夢見る頃を過ぎても

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第34話 綻びが生じる時

公開日時: 2021年4月8日(木) 07:22
文字数:8,418

「それでは今月の定例取締役会は、これで終了とさせて頂きます。お疲れ様でした」

 会議終了を告げる進行役の秘書課長の声に、出席者は資料を纏めて立ち上がり、挨拶を交わしながら三々五々に会議室から立ち去って行ったが、社外取締役の面々は揃って一階までエレベーターで降り、広いロビーを横切って出入口に向かって行った。

 柏木産業顧問弁護士である沢渡に、柏木産業メインバンク頭取の片倉、監査法人代表の川北と、清人以外の面々は皆錚々たる肩書の持ち主であったが、これまでの付き合いで親子ほどの年齢差もなんのその、気安く言葉を交わしながら外に向かって歩いて行く。


「佐竹君、今日も弁が立っていたな。いつもどこからああいう話を持って来るんだ?」

「全くだ。下手をすると、一般社員よりも事情通だろう」

「あれでは本社の幹部連中も形無しだな。今日も皆、顔付きが険しかったぞ?」

 如何にも感心した風情で感想を述べられた清人だが、謙遜しながら言葉を返した。


「いえ、偶々知己が多いだけです。その中から耳に入った物を口にしているだけですので、業務として専門に取り組んでいる方々とは比較になりませんよ」

「そうかな?」

「そうですとも」

「いや、ますます惚れた。どうだ? そろそろ私の義息になってみないか? 娘も残っているのがあと一人でね」

 そう言って三姉妹の父親である沢渡が上機嫌に話題を出してくると、清人は苦笑いしつつ他人に分からない様に溜息を吐いた。


(この人も相変わらずしつこいな。悪い人では無いんだが)

 立場上無碍に断る事もできず、清人は無駄だとは思いつつも、取り敢えず誤魔化してみる事にした。


「二番目のお嬢さんがご結婚なさいましたか。それは存じ上げず失礼しました。お喜び申し上げます」

「ありがとう。しかし話題を逸らそうとしても、そうはいかんぞ?」

 ニヤリと笑った沢渡の台詞に、川北と片倉も笑いながら続けた。


「そうそう、今日は沢渡さんに頼まれて、皆で包囲網を敷く事にしているからな」

「実は今日、勝手に外部取締役の懇親会を設定して、店を予約してあるんだ。勿論来るだろう? 佐竹君」

 そんな風に爽やかに無理強いされて、清人は笑う事しか出来なかった。


「お付き合いします。お三方に共謀されたら、降参するしかありません」

 その苦笑混じりの台詞に、三人は俄然機嫌を良くしながら頷いた。

「よし、話は決まった。タクシーを拾おうか」

「良かったよ。君と前々から、色々突っ込んだ議論がしたくてね」

「素直で宜しい。ああ、その席で『晩秋の雲』にサインを貰えるかな? 先月も書いて貰おうと持参したのに、君との話に夢中になって、つい忘れてしまってね」

「分かりました」

「良かった、わざわざ持ってきた甲斐があったよ」

 そこで本社ビルから出て歩道を横切りながら、車道に接する場所まで到達した沢渡が、何気なく周囲に視線を巡らせた。


「おや、あれは真澄君だな。外回りからの帰りか」

「え?」

 柏木家とは四十年来の付き合いがある沢渡が、視線の先に真澄の姿を見つけて思わず呟くと、清人がそれに反応して沢渡の視線を追って背後を振り返った。

 それとほぼ同時に高須を連れて商談先から社に戻って来た真澄が、本社ビルの前の歩道の一団に気が付き、更にその中の一人が清人である事を認識して、反射的に自分の靴に目を落とす。


(あれは、清人君? 失敗した……、そう言えば今日は定例会の日だったわ。いつもなら、社内のどこで出くわしても良い様に、ヒールを低い物にしてるのに。どうして忘れてて高めの靴を履いている時に限って遭遇するのよ!?)

 そんな事を考えて思わず歩みを止めた真澄に、二・三歩先を歩いて振り返った高須が不思議そうに問い掛けた。


「課長? どうかしましたか?」

「何でも無いわ。行きましょう」

 幾分気落ちしながらも表面上は普通を装い、真澄は社屋ビルに向かって歩みを進めた。すると予想通り清人の横で真澄に笑顔をむけていた沢渡が、声をかけてくる。


「やあ、真澄君、久し振り。頑張っているようだね」

 旧知の人物、かつ目上の人間にぞんざいな挨拶などできる筈もなく、真澄は足を止めて頭を下げ、笑顔で応じた。


「お久しぶりです、沢渡先生。今日は取締役会でいらしたんですね」

「ああ、そうなんだ。しかし真澄君、仕事で頑張るのも良いが、そろそろめでたい話を聞かせてはくれんかな? 柏木社長には、以前から是非君の仲人をさせて欲しいと、頼んでいるものでね」

(どうして清人君の目の前で、そんな余計な話題を持ち出すのよっ!?)

 ニコニコと微妙すぎる話題を振ってきた沢渡に真澄は一瞬殺意を覚えたが、清人の方に視線を向けない様にして何とか平常心を保ちつつ、曖昧に笑って誤魔化そうと試みた。


「……生憎と、ご縁が無いもので」

 殊勝に述べた真澄だったが、沢渡が真顔で反論する。

「なぁに、縁なんて物は、待っていないで作るものだぞ? それにこの先一生、仕事一筋でやって行くわけでもあるまい?」

「はぁ……」

(昔から家族ぐるみの付き合いだから、悪気で言っているのでは無いのは分かっているけど。だから余計にタチが悪いわ)

 清人の他にも、自分の背後で様子を窺っている高須の事もあり、中途半端に頷きながらこの場をどう切り抜けようかと頭を悩ませていた真澄だったが、ここで沢渡が余計な一言を発した。


「仕事ばかりに力を入れて、家事とかもやってはおらんのだろう? まあ、この際、料理位は一通りできる様にしておいた方が良いかな? 料理は女性の仕事なのにまともに出来なくては、『結婚しない』ではなく、『結婚できない』と後ろ指を差されかねんからな」

「……っ!」

 沢渡としては親切心で言った台詞だったのだが、そう言われた真澄は僅かに顔色を変えた。


(確かに、清人君の腕前とは比べものにならないけど……、どうして本人の目の前で、揶揄されなくちゃならないのよ!)

 悔しさで思わず歯軋りしかけた真澄だったが、そんな心境を理解できなかった沢渡が、しみじみとした口調で話を続ける。


「ご両親が真澄君を大事にしとるのは分かっとるが、あまり過保護過ぎるとなぁ」

「あの、仕事がありますので私はこれで」

「お言葉ですが、沢渡先生? 先程の話しぶりでは、あらぬ誤解を招きかねないと思うのですが」

 流石にこれ以上は付き合っていられないと、悔しさを押し隠しながら真澄が辞去しようとしたが、ここで唐突に清人が口を挟んできた。それに沢渡が不思議そうに応じる。


「誤解? どういう事かね」

 その問い掛けに、清人は淡々と問い返す。

「先程の発言は、料理が女性のする事だと決め付ける、男女差別に繋がりかねない発言だと思われますが?」

「いや、私には特にそんな意図は無かったが……」

 当惑した表情を見せた沢渡に、清人が尚も畳み掛けた。


「それに、料理位と仰いましたし……。悪意を持った見方をすれば、取るに足らない作業である調理などは女性に任せておけば良いと言う女性蔑視の発言であると共に、料理に携わる人間全体を誹謗中傷する事にもなりかねませんね」

「佐竹君、そんな大袈裟な」

「沢渡さんは、決してそんなつもりでは」

 沢渡の背後から川北と片倉も宥めにかかったが、清人は表情を消したまま淡々と続けた。


「私の父親の様に、男性の調理人は世の中に数多く存在していますが、調理は女性の仕事でしょうか?」

「…………」

 それぞれ柏木家とは長年の付き合いであり、清人の素性と香澄の結婚に関わる事情を知っている面々は思わず黙り込み、その場に気まずい沈黙が漂う。その状況に、元々の原因である真澄が、先程とは違った意味で顔色を変えた。


(どうしよう。清人君は私を庇ってくれたんだとは思うけど、こんな風に畳み掛けたら沢渡先生の立場が……)

 おろおろと二人を交互に見やって打開策を考えようとした真澄だったが、ここで清人は小さく笑いながら、肩を竦めて口を開いた。


「まあ……、職に貴賤無しと言いますし、そこの所がお分かりにならない先生では無いでしょう。柏木さんが周囲の男性以上に仕事をこなしている様に、近年では特殊な職種でなければ、一頃と比べて男女差は目立たないと思います。良い時代になりましたね?」

 明らかに論点をずらしつつ、穏やかに清人が笑って同意を求めると、三人は救われた様に揃って笑顔を返した。


「お、おう、まさにその通りだな、佐竹君」

「うちの社でも、女性の活躍が顕著だしな」

「各人、持って生まれた資質の違い、という事ですね。それはそうと沢渡先生?」

「な、何かね?」

 唐突に声をかけられて、思わずビクッとしながら問い返した沢渡に、清人は苦笑しながら片手を差し出した。


「また話に夢中になってサインを忘れたら、再度本を持参して頂くのは申し訳ないと思いまして。忘れる前に、タクシー待ちの今のうちに、サインしてしまおうかと思ったのですが、どうでしょうか?」

「お、そうか? それなら今、お願いしようか」

「はい、どうぞ、ご遠慮なく」

 清人の提案に乗って、沢渡がいそいそと鞄の中から清人の本を取り出したのを見た真澄は、何とか穏便に収まった事に安堵しながら頭を下げた。 


「それでは失礼します」

 丁寧に一礼をして、真澄はその間距離を取って大人しく控えていた高須を従え、社に戻ろうと歩き出した。しかし歩道の先で展開されていた光景に、思わず足を止める。


(あれは!?)

 柏木本社ビルからビルを一つ隔てて、某都市銀行本店ビルが存在していたが、そこから出て来た七十代と見られる女性が歩道を歩き始めると、向こうから車道を走行してきたバイクが幾分速度を落としてそのまま路肩に停まるのかと思いきや、女性の横を走り抜けながら左手を伸ばして彼女のハンドバッグを引ったくったのだった。

 反射的に女性がバッグを掴んだ為、中途半端に引きずられた直後に車道に倒れ込み、打ち所が悪かったのかそのまま倒れ伏して動かなくなる。その間、二・三秒の出来事を目の当たりにした真澄は、考える前に体が動いた。


「課長? どうしたんですか!?」

「真澄さん? ……え!?」

 いきなり車道に駆け出した真澄を見て高須が驚いた声を上げ、それを耳にした清人が愛用の万年筆でサインをし終えた本を閉じつつ道路に視線を移し、思わず目を見張った。


「このっ!」

 清人の目の前で、真澄が走ってくるバイクの前に立ちはだかり、持っていたブリーフケースを両手で掴んで後ろに振りかぶり、狙いを定めて勢い良くバイクに向かって投げつける。


「当たれっ!!」

 真澄の渾身の力を込めたそれは、見事にバイク男のフルフェイスにぶち当たり、左手でハンドバッグを掴んで片手走行をしていた男がバランスを崩し、バイクが盛大に横倒しになった。そして引ったくり犯は道路に投げ出される格好になったが、ここで真澄にとって予想外の事態が生じた。


「やった……、え?」

 運転手を失ったバイクがその場に倒れたままにならず、横滑りして一直線に真澄の方に向かって来た。咄嗟に体が動か無かった真澄だったが、その時怒声と共に腕と肩を掴まれ、背後に勢い良く引かれる。


「真澄、下がれっ!!」

「え? ……っ、きゃあっ!!」

 わけが分からないまま後ろ向きに数歩下がった真澄だったが、踵で何か小石の様な物を踏んだと思った瞬間バランスを崩し、車道と歩道の境界辺りで盛大に尻餅を付いた。

「……いったぁ。何か踏んだ?」

 擦りむいた掌よりも、足元の方が気になった真澄が確認しようとすると、血相を変えた清人が真澄の前で膝を付き、如何にも焦った様子で声をかけてきた。


「大丈夫か? 真澄、どこか怪我はないか!?」

「え、ええ、何とか」

 その緊迫感溢れる表情といつもとは異なる口調に、真澄が呆然としながらも頷くと、清人が深々と溜め息を吐いて愚痴っぽく零す。


「全く……、寿命が縮んだぞ。相変わらず突っ走って」

「清人君!」

 話の途中で道路に投げ出されて倒れた犯人がゆっくりと立ち上がり、何か刃物の様な物をポケットから取り出したのを清人の肩越しに認めた真澄は、清人の腕を掴んで注意を促した。それを受けて背後を振り返った清人が、苦々しげに吐き捨てる。


「屑野郎が……」

 そして真澄の頭を押さえつけながら、立ち上がった。

「伏せてろ。奴に顔を見せるなよ!」

「え? どうし」

 困惑する真澄を置いて清人は立ち上がり、先手必勝とばかりに犯人との距離を縮めた。


「こいつ、邪魔しやがってぇぇっ!!」

「ふざけるな!!」

「ぐぁっ……!」

 真澄は清人が言った通り道路にうつ伏せになっていると、何かが叩き付けられる振動が伝わり、清人が相手を投げ飛ばしたのだと見当を付けた。そして恐る恐る顔を上げて見ると、想像した通り犯人が再び車道に横たわり、その前で清人が息を整えているのが目に入る。


「手間かけさせやがって」

 苦々し気にそう呟いてピクリともしない男を見下ろしてから、清人は足早に真澄の元に戻った。そして片膝を道路に付き、真澄の顔を覗き込む様にしながら声をかける。


「真澄、もう顔を上げて良いぞ。大丈夫か?」

「ええ、大丈夫……、っう」

 上半身を起こしながら足を動かした拍子に、真澄の左足首が痛みを発した。思わず真澄が顔を顰めてその箇所に目を向けると、その視線を追った清人が眉を顰める。

 しかし清人が何か言いかけた途中で、その台詞が不自然に途切れた。


「足か? 捻っただけなら良いが……」

「え?」

 微動だにせず自分の足元を凝視している清人を見て、怪訝に思いながら真澄も視線を向けた。すると真澄の足元に、胴軸の部分が割れた一本の万年筆が、無残な姿を晒して転がっているのが目に入る。


(これって……、さっき何か踏んだ様な気がしたけど、まさか私が踏んだの?)

 なだらかな円筒形の形状の物であり、通常であれば踏まれても転がって事無きを得る筈が、偶々道路のアスファルトと歩道の基礎として敷かれているブロックの僅かな隙間の溝に入り込んでおり、そのせいで上からパンプスのヒールで一点集中的に体重がかかった時に逃れようが無く、呆気なく粉砕されたと思われた。

 先程足元で感じた違和感には納得できたものの、目の前で無言でそれを見下ろしている清人の姿に嫌な予感を覚えながら真澄は声をかけたが、それは周囲から掛けられた複数の声にかき消される。


「清人君、それ」

「真澄君、怪我は!?」

「佐竹君も、大丈夫か!?」

「課長! 大丈夫ですか!?」

 短時間のうちに目の前で繰り広げられた非日常的な出来事に、思わず固まっていた周りの面々が漸く血相を変えて集まって来ると、清人は我に返った様にゆっくりと立ち上がり、いつもの口調で問いかけた。


「はい、平気です。どなたか警察に通報は?」

「ああ、私が済ませた。すぐに来てくれるそうだ」

 冷静に報告する片倉に、清人も真顔で頷く。

「そうですか。ついでに救急車をお願いします。あいつの意識が無くなってますので。フルフェイスですし、命に別状は無い筈ですが」

「分かった」

 そんなやり取りをしている横で、座り込んだままの真澄の前に高須が膝を付き、疲れた様に声をかけた。


「課長……。いきなり飛び出して行くから焦りました」

「ああ、驚かせてしまったわね。ごめんなさい」

 深々と溜息を吐いてみせた高須に、真澄は神妙に謝った。すると今度は高須が嬉々として喋り出す。


「バイクの前に飛び出すなんて、見ていて肝が冷えましたよ。でも流石課長、とても格好良かったですよ! 颯爽と鞄を投げつけて、ひったくり犯にブチ当てて転倒させるなんて。他の課の奴らに話して聞かせたら驚く」

「失礼、柏木さんの部下の方ですよね?」

「あ、はい、高須と言いますが……、あなたは?」

 いきなり話の腰を折られて驚きながらも高須が応じると、清人は再び膝を折って相手と目線を合わせながら穏やかに笑いかけた。


「言っておきますが、今見た事を会社内外で喋る事は御法度ですよ?」

「え? どうしてですか?」

 訳が分からないまま高須が問い返すと、清人が真顔で答える。


「あの男に柏木さんの顔をはっきり見られない様にしましたが、あなたが周囲にふれ回って彼女の名前が表に出たら、あの犯人が逆恨みして、後日報復を受ける可能性がありますから。余罪が無く、引ったくりだけでは、下手すると起訴猶予や書類送検だけで終わるかもしれませんし」

「えっと……」

「あの、別にそこまで気にしなくても……」

 流石にそんな可能性までは考えていなかった高須が、居心地悪そうに身じろぎする。真澄も高須を庇おうとしたが、ここで清人が高須ににじり寄って少し距離を縮めた。


「それで、もしあなたが柏木さんの名前を不用意に出した事で、万が一彼女に危害が加えられる事態にでもなったら……」

 そこでいきなり清人が両手で高須の胸倉を掴み上げ、顔を寄せて低い声で恫喝した。


「この俺がお前の息の根を止めてやる。今から遺書を準備しておくんだな。それが嫌なら一言も漏らすな。分かったか?」

 清人の迫力に驚いて固まった真澄は勿論、至近距離で殺気の籠った視線で睨みつけられた高須は無言のまま千切れんばかりに首を縦に振りまくり、漸く清人から解放された。そして高須から手を離した清人は、いつもの穏やかな笑顔で立ち上がりながら彼を促す。


「それでは、柏木さんが手足に少し怪我をされたみたいなので、柏木社内の医務室に連れて行ってあげて下さい」

「ははははいっ! 課長! 医務室に行きましょう! さあ早く! 今すぐ!」

「え、でも……」

 怯え切った高須が真澄を引っ張り上げる様にして立たせたが、真澄は咄嗟にどうしたら良いか判断が付かずに躊躇した。それを見た清人が、安心させる様に言い聞かせる。


「心配要りませんよ。後始末はしておきますから、早く手当てをして貰って下さい」

「そうだな。そうした方が良い。ところで佐竹君、腕の良い弁護士は必要では無いかい?」

「どういう意味ですか?」

 ここでいきなり話に割って入った沢渡に、清人が怪訝な顔を向けた。すると沢渡が苦笑しながら話を続ける。


「勿論、君はこれからここに残って事情説明、更に所轄署で事情聴取だな。目撃者だし、当事者の一人だし。君がそうなると、必然的に懇親会はキャンセルだ」

「そうさせて貰いますが」

 沢渡の後ろに控えている片倉と川北に視線を向けてから清人が頷くと、沢渡の説明が続いた。


「君は有段者だから、相手の怪我の状態によっては過剰防衛と取られるかもしれんし、真澄君をこの場から離すなら、その他の第三者の証言が必要だろう」

「そうですね」

 そこで沢渡は真澄が避けたバイクがそのまま滑り、路肩に駐車していた車に激突して双方破損しているのを指差しながら、笑いを堪える風情で続けた。


「加えてあの車の損害賠償の件もある。私だったら難癖を付けられずに、適切に処理できるが? 勿論、君の知己に有能な弁護士が居て、その人物に処理を頼みたい場合は別だが」

 にこやかにそう告げられた清人は、思わず微笑みながら素直に頭を下げる。

「生憎と、沢渡先生ほど力量をお持ちの方を存じませんので、お力添えを頂ければ幸いです」

 その反応に気を良くした沢渡は、上機嫌で続けた。


「任せたまえ。真澄君は偶々居合わせた通りすがりの会社員で、事件後そのまま姿を消して消息不明、君は偶々居合わせた一介の作家で、必要な措置を講じたまでだ。間違っても真澄君の名前は出させんし、柏木の名前にも傷は付けんよ。成功報酬は君のサイン本だ。どうかな?」

「全作サインしてお届けします」

「それはありがたい。そういう事だから川北さん片倉さん、私達はここで失礼するよ」

「ああ、ご苦労様」

「それでは、またの機会に」

 自分抜きでどんどんその場の収拾が図られていくのを、不甲斐無く思いながら真澄が唇を噛みしめていると、痺れを切らした様に高須が再度真澄を軽く引っ張りながら促した。


「さあ課長、俺達も行きましょう」

「ええ……。申し訳ありません、宜しくお願いします」

「ここは大丈夫ですから、早く診て貰って下さい」

「気を付けてな」

 真澄が一礼し、左足にあまり負担をかけない様に支えて貰いながらゆっくり本社ビルに向かって高須と歩き出すと、それを認めた清人がポケットからハンカチを出し、先程見つけた万年筆の残骸の所で屈み込んだ。

 そして数メートル歩いた真澄が何気なく背後を振り返った時、丁度清人が道路に広げたハンカチに、その残骸を拾い上げている光景を目にする。


(あれは……)

「課長、どうかしましたか?」

「ちょっと……」

 思わず真澄が足を止めて凝視すると、不審に思った高須も釣られた様に道路に目を向けた。


「あれ? あの人、何を拾ってるんですか? ボールペン……、じゃなくて万年筆?」

 思わずと言った感じで高須は疑問を口にしたが、真澄は無言のままだった。そしてこのままここに居たら再度恫喝される危険性に気付いた高須が、狼狽しながら真澄を促す。


「課長、早く診て貰いましょう。行きますよ?」

「分かったわ」

 そうして真澄は高須に支えられながら再びゆっくりと歩き始めたが、先程見た光景が暫く脳裏から離れなかった。


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