三田村と会話を交わしたあとの午後はバッチリ目が冴えていた。もちろんその視線の先は、はるか前方の席の三田村の背にまっすぐ向けられている。
――二人だけの内緒ね!
いまどきのDK(男子高校生)が人差し指を口に当てて、しーっ、なんて仕草をするだろうか。姉の描く漫画に出てくる女子でさえ見たことがないくらい、かわいかった。玉城は記憶を頼りに、ノートの隅っこに小さな三田村の絵を描いてみるが、あのかわいさは自分の画力程度では表現できない。ああ、切実に画力が欲しい。
天使と会話ができて有頂天になっていたせいか、話していた内容をまったく覚えていない。いや、それでもいい。脳裏に焼き付いたあの無邪気な笑顔さえあれば、どんな地獄の苦行も受け入れられる気がする。ああ、思い出すたびに顏がにやける。
もともと玉城は高校生活というものに期待していなかった。将来の夢があるわけでもないので、趣味である絵だけ描き続けられるなら、普段は働いて稼げるようになったほうがいいと思っていたくらいだ。しかし 姉から「弟が中卒なんてかっこ悪い」と反対され、半ば強制的に自分の家から一番近く、一般的な中堅高校である『小田高校』を受験させられ、奇跡的に合格して今に至る。高校生になってからは、漫画家デビューしていた姉を本格的に手伝い始めたこともあり、連日の寝不足のせいで目付きが悪くなって自分には誰も近寄ってこなかった。それはそれで特に影響もなかった。それでも絵だけは描き続けていられる。それで十分だった。
原稿、締切、原稿というサイクルの毎日を過ごしていた玉城が三田村涼という天使の存在を知ったのは高校2年のときだ。それは学校行事である体育祭に強制参加させられたときのこと、玉城は騎馬戦で激しく衝突し、額から血が出るほどの怪我をした。女じゃあるまいし、顔に傷がくらい、どうってことはないと特に気にしないでいたら、遠くから自分に向かって走ってくる小柄な男がいたのだ。
「怪我、してましたよね!」
男は息を切らしながら、自分のスペースに戻ろうとしていた玉城に詰め寄った。
「あ、ああ」
「それっ! 額から血が出てるじゃないですか! 保健室行きましょう!」
玉城の腕を握り、引っ張る男の腕には『救護班』という腕章がつけられていた。あどけさなの残る、少年と称するに近い童顔の男は、丸くてキラキラした瞳がとても印象的だった。
「いや、こんなのほっとけば治るから」
「だめです! 顔に傷が残ったらどうするんですか!」
めんどくさそうに呟いた玉城に男は真剣な表情で抗議した。心から心配をしてくれている剣幕に迂闊にもトキめいた。
「わかったよ」
その勢いに押された玉城は男に従った。単純に考えれば、救護班なんだから怪我人を運ぶのは当たり前のことだが、そのときの玉城には親身になってくれる目の前の男が、天使に見えたのだ。
「あれ、先生いないのかなぁ。とりあえずここに座ってください」
体育祭の真っ最中、誰もいない保健室で、三田村は玉城を診察の椅子に促す。男は、間違いなく自分のクラスメイトではないが、男の着ている体操着の襟のラインは自分と同じ緑色なので同級生らしい。椅子に座った玉城のすぐ横で受付表を記入している男の手元を玉城はじっと見つめていた。
「玉城……くんって下の名前、なんだっけ」
男がそもそも自分の苗字を知っていたことに驚き、目を見開く。
「じゅんや。漢字は、さんずいの、潤う、であとは、ナリって書くやつ……」
「そうだ。潤也くんだ! 玉城、潤也……っと」
まるで思い出したようにボールペンを走らせる男だったが、当然、自分は男と面識はない。普通は他のクラスの生徒の名前も記憶しているものだろうか。自分は同じクラスメイトでさえもあやしいのに。続けて男は、記入者の欄に"三田村涼"と書いた。どうやらそれが男の名前らしい。三田村……やはり初めて聞く名前だ。
「とりあえず、血を止めないと、だね」
さきほどまでは傷口に手が触れるたび、血がついていたが、今はすでにかさぶたになりつつある。
「もう大丈……いっ!!」
問答無用で三田村はガーゼを玉城の額にぎゅっと押し付けた。その勢いで確実に出来たてのかさぶたが破裂したような痛みを感じた。
「い、痛いっ……」
「大丈夫、こうしていればきっと血は止……あっ、血が滲み出してきてる!」
心の中で、そりゃそうだろうな……と頷く。しかし本人は間違いなく善意でやってくれているのがわかるだけに強く言えない。こうしている間にも、三田村は流血と戦ってくれている。
「えいえいっ、止まって止まってー!」
ぽんぽんとガーゼを傷口に強くおさえてはかさぶたを破壊し「止まらないよぉ」と泣きそうになっている三田村が無性にかわいくて、玉城は黙って目を細めていた。
――なんだ、この天使は。
傷はじくじくと傷が痛み、なんなら保健室に来る前よりひどくなっているというのに、ちっとも怒りを覚えない。むしろ、この戯れをずっと見ていたい。
三田村のかわいい仕草を見ていると、ハートのついた矢が飛んできては、玉城の心臓にぷすっと刺さってゆくようだ。
「よーし、血が止まらないなら、包帯だ!」
ガーゼを玉城に持たせ、三田村は棚に並べてあった包帯を持ってくる。あまりにも一生懸命なその姿に、玉城は三田村にこのまま任せようと覚悟を決める。
三田村はガーゼでおさえた傷口を起点として頭に包帯を巻きたいようだが、不器用なのか、包帯を落とし、転がっていく包帯を追いかけて、また巻きつけ、また落とすを繰り返している。
「待ってー」
包帯と追いかけっこをしている高校生なんて見たことがなかったが、本人はいたって真剣だ。そして、このやりとりの間に、玉城の額には再びかさぶたが生成されつつあり、痛みも徐々に引いてきた。もう血は止まっているだろう。それでも玉城は黙ったまま、三田村によってどんどん包帯が巻かれていくのをおとなしく受け入れていた。
「よし、できたー!」
ようやく包帯が巻き上がり、保健室の窓に写る自分は頭の上半分が包帯がてんこもりに巻かれ、まるでミイラ男のようだった。視界はかろうじて片目だけだ。
「あれ、目が見えないね? 巻き直す?」
「いや、いい。大丈夫だ」
もうすでに保健室に来て1時間以上は経過している。さっき終業のベルが鳴ったので、体育祭は終わっただろう。
「本当に? じゃ、あとは僕がおまじないしておくね。早く血が止まりますよーに!」
ぱんぱんと目の前で手を叩いて祈る三田村は、自分を神社か、寺と間違えているんじゃないかと思ったが、んーっと唸りながら祈ってくれている姿に迂闊にもトキめき、心臓の音が、周囲に聞こえてしまいそうなほどにバクバクと高鳴っている。もう心臓に刺さっているハートの矢は数えきれない。
――なんだ、この揺さぶられるような気持ちは。
その後、三田村は包帯で視界が遮られたままの玉城を教室までつれていってくれた。すでに制服に着替えていた峰岸に「包帯、多くないか」と冷ややかに突っ込まれたが、それでもよかった。これは天使の仕業だからいいのだ。そして心がポカポカといつまでも温かく、三田村を思い出すたびに満ち溢れた気持ちになった。
その日は急いで家に帰り、すぐに机に向かった。包帯のせいで視界は狭かったけど、記憶の中にある、体操服に救護班の腕章をつけた美少年を忘れないうちに描き起こした。
そして一番うまく描けた一枚に『涼平』と名前をつけ、もう一人、背が高く、笑顔の優しい男を描き『淳』と名前をつける。そのまま二人を元に漫画のネームを描き始め、出来上がったのは朝だった。
その後、完成した漫画は『ボーイズラブは突然に』というタイトルの同人誌として世に出ることになったのだ。
あの日から隣のクラスにいる三田村涼の姿を盗み見ては、漫画のネタに使わせてもらっている。もちろん話しかけるなんて出来ない。ただ、あのかわいらしい容姿を遠くから見つめているだけで玉城は幸せだった。高校生活も悪くないな、とようやく思えたのだ。
そして高校3年になり、結局、峰岸以外で友達と呼べる相手はできないままだったが、三田村涼と同じクラスになるという奇跡が起きた。同じ教室にいる三田村を以前よりも近くで観察できることが嬉しかった。基本見ているだけの関係が変わることはない。クラスメイトの一人として挨拶は交わしても、三田村と話をしたことはない。今は、それでいいと思っている。
なぜなら作品の中で自分をモデル(120%美化加工済み)にした『淳』は、『涼平』から積極的なアプローチを受けていて、男同士の恋愛に戸惑いながらも受け入れつつある。二人が付き合うことになるのも時間の問題のような展開だ。
淳を自分に見立てて幸せな二人を描いている。それだけで今の玉城は十分幸せなのだ。
結局、ノートの隅に(持ち前の透視能力を活かして裸を具現化してみたが、罪悪感に苛まれ消したので)三田村の背中をスケッチしながら濃密な午後の時間は終わった。
教室から担任が出ていくと、クラスの生徒が一斉にざわつく。部活に行く、友人と遊びに行く、それぞれ学生生活を謳歌していて微笑ましい。自分はこれから惰眠をむさぼるために、まっすぐ家に帰る。いや、まっすぐ布団に直行だ。
「玉城くん」
背後から声をかけられる。聞き慣れた天使の声に慌てて振り返るとそこには、もじもじと恥ずかしそうな三田村が自分を上目遣いで見つめていた。一体、天使が自分に何の用なのだ。
「今日は、よろしくお願いします!」
「今日……?」
はて、一体なんのことだろう。
「僕、その……男の人の家行くの、初めてだからちょっと楽しみ、っていうか……」
もじもじと自分の両手を絡ませる天使がかわいくて呼び止められた理由なんていいから、このまま見つめていたくなる。しかし、気になるフレーズが天使の口から飛び出した。男の人の家とは、誰の家なのか。
「それって……」
「あっ、何か、用事できた感じ? それなら、いいよ! 無理しないでね」
急に慌てだす天使を見て、玉城の脳内に、先ほどの記憶が走馬灯のように流れてきた。
まきじゅんの同人誌を持っていた三田村を追いかけて声をかけ、『俺はまきじゅんの知り合いだ』と口走ってしまったこと。『キャララフ』のことをうっかり口走ってしまったこと。そして行ってもいいかと聞いてくる三田村に『今日は予定がない』とも、言ってしまったこと。すなわち、自分の家に天使が来ることになっていたのだ。
徹夜明けで頭が働いていなかったとはいえ、なんてことを口走ってしまったのか。
「しかもよりによって……今日……か」
正直、徹夜明けの自分は、家に帰って布団に向かうまでの体力程度しか残っていない。
「あっ、そうだよね、突然おしかけちゃ迷惑だよね。家族の方もいるだろうし」
よほど楽しみにしていたのだろうか。目の前の天使が、しゅんとうなだれている。天使をこんな悲しい顏にさせたのは誰だ。殺すぞ。違う、自分だ。自分だから殺せないじゃないか。ああ、天使の笑顔を取り戻すには、どうしたらいいんだ。
「いや……かまわない」
「えっ、おうちの方の都合は?」
「姉と二人暮らしだけど、実質、一人暮らしだから別にいい」
普段の姉は作業場である事務所で寝泊まりしていて、時々荷物を取りに帰ってくるくらいなので、一人暮らしだといっても過言ではない。
「でも……」
「じゃ、いくぞ」
自分の鞄を肩にかけ、三田村に背を向けて歩き出した。
「本当に? いいの?」
後ろについてきているらしい三田村は、玉城の背中に聞いている。
「ああ」
何事もなく返事をしつつ、働いていない頭で必死に今朝の部屋を思い出す。確か徹夜が確定してから、昨日掃除をして、洗い物もした。さいわい洗濯物も貯めてない。よし大丈夫だ。男にしては、きれい好きな性格で本当によかった。突然、部屋に姉や姉のアシスタントが資料を取りに押しかけてきたりするので、普段から掃除をするように心がけている。そんなことが、ここで役に立つとは。
「じゃあ……お言葉に甘えて、お邪魔しちゃうね。へへっ」
――甘える……甘える…?
へにゃ、と嬉しそうに微笑んでいるであろう天使の顔を正面から拝みたかった。なのに、なぜ自分は背中を向いているのだろうか。どうにかして、天使を見ながら歩けないものか。向き合えばいいのか。いや、そんな恥ずかしいことはできない。
スタスタと歩く玉城の前を人が怯えた表情を浮かべて避けていく。きっと強面な自分の顏のせいだろう。しかも今日は、徹夜明けなので凶悪さが通常よりも倍増している。
そんな自分の後ろで三田村は、時折、女子に「三田村君、ばいばーい」と声をかけられ、そのたびに「またねー」と応じている。そういえば、三田村が男子と話しているところをあまり見かけたことがないが、普段接点のない凶悪犯のような顏の自分と歩いていて、あとから女子たちに心配されたりしないだろうか。
前後で歩いている二人の距離がそれほど近くないこともあり、時折、後ろを振り向く。自分と目が合った三田村は、へにゃと笑顔を返してくれる。それを見て、何事もなかった顏で、こく、と頷き、再び前を向くが、正直、心中は穏やかではない。
――だめだ、これは直視したら死ぬ。死因は萌えだ。萌えの過剰摂取だ。
徹夜明けで衰弱して乾ききったこの体に、天使の笑顔を過剰に浴びて、その眩しさに焼き殺されそうだ。幸せなのに苦しい。しかしもっと見たい。いっそ、焼死するか。
目が合うだけでも神々しく麗しい天使と、これから狭い家の中で二人きりになるという現実に、このときの玉城は気づいていなかった。
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