、清人は苦笑いするしか無かった。しかし例え酔っ払い相手だとしても、ここまで言ってただ引っ込むつもりはサラサラ無く、真澄の体の正面に回り込んで、真剣な口調で言い募る。
「真澄さん、真面目に聞いて欲しいんですが」
「聞いてるわ」
「俺と結婚してくれたら、家事は一切俺がこなしますから、真澄さんは好きなだけ仕事をしてくれて構いません。それに、もし仕事が嫌になったりつらくなってしまったら、いつでも止めて良いですよ? 俺の稼ぎで、真澄さんに不自由な思いはさせません」
「……そう」
真摯にそう訴えたが、聞いているのかいないのか、真澄はぼんやりと手の中のグラスを見つめていた。それに流石にイラッとした清人が、半ば強引に真澄の手からグラスを取り上げて床に置き、真澄の顔を両手で抱える様にして、強制的に自分と視線を合わせさせて問いかける。
「真澄さん、じゃあどうすれば俺と結婚してくれますか?」
すると真澄は漸く意識を取り戻した様に二・三回目を瞬かせ、少し考え込んでから疑い深そうに問い返した。
「……私が一番?」
「ええ、真澄さんが一番好きですよ?」
「でも二番目や三番目や、その他大勢が居るでしょう?」
「……真澄さんだけですよ?」
「嘘吐きがいる」
僅かに躊躇した清人にすかさず真顔で突っ込んできた真澄に、清人は思わず溜め息を吐いた。
「真澄さん……」
「だって、男は浮気する生き物でしょ?」
「誰がそんな事を、あなたに吹き込んだんですか。正彦ですか? 友之ですか?」
「お母様」
「…………」
一番可能性のありそうな彼女の従弟達の名前を思い浮かべて腹を立てた清人だったが、真澄が淡々と告げた名前を聞いて、思わず遠い目をしてしまった。
(玲子さん……、雄一郎さんとの間に、何があったんですか?)
しかしあまり呆けてばかりもいられず、清人は気力を振り絞って話を続ける。
「これまでのあれこれを、今更誤魔化すつもりはありませんが、俺と結婚してくれたら、本当に一生浮気なんかしないで真澄さんだけ好きでいますし、誰よりも大事にします」
「一生って、長そう……」
「構いません」
「やっぱり飽きたって言うのは」
「言う筈ありません」
これ以上は無い位真剣な顔で力強く断言した清人を、真澄はどこか焦点の定まらない表情で少し眺めてから、小さな声で呟いた。
「……それなら良いわ」
「真澄さん?」
その声があまりにも小さかった為、良く聞き取れなかった清人が、控え目に真澄に再度口にする様求めると、彼女は清人にぼんやりと視線を向けながら、あまり感情が籠もっていない様な声で告げた。
「一生大事にしてくれるなら……、結婚してあげる」
それを聞いた清人は、一気に表情を明るくして確認を入れた。
「本当ですか?」
「……ええ」
そこで未だに真澄の顔を両手で押さえていた事に気付いた清人は、何となく無理やり言わせた様な気分になった為、幾分気まずい思いでその手を顔から離した。その代わりに下ろされていた真澄の両手を取り、その手を見下ろしながら、幾分自信無げに真澄に囁く。
「それなら……、俺から一つだけお願いが有るんですが……。一番で無くて良いですから、俺の事も少しは好きでいて貰えますか?」
不安げに清人が問いかけると、二人の間に多少の沈黙が生じてから、真澄の身体がゆっくりと前方に傾いだ。自然に清人の右肩に真澄の額が当たり、寄りかかる様な体勢になったところで、真澄がかすれ声で囁く。
「うん、努力、するわ……」
その言葉を耳にした清人は、真澄の手から自分の手を離し、嬉々として真澄の背中に両腕を回して身体を引き寄せ、そのまま強く抱き締めた。
「分かりました。俺は、そう言って貰っただけで十分です。それでも俺は、真澄さんの事を一番愛してますよ?」
そうして清人が感極まった様に、饒舌に喋り出す。
「絶対、後悔なんかさせませんから。ちゃんと真澄さんのお父さんやお祖父さんにも頭を下げて、結婚を許して貰いますから、心配しないで下さい。少し手こずるかもしれませんが、間違っても香澄さんの様に、後々実家と疎遠にならない様に、きちんと話を………………、真澄さん?」
自分の話に全く反応が無い上、すっかり身体の力が抜けて規則正しい呼吸音を立てている身体を、少し起こして確認してみると、清人の予想通り、真澄は完全に熟睡モードに突入していた。
「眠ったんですか……」
思わず激しく脱力しながらも、真澄が飲んだであろう酒量と酩酊状態から、この結果はある程度予想出来ていた清人は、苦笑いしたのみですぐに次の行動に移った。
真澄のカーディガンを脱がせ、パジャマ姿の彼女を軽々と抱え上げてベッドに静かに横たえる。そして清人自身はベッドの縁に腰掛け、気持ち良さそうに寝入っている真澄を、複雑な感情がない交ぜになった両眼で見下ろした。
「この状況で寝るか……。どうせ酔っていて殆ど覚えていないだろうから、明日、仕切り直しだな」
そんな事を言いながら清人は手を伸ばし、滑らかな肌触りのシルクのパジャマを、真澄の肩口から胸のラインを通って脇腹へと撫で下ろした。そして感情を欠落させた様な顔でその手を眺めてから、清人は身を乗り出して眠っている真澄に覆い被さる様な体勢になり、幾分掠れた声で囁く。
「絶対手放さないし、裏切らない。誰にも傷付けさせない様に守ると誓うから、真澄……」
まるでそれが免罪符の言葉でもある様に告げながら、清人が真澄のパジャマのボタンに手をかけた時も、真澄は変わらず穏やかな眠りに身を委ねていた。
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