友之がそんな事を呟いていた頃、清人は幹線道路から一本外れた、しかし人通りは十分多い通りをブリーフケース片手に歩いていた。そして全国展開しているアンダーリサーチ社品川本社が二階から四階に入っている商業ビルに、清人は足を踏み入れて迷わず二階へと進む。
それから目指す自動ドアを通り抜け、出入り口に傍の机に座っている受付嬢に来訪の目的を告げた。
「失礼します。長野さん、桑原さんとお約束している、佐竹と申しますが」
「少々お待ち下さい」
すかさず内線を取り上げた彼女は短いやり取りをしてから受話器を戻し、静かに立ち上がって清人を促す。
「先に長野が対応致しますので、こちらにどうぞ」
「ありがとうございます」
そうして勝手知ったる応接室に通されて数分後、白髪混じりの五十がらみの男性が片腕に大判の封筒を抱えて姿を現し、出されたお茶を飲みながらソファーで寛いでいた清人に、引き締まった身体を屈めて頭を下げた。
「やあ、お待たせしました、先生」
「いえ、予定時刻より早く着いたので、構いません」
鷹揚に清人が頷くと、アンダーリサーチ社で個人の素行調査・生活トラブルセクション所属の長野は、清人の向かい側に座って封筒から書類を引き抜きつつ、挨拶もそこそこにビジネスライクに報告を始めた。
「それでは早速、昨日の報告からさせて貰いますが、別にどうと言う事は有りませんでしたよ?」
「そうですか?」
差し出された報告書を受け取って中身を確認しつつ清人が応じると、長野は小さく肩を竦めた。
「《華郷》の前で彼女は迎えの車に、相手はタクシーに乗ってあっさり別れて行きましたし。一応隣の部屋を押さえて、店にバレない様に聞いていた話の中身を、文章化した物をそれの最後に付けておきましたが……。これがまた、小難しい話ばっかりで」
「詳細は報告書で確認しますので、結構です」
「……はいはい」
思わず愚痴っぽくなりかけた話を清人に打ち切られ、長野は思わず居住まいを正した。そして次に弁解じみた台詞を繰り出す。
「それで……、先生から話を頂いてまだ一日しか経っていませんし、何分調査対象者が普段は海外在住ですので、簡単な背景しか分かりませんでしたが」
「取り敢えずはこれで結構です」
依頼人が特に不満を表明しないまま報告書に目を走らせているのを見て、長野の中でちょっとした悪戯心が頭をもたげた。
「因みに先生? この二人がどこかのホテルにしけ込んだとして、それをこの場で報告したらどうしましたか?」
その問いかけに、清人は報告書から長野にゆっくりと視線を移し、それはそれは楽しそうな笑顔を浮かべてみせた。
「……どう、とは? 別に報告を受けるまで俺は知りようがありませんし、いつもと変わらず今日の朝日は拝めたと思いますよ?」
笑顔の筈なのに眼が全然笑っていないという、傍から見れば身の毛がよだつ代物を間近で見せられた長野は、恐れや驚きを通り越してひたすら呆れた。
(という事は、最後まで傍観に徹してそのまま真っ正直に報告したら、明日の朝日は拝めなかったかもしれないって事だよな? しかしまあ、なんつう真っ黒な笑顔だよ。……やっぱりこの人の依頼は、若い連中には無理だな)
長野がそんな事を考えてから、表面的にはいつものやり取りに戻った。
「それでは、引き続きお願いします」
「承りました。それと、例の妹さんの相手に関しては、こちらのレポートです」
「分かりました」
長野が新たな報告書を取り出し清人に渡してから、幾つかのやり取りをし、頃合いを見て清人にお伺いを立てた。
「特にご質問が無ければ、そろそろ桑原に代わりますが」
「そうですね、お願いします」
それを受けて、長野が備え付けの内線に手を伸ばし、同僚を呼び出す。
「桑原、佐竹氏が第一応接室に来ている。代わってくれ」
そしてアンダーリサーチ社企業信用調査・内偵業務セクション所属の桑原が、自分と同様に書類を抱えて応接室のドアを開けると、それを機に長野は立ち上がった。
「それでは失礼します」
「ごくろうさまでした。これからも宜しくお願いします」
傍目には笑顔で長野を労った清人だったが、次の瞬間桑原が抱えて持って来た書類に、鋭い視線を向けた。そして早速報告を受ける清人に背を向けて応接室を出た長野は、一気に疲労を覚えて深い溜息を吐く。
(なんだかなぁ。本当に、年々面倒になってくるよな、あの人の依頼は……。それだけ金回りも良くなってると言えるが、正直そろそろ手を引かせて貰いたいんだが)
密かに長野はそう思ったものの、自分の抜けた穴を誰が埋めるのかと考えた場合、該当しそうな何人かの後輩の顔を思い浮かべて(まだまだこいつらには無理だ……)と一人項垂れた。
長野に引き続き、桑原から依頼した調査内容の説明を一通り受けた清人は、必要書類を受け取ってビルを出た後、山手線で品川から新橋まで移動し、更に地下鉄に乗り換えた。そして改札を出てから歩き出し、薄暗くなっている周囲の景色を眺め、腕時計で時間を確認しながら独り言を呟く。
「意外に時間がかかったな。まあ、直行すれば支度を手伝う時間は有るか……」
当初、珈琲でも飲みながら受け取った報告書に目を通してから次の訪問先に出向くつもりだったのだが、あっさりとその予定を翻した清人が道を進むと、駅から徒歩五分程で目的のマンションに辿りついた。そして迷わずエントランスの呼び出し用モニターに部屋番号を入力し、応答が有った事を確認して声をかける。
「翠先輩、お邪魔します」
モニターで来客者を確認したらしいここの住人が、僅かに驚いた声を返してきた。
「清人君!? 随分早かったじゃない。達也さんが時間を間違って伝えたのかしら?」
「いえ、鹿角先輩は確かに十九時と連絡して来ましたが、甲斐性無しのご亭主の代わりに育児休業中の先輩をお手伝いしようと、早めに参上しました」
笑いを含んだ声でそんな事を言われた相手は、小さく吹き出して自動ドアの解除スイッチを押した。それに伴ってエントランスから住居スペースに繋がるドアが、スルスルと左右に開く。
「ありがとう、遠慮無くこき使わせて貰うわ。さあ、入って」
「失礼します」
そうして人好きのする笑顔を浮かべた清人は、促されるまま奥へと足を踏み入れた。
「ただいま。皆を連れて来たぞ」
その家の主である鹿角達也が職場から友人を引き連れて帰宅すると、台所から妻の翠がひょこりと顔を出し、笑顔で夫と共通の友人である客人達を促した。
「お帰りなさい、達也さん。皆、準備は出来てるから、和室の方に座ってて頂戴」
「毎回悪いな」
「ご馳走になります」
「お邪魔するわね」
そして男女四人がドヤドヤと上がり込みリビングと繋がっている和室に進んだが、達也は周囲を見回し怪訝な顔をした。
「清人の奴は? あいつの靴、玄関に有ったよな?」
「さっきぐずりだした陽菜のオムツ替えと、ミルクを飲ませるのをお願いしたの。奥に居るわ」
大皿を運びながらそう翠が応じたところで、リビングのドアを開けて清人が姿を現す。
「翠先輩、終わりました。ぐっすり眠ってますから、暫くは大丈夫です」
「助かったわ~、清人君。ありがとう」
「客人に子守をさせてすまんな」
「いえ。手を洗ったら、料理を運ぶのを手伝います」
感謝の言葉を述べる夫婦に清人は何でもない様に笑って頷き、台所に消えた。それから清人と翠の二人が手早く料理や酒を和室に運び込み、早速達也が乾杯の音頭を取る。
「それでは、今後一層の《柏木会》興隆を祈って乾杯!」
しかしその声が終わるまでに、皆それぞれ勝手に飲み、勝手に話し始めていた。
「何かもう、お前とは縁切りしたいぜ」
「翠ちゃん、変なのに捕まったよな」
「実は結構苦労してるでしょ?」
「あ、分かる? 最近ねぇ……」
「お前ら……、タダ酒飲みに来て、家主を貶めるとは良い度胸じゃねぇか?」
「確かに先輩の家は借りてますが、そのタダ酒の費用を出してるのは俺ですし。好き勝手言われても、あまり文句は言えませんよ?」
「一番ろくでもないのは、清人、貴様だっ!!」
ここでビシッと箸を眼前に突きつけられた清人は、ビールのグラスを傾けながら苦笑いした。そして一度グラスを置いて、真面目な顔で切り出す。
「さて、先輩方が随分ご機嫌のようなので、まともに話が出来なくなる前に色々伺っておきたいのですが」
「おう、準備してるぞ」
「ちょっと待ってろ」
途端に鞄の中をゴソゴソ漁りだした面々は、清人に向かって書類の束を差し出しつつ、ビールの入ったグラス片手に論争を始めた。
「ここの経費10%一律削減って言うのはな~、ちょっと無理があるぞ?」
「俺もそうは思ってましたが。じゃあ実現可能な部署ごとの達成目標は?」
「ああ、次のページに一覧表にしておいた」
「それから社内カウンセラー配置の要望に関しては……」
「う~ん、社員のメンタルヘルス面管理では必要かもしれないけど、他の社員の目が気になるし、まずトラブル対策室の充実で良いと思う」
「じゃあ引き続き診断書規定と、対策室の役割分担の明確化で良いですね」
「そんなところね」
「清人、前に出した子会社への出向時の対応、どうなった?」
「今管理部の方で検討中です。なるべく複利厚生で不公平感が出ない様に調整してる筈ですね。ところでサイバーテロに関する社内対応状況は、現時点でどうなっていますか?」
「それがな~、変なオタク野郎を雇ったんだが、どうやら松野常務の知り合いの引きこもりを引っ張り出したらしいぞ? ちゃんとやる事やってんだかどうだか」
「社会貢献に回すお金は有っても、能無しに費やす無駄金は無い筈ですがね……。ここは一度サーバー攻撃させてみて、お手並み拝見といきますか?」
「怖すぎる事言うなよっ!」
「お前が言うと洒落にならん!」
粗方は真剣そのものの表情で、たまに笑いを含んだ声で、その場の六人は様々な話題での議論を楽しんでいた。
一般の社員には知られていない事だが、柏木物産内には《柏木会》と密かに自称するグループが存在していた。その構成員は営業部第三課長の鹿角達也、その妻で秘書課主任の鹿角翠、真澄と同じ企画推進部第一課長の広瀬晃司、経理部係長の桜場雅文、人事部係長の夏木裕子の五人である。それが成立したのは、社長令嬢である真澄が東成大に入学した時に遡る。
柏木物産社長で真澄の父である雄一郎は、実子の中で殊更真澄には厳しい態度で接していたが、それはいわゆる愛情の裏返しであり、東成大に真澄が合格した時には、名門女子高とは桁違いに多いであろうあらゆる危険性を考えて、頭を抱えたものだった。しかし悩んだのも束の間、雄一郎は合格直後から密かに行動を起こした。
自身が某奨学金交付団体の理事に名前を連ねている事を最大限に利用し、そこから貸与を受けている、真澄と同年度東成大合格者をピックアップして密かに接触、面談し、信頼のおける、かつ行動力判断力があると思われた人物に、真澄の在学中のあらゆる危険からの回避、周囲への警戒を条件に、本来の奨学金と同等の額を無償で提供する旨を申し出たのだった。
その条件を飲んだ男女五人は、雄一郎からの依頼内容など微塵も漏らさず、入学直後から首尾良く真澄と友人関係を築き上げ、毎月の真澄に関するレポート内容が雄一郎にも気に入られた面々は揃って柏木の入社試験を受け、充分実力も有った事から揃って真澄と同期入社する事になった。未だ真澄には秘密の関係は、自分達を僅かに自嘲する響きを込めて柏木会と仲間内では言っていたが、大学三年の時に雄一郎経由で存在を知らされた清人と、顔を合わせた。
その時、お互いに雄一郎から「こういう人物がいるから、何か事が起こったら協力してくれ」と口頭で言われただけであり、清人としては型通りの付き合いで良いと考えていたのだが、何故か柏木会の面々は妙に清人を気に入ってしまい、事あるごとに清人を呼びつけ、真澄を含めて遊んだりもする仲になっていた。
本来であれば柏木会の面々が大学を卒業した段階で清人との関わりも途切れる筈が、翠と達也の結婚式に呼ばれたり、飲みに誘われたりとずるずる交際を続けているうちに、清人が柏木物産の外部取締役に就任し、清人が柏木物産の現状や問題点を把握する為にこのメンバーに声をかけ、取締役会議に向けて何ヶ月かに一回は集まって現場の要望や意見を汲み上げ、議論を交わす事にしていたのだった。
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