その後、写真撮影を終わらせ、少し休憩してから真澄はゆっくりと式場となっている、ホテル中庭に設置されているチャペルに移動を始めた。
列席者は既に入場済みで、真澄は介添え役の泉水とエスコート役の雄一郎と一緒に進む。そしてチャペル内に入ってから、更に大きな扉の前で足を止めると、中から微かにパイプオルガンの音色と歌声が伝わってきた。その扉に手をかけながら、泉水が真澄と雄一郎に声をかける。
「それでは扉が開きましたら、お二人で一礼してからゆっくりと祭壇の方にお進み下さい。リハーサル通り、歩幅と動きを揃えてお願いします」
「はい、分かりました」
「…………」
すぐさま応じた真澄だったが、何故か雄一郎は微動だにせず、黙り込んだままだった。それを不審に思った真澄が声をかける。
「お父様?」
「…………分かっている」
娘の問いかけに雄一郎は低く呟きで応じ、真澄に向けて右膝を突き出した。それを受けて真澄が微笑みながら父親の腕に自分の腕を絡め、静かに前に向き直る。
そして泉水が左側と、会場担当らしいスーツ姿の男性が右側の扉をタイミングを合わせてゆっくりと押し開くと、真澄達の前に祭壇へと続くバージンロードが現れた。それを見た瞬間、雄一郎の目元がピクッと僅かに引き攣ったが、それに誰も気が付かなかった。
「どうぞ、一礼してお進み下さい。……あの、柏木様?」
「お父様? あの……、どうかしたの?」
「……………」
しかし入口で立ち尽くしたまま無言を貫く雄一郎に、泉水も幾分焦った様に、チャペル内に響かない程度に声を潜めながら問い掛けた。
「お父様、ご気分が優れませんか?」
しかしここでいきなり雄一郎が乱暴に腕を振り解き、両手で真澄の肩を掴んで叫ぶ。
「真澄!」
「は、はい」
何事かと多少狼狽しながら応じた真澄に、雄一郎はとんでもない事を言い出した。
「やっぱり嫁に行くのは止めろ!」
挙式の為、今まさにチャペルに入場しようと言う所で、真顔でそんな事を言われてしまった真澄は、一応確認を入れてみた。
「あの……、嫁に行かずに、既に婿を取っているんですが、お忘れですか?」
「お父様、落ち着いて下さい!」
生憎と真澄程は冷静でいられなかった泉水が、顔を青ざめさせながら小声で雄一郎を宥めにかかったが、それすら耳に入らない様子で取り留めのない事を喋り始めた。
「お前が三十過ぎても、浮いた噂一つ無いのを心配して、色々嫌味っぽい事も言っていたが、実は真澄は私の傍に、ずっと一緒に居てくれそうだから、それならそれで良いかと思っていたんだ。変な男に持っていかれるよりは、行かず後家の方が百倍マシだ」
「……そうですか。それではやはり清人が気に入らないと仰るんですか?」
疲れた様に真澄が確認を入れたが、雄一郎は血走った目で叫ぶ。
「清人だろうが誰だろうが、渡すのは嫌だ。お前は私の娘なんだ!」
「よりにもよって、どうしてこの場面で錯乱するんですか……。取り乱すなら、もっと早く取り乱して下さい。お願いですから」
真澄は肩を掴まれたまま天井を仰ぎ見て溜め息を吐いたが、その頃にはチャペル内で異常に気付いた参列者達がざわざわと騒ぎ始めていた。
「……おい、何か入口で揉めてるぞ?」
「伯父さん……、この期に及んで往生際が悪い……」
「この場だからじゃないのか? こういう真澄さんを文字通り引き渡すシチュエーションで、怒りがぶり返したとみた」
「これまで何食わぬ顔して、真澄姉達のバカップルぶりに結構ストレス溜め込んでたのか? そう思えば気の毒だな」
「気の毒なのはホテルのスタッフだぜ? 皆顔が真っ青だぞ」
恐らく担当者が動揺しながらも、延々とオルガンの演奏と合唱を続ける中、新婦側の参列者席ではそんな会話が交わされていたが、新郎側参列者席でも後方の出入り口を眺めながら、清香が緊張気味の声を出した。
「……さ、聡さん」
「何? 清香さん」
新郎側席最前列で、清香が必死に祭壇の方に目を向けない様にしながら囁く。
「お兄ちゃんの顔、怖くて見られない」
その訴えに、聡はチラリと立ち尽くしている清人の様子を窺ってから、清香同様出入り口の方に視線を向けながら囁き返した。
「……俺だってだよ。笑顔を保ってるのに、目が微塵も笑ってないし。暫く見なくて良いから」
「そうするわ」
チャペル内のそんな動揺が手に取る様に分かっていた真澄は、困りながらも考えを巡らせる。
(本当に、しょうがないわねぇ……。清人の笑顔がここから見ても険悪になってきてるし、私が何とかするしかないか)
そして真澄は雄一郎に朗らかな笑顔を向けながら、先程の雄一郎のそれを上回る爆弾発言を繰り出した。
「お父様。それほど仰るなら、清人と別れましょうか?」
「は?」
「え? あの、新婦様!?」
予想外の事を言われて完全に虚をつかれた雄一郎と、狼狽著しい泉水に構わず、真澄は落ち着き払って話を続けた。
「良いですよ? 離婚届を出して、お父様に納得して貰いますから。お父様を怒らせたり、悲しませたりできません」
「真澄……」
そこで、軽く目を見開いて固まった雄一郎に、真澄は茶目っ気たっぷりの笑顔で付け加えた。
「ただし……、お父様の気が済んだら、またすぐ婚姻届を出しますからね?」
「は? いや、女性は離婚したら半年は再婚出来ないんじゃ……」
半ば呆然としながらもごもごと口を挟んだ雄一郎に、真澄は笑みを深くする。
「その規定は、産まれる子供が誰かを明確にする為の規定なので、離婚した相手と復縁する場合に限っては、離婚直後でもすぐ再婚出来るんです。ご存知無かったですか?」
「あ、ああ」
そして何とか動揺を抑えた雄一郎が、苦笑いしながら真澄に確認を入れた。
「……結構嬉しい事と酷い事を、同時に言われた気がするな。私の意向を汲んではくれるが、結局清人の所に行くと言っているんじゃないか」
「分かって頂いて何よりだわ。だけど私は香澄叔母様よりは温厚よ? お父様が何を言って何をしても、親子の縁を切ったりしないから安心して? 清人とは別れたら他人ですが、お父様とは死ぬまで父娘ですから」
笑顔でそんな事を言ってのけた真澄に、雄一郎は笑みを深くして真澄の肩から両手を離した。
「そうか……、別れたら他人になる清人とは違って、私達はずっと父娘か」
「はい」
(正確には養子縁組してるから、それを解消しないと他人にはならないけどね。お願いだからチャペル内の人に、今のやり取りを聞かれてませんように。別れる云々の話なんか耳に入れたら、清人が激怒するわ)
雄一郎に笑顔を向けながら、真澄が密かに冷や汗を流していると、雄一郎が微かに笑いながら呟いた。
「分かった。じゃあ私がどうしても我慢できなくなったら離婚してみてくれ」
それを聞いた真澄は、少し意地悪く尋ねてみる。
「取り敢えず今日は良いんですか?」
「そうだな。今日は良いかな?」
「良かったわ」
そうして再び笑顔で差し出してきた雄一郎の腕に自分の腕を絡め、真澄はチャペル内に向き直った。そして如何にも安堵した様に、真澄のドレスの裾を直しながら、泉水が声をかける。
「それでは新婦様、お父様、一礼して中へお進み下さい」
その指示に従い、真澄と雄一郎は綺麗に揃って一礼してから、ゆっくりとバージンロードを進み始めた。明らかにチャペル内にホッとした空気が流れ、幾らもしないうちに祭壇前へと辿り着く。
そして微妙な笑顔で雄一郎から清人へと真澄が引き渡され、二人でゆっくりと一段高い所へと上がった。それから滞りなく式が進行したが、神父の祝いの詞を聞きながら、清人が横に立つ真澄に前を向いたまま低い声で尋ねる。
「真澄。さっきお義父さんに何を言われていたんだ?」
「別に? 大した事じゃないわ」
「そうか?」
「ええ」
白を切った真澄に、清人はそれ以上無駄に尋ねたりはせず、一人考えを巡らせた。
(どうせ娘可愛さに血迷って、結婚を止めろとか、考え直せとか言われたんだろうな。真澄がそれをどうやって宥めたのやら……。何となく想像はつくが)
(お父様の気が済むなら清人と離婚しても良いって言ったなんて、とても正直に言えないわ。清人が知ったらお父様に何らかの報復措置を取りそうだし。後からお父様にも口止めしておかないと)
一方の真澄もそんな事を悶々と考えている間に、宣誓や指輪の交換が終わり、神父が厳かに二人に促した。
「それでは誓いのキスを」
「はい」
「五分三十二秒」
「は?」
真澄は素直に頷いたが、何故か意味不明な言葉を清人が口走った為、真澄は怪訝な顔を向けた。すると真澄の顔を隠しているベールを軽く持ち上げて後ろに流した清人が、笑いを堪える様な表情で彼女に囁く。
「頭の中で結構正確に計れるんだ。だからきっちり同じ時間だけにするから」
「何が?」
「こういう事」
まだ要領を得なくてキョトンとした真澄を引き寄せ、清人が真澄の唇に自分のそれを重ねたが、当然すぐに離れると思われたそれは、いつまでもそんな気配は見せなかった。
「……んっ、……ぅ、……」
左腕を真澄の背後に回して真澄の腰と左肩の動きを抑え、右手で真澄の顎をしっかり捕らえて衆人環視の中ディープキスを仕掛けてくる清人に、真澄は激しく狼狽した。
(ちょっと! 皆の前で何をしてるのよっ!! お願いだから離してっ!)
ブーケを放り出して抵抗すれば何とか清人の腕から抜け出せたかもしれなかったが、両手で持っているのが生花を纏めて作ったブーケであった為、(床に放り出したら汚れたり花びらが散ったりするかも。せっかく清香ちゃんが楽しみにしているのに、がっかりさせてしまうわ)と頭の片隅で冷静に考えてしまった真澄は、殆ど無抵抗でそのキスを受け入れる事になってしまった。そしてその状態が三十秒も続くと、さすがにチャペル内に失笑や呆れ気味の囁き声が満ちる。
「……おいおい」
「あ~あ、やっちまった」
「伯父さんに邪魔されて、腹に据えかねたってか?」
「仕返しにしてもえげつないねぇ……」
「清人……、勘弁してくれ。何もこんな所で、父さんの神経を逆撫でしなくても」
そんな事を呟きながら浩一がチラリと横に座る両親に目を向けると、嬉々としてデジカメを取り出して写真撮影を始めた玲子の横で、こめかみに青筋を浮かべながら握った拳をプルプルと震わせている雄一郎を認めた。
「…………っ!」
(……駄目だ。本気で怒り狂ってる)
思わず浩一が額を押さえてうなだれた所で、目の前の二人が漸く離れた。
「……むぅっ、……は、ぁっ…! って、ちょっと清人! こんな所で何をするのよっ!!」
離れるなり律儀にブーケを持ったまま真っ赤な顔で講義した真澄だったが、清人はしれっと言い返した。
「何って……、お義父さんがお前を独り占めしたのと同じ時間だけ、見せ付けてあげただけだ。意趣返しとしては穏便なものだろう?」
「い、意趣返しって!」
パクパクと意味無く口を開け閉めしながら真澄が呻いたが、ここで雄一郎が勢い良く立ち上がり、清人に向かって指差しながら怒声を放った。
「清人! 貴様、列席者の前で何をしてるんだ! そんな不心得者は今すぐ真澄と別れろ離れろ近付くなぁぁっ!」
しかし清人はそんな舅の叫びをあっさりとスルーし、笑顔で神父を促す。
「それでは滞りなく式も終了しましたので、退場しましょうか」
「あ……、は、はい。、そうですね。……皆さん、新郎新婦が退場いたします。拍手でお見送り下さい」
そこで自分の役目を思い出した神父が、まじめくさって参列者に声をかける。それに応じて拍手が沸き上がると、雄一郎は益々激昂して清人に組み付こうとした。
「ふざけるな! 誰が貴様の様な根性の悪い男……、ふぐぅぅっ!!」
しかしその叫びの途中で、雄一郎は顔を盛大に引き攣らせた浩一に背後から羽交い締めにされ、加えて疲れた様な顔をした玲二に手で口を塞がれた。
「父さん、ちょっと向こうに行こうか?」
「そうそう。往生際が悪いと、愛想尽かされそうだしね」
そのまま横に有る参列者用のドアに向かって、ずるずると引き摺られる。
「むぐぅっ!!」
「玲二、しっかり口を押さえてろよ?」
「了解」
その様子を目にして真澄の笑顔は僅かに引き攣っていたが、清人はすこぶる上機嫌で真澄をエスコートしつつ、扉に向かって足を進めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!