「こんばんは」
三田村との撮影会前日。玉城は姉の事務所を訪れていた。前もってデジカメを借りる許可をもらっていて、取りに来る約束をしていたのだ。
「おう。そこに置いておいた」
玄関まで姉が出迎えてくれて、指を指した先にはカメラケースと三脚が置かれていた。
「ああ、準備しておいてくれたんだ。ありがと」
「構図を写真に収めるのはいいことだぞ。協力者に感謝することだな」
「ははは、そうするよ。えっと週明けに返しにくる、でもいい?」
「使う予定はないから、構わん」
どうやら漫画のため、という理由は姉にとって嬉しかったのか。他に必要なものはないか、と何度も聞いてくれた。言葉はガサツでも、締切前じゃなければ姉は基本優しい。
「そういえば3月にBL限定のオンリーイベントがあるからそれに出るぞ」
「ええ、マジで? 姉ちゃん大丈夫かよ」
「新刊を作る予定がないからコピー本対応する。まぁ、既刊だけでもいいんだが、来場者に喜ばれるものを用意しておくのがサークル主の務めだ」
実際、自分はイベントに出たことがないが、姉やアシスタントのみんなが話しているのを聞くとおもしろそうだな思う。読者と直接触れ合える機会もそうそうないので、社会人になったら自分も参加してみたいものだ。
「おまえは新刊を出せ」
「えっ、そんなに日にちないのに?」
「前日までに入稿しても本を出してくれる印刷所は山ほどある」
「そ、それはいいや。頑張ってみる」
せめて自分くらいは姉のような極道入稿をするのは避けたい。
「あ、姉ちゃん」
「ん?」
「俺、今度の新刊は、二人の気持ちが通じ合う内容にしたいと思ってる」
「ほう」
「あの漫画が終わったら、その次を書く気持ちになるかわからないけど高校を卒業するまでには終わらせたいと思っていたし、何より二人はそうなってもいいって思うんだ」
「いいんじゃないか」
「ふぇ?」
あまりにもあっさりと許可されたので思わずおかしな声が出る。
「どうしたらいいのか、と聞かれれば答えるが、おまえの中で答えが出ていることならそれでいい。描いている作者が一番登場人物の気持ちがわからないといけない。そう思わないか?」
「それはそうだけど……」
「存分に甘いページを増やせ。読者サービスは大事だ」
「なにそれ。わかった、頑張ってみる」
甘いページが読者サービスになるのか、わからないけれど、姉が背中を押してくれた気がする。三田村のような読者が喜んでくれるように、最善を尽くそう。カメラケースと三脚を抱えているのに、玉城の足取りは軽かった。
そして撮影会当日、三田村が時間通りにインターホンを鳴らし、玉城が迎えた。
「お邪魔、します」
「おう」
目の前を通り過ぎた三田村からは、ふわりとシャンプーの香りがした。ここに来る前に風呂に入ったのだろう。ただの石鹸の香りなのに、性的なものを感じてしまう。まるで抱かれる前提で準備してきた相手を迎え入れるかのような。リアルにセックスをする前というのはこういうこともあるのだろう。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。先に入っていてくれ」
香りで体が反応するなんて、さすが思春期だ。ひとまず一人になった玄関で素数を数え、気持ちを落ち着かせる。こういう嗅覚というのは、漫画では伝わらないがこんなにも緊張感を煽られるものだとは。
「なっ……三田村?」
部屋に入ると、すでに三田村が上半身を脱ぎ始めていた。
「え、あ、もう三脚もセットしてあるし、すぐに始めるのかなって思って……」
「すぐじゃなくていいから、とにかく服を着ろ!」
「う、うん」
三田村は、脱ぎ掛けたロンTをまたすっぽりと頭からかぶる。
すぐに目を背けてしまったが、思った以上に色白の肌と服の上からでもわかっていた細身の体は裸だとより華奢に感じられた。男の体というよりは、未成熟な少年の体に近い。
「一応、遠隔でシャッターが押せるリモコンもある」
「すごいね、本格的だね」
持っていたリモコンを見せると、三田村は感嘆の声をあげた。
「とりあえず飲み物でも……」
「あのね、玉城くん、僕から提案があるんだけど、聞いてくれる?」
「なんだ?」
三田村は恥ずかしそうに目を背ける。
「あのさ、シャッターもあるなら、その……二人で撮らない?」
「は? 俺も?」
「実はね、二人のポーズ集ってやつを買ったんだ! こういう具体的なほうがいいんじゃないかって」
持っていた鞄から取り出した本を三田村が開く。中身はポリゴン状の人型が2つさまざまなポーズをとっている本だった。
「へぇ、こういうのあるんだ」
「いくつかボーイズラブで使えそうなシチュエーションもあるし、ここから使えそうなの、玉城くん選んでよ」
「俺が選ぶの?」
こくこくと頷く三田村。
「じゃあ、これとか、これかな」
実際に使いそうな手を繋ぐシーンや、背中合わせになるシーンなどを指差す。
「なるほど、いいね」
「あ、まてまて、服は脱がなくていい」
「えっ」
脱ごうとしている三田村を制止する。
「裸で手をつなぐってどういうシチュだよ。いまんとこ服を着たままでもいいから。あ、こっちの白い壁を背景で想定して三脚を置いてあるから……三田村そこに立ってみて」
「うん」
三脚に固定されているカメラのファインダーをのぞく。ズーム、アウトを繰り返し三田村の顏をじっくりと眺める。
ああ、なんだか盗撮している気分だけれど、悪くない。
「あっ」
思わずシャッターを押してしまい、ピピッと記録された音がする。
「いい顏してたから撮っちゃった」
「ちょっと……恥ずかしいじゃん……」
頬を朱に染めて照れる三田村を見つめる。やっぱり三田村のすべて、心に焼き付けたい。
いっそ、自分の元に届く写真なら好きに決めさせてもらおう。玉城はポーズ集をこちらから見えるように置いて、三田村に指示をする。
「手、つなぐぞ」
「うん」
ひんやりとした小さい手を玉城のひとまわり大きな手が包む。合法的に三田村に触れて、どきどきと鼓動が早くなる。
「押すぞ」
手元のシャッターを押すと、数秒してピピッと音が鳴る。
「見てもいい?」
「ああ」
三田村に撮影した画像を見せる。一眼レフのデジカメなので、すぐに確認も可能だ。
「わ、なんか仲良しカップルみたい!」
「俺の愛想のない顏が、ひどいな」
「えー、そんなことないよ。僕、前から玉城くんはイケメンだって思ってた」
「え……」
「よし、次いこー!」
三田村が自分に対して興味を持ってくれていたという事実に、きゅっと胸が締め付けられる。ただのクラスメイトから、もう一段、階段を上がったみたいで、照れくさい。やらされているとはいえ、手を繋ぐことができた。それだけで幸せだ。
その後も、肩を抱いたり、頬を両手で包んだり、玉城が希望するポーズを三田村はすべて笑顔で応じてくれた。ありがたいことに、面白がってくれてとても楽しんでくれているように見える。お互いの額と額をつけるポーズでは、三田村が目をつぶって迎えてくれて、こつんと額があった瞬間、これが幸せっていうんだろうなと疑似体験をした気がする。もういっそこの写真をデータ保存しておきたい。この先、どんなつらいことがあっても、この写真があれば乗り切れる気がする。
「よし、だいぶ撮ったな。これだけあれば十分だろ」
「服、脱がなくていいの?」
「ああ、服のままで大丈夫だった」
大丈夫だと言っているのに、三田村はなぜかがっかりしたような表情をしていた。脱ぎたかった? いやそんなはずはないか。
「そういえば気になってたんだが、この付箋がついたページはなんだ?」
「あ、それは!」
ページをめくると、そこは「禁断のベッドシーン」というタイトルが載っていた。付箋が貼ってあったのは、片方で相手の腰を抱き、片方で愛おしそうに相手の髪を撫でていて、キスをしていた。今まで撮影した中にはないような、密着度の高いポーズだ。
「三田村、これ、撮りたかったの?」
「え、えっと、もし玉城くんが嫌じゃなければ……」
「でも、これ、キスしてるけど」
「……」
キスをしているポーズだということを認識して、それでもこれが撮りたいと思った、という解釈をしてもいいのだろうか。
「俺はいいよ。三田村、そこに立って、背をむけて……そう」
玉城の指示に素直に従う。玉城はカメラの位置を変えて、三田村の前に立った。
「いいんだな?」
俯いたままの三田村はこく、と頷く。それを確認して玉城は三田村の腰を自分に引き寄せた。
――考えたらダメだ。勢いで終わらせよう。
そのまま自分の胸に三田村の体が傾く。そして髪をかきあげるように顏を上に向かせる。三田村の潤んだ瞳が震えながら玉城を捉えた。
ポーズ集を横目で見て、鼻が当たらないように顏をずらすようにして、そのまま唇を重ねる。それだけでいいはずだ。
「……三田村?」
抱えている三田村の腰は小さく震えて、こわばっていた。さっきまでよりも明らかに力が入っている。目をぎゅっとつぶり、今にも嵐が過ぎるのを待っているかのようだった。
なぜ三田村はこのポーズを選んだのか。まきじゅんにあげるために、自分が嫌でも我慢するつもりなのか。
今の三田村は自分のことが好きでキスを望んでいるわけではない。
玉城は持っているリモコンをぎゅ、っと握りしめた。それならば、とるべき行動はひとつしかない。
「このポーズはやめよう」
「え……」
三田村が驚いて目を開ける。
「こういうことは好きな人としよう、な」
ぽんと三田村の頭を撫でた。
そうだ、三田村の大事なキスをこんなかたちで奪いたくはない。三田村には好きな人とキスしてほしい。このポーズの写真をまきじゅんである自分の手元に届いたとしても、きっとむなしいだけだ。
「……ごめんなさい」
三田村のか細い声が、玉城の耳に離れなかった。
それから三田村はこの場に居づらくなったのか、「用事を思い出した」と言って早々に帰って行った。本当は借りた本の話もしたかったけれど、三田村の体ぜんぶが自分を拒絶している。そんな気がした。
けれど同時に気づいてしまったことがある。自分は三田村のことが好きだ。
好きだと自覚してから、自分に向けられた三田村の表情が、申し訳なさそうな顏だなんてつらい。笑顔が眩しくて、愛しい存在であるはずの三田村が明らかにいつもと違った。あのままキスしてしまえばよかったのか。そうしたらきっと自分がむなしくなるのだ。だからこれでよかった。そう思うことにした。
その日の夜、カードに記録された撮影データを整理した。終始笑顔で撮影に臨んでくれたのに、最後のポーズだけはどうしてあんな表情だったのだろう。
怯えているような、怖がっているような、そんな顔だった。
――俺が、あんな顏をさせたのかな。
笑顔の写真はたくさんあるのに、最後の最後でだいなしにしてしまったのかもしれない。三田村に拒絶されたことは自分にとって大きなダメージになったのは間違いなかった。クラスメイト以下になってしまったのではないだろうか、それだけが不安だった。
結局、撮影データはDVDに焼いて、週明けに三田村に渡した。
「じゃ、まきじゅん先生に送っておくね」
と三田村は笑顔で答えたが、それがどことなく不自然な笑顔で、いつもの眩しい三田村の笑顔ではなかった。
三田村のことは気になったけれど、自分はまきじゅんとしての役割を果たさなくてはいけない。それからすぐに新刊のネームを起こして、準備が始まった。入稿締切が間近に迫った状態からのスタートだったので、タイトなスケジュールにはなったが、とにかく集中した。
そんな日々の中、三田村からの手紙は届かなかった。毎日、姉の事務所に自分あての手紙が来ていないか、確認した。姉からは「いつ送ったか聞いてみたら?」と郵便事故を気にしてくれていたが、別の人からのファンレターは届いていたし、三田村の名前を使わないかもしれないと思ったが、それでも写真データが同封されているような手紙もなかった。
新刊の内容は、淳が涼平の気持ちを受け入れるというクライマックスだった。三田村との関係がぎくしゃくしている今の気持ちのまま、こういう展開を書くのは苦しかったが、いつ写真が届いてもいいように、バックアップしておいた写真データをいくつか参考にしながら漫画にした。最後のキスシーンは、二人が撮影することのなかった構図で描いた。写真として残っていない構図を描いてしまったら、自分がまきじゅんだということがバレてしまう。それは理解していた。けれど、玉城の中ではどうでもよくなっていた。
――もう、まきじゅんとして漫画を描くのはこれで最後にしよう。
そう思うようになっていた。
「この漫画のモデルが、デジカメに写ってた男か」
「へ???」
印刷所からの新刊サンプルに目を通していた姉からの突然の指摘に、玉城は持っていたコーヒーを落としそうになった。
「デジカメって、え、あ、ええっ?」
「あー、そっか! あの子もこんな垂れ目のかわいい子でしたね」
「ちょ、映子さんまで?」
「見ましたよー!」
「しょうがないだろ、カードにデータが残ったままだったんだから」
「マジかよ……」
よりによって姉とアシスタントみんなで鑑賞することないじゃないか。
「で、これが、お前が描きたかった二人の結末なのか」
「そうだけど……」
「ふーん」
姉はそのまま新刊をテーブルに置いて、自分の席に戻っていった。いつもなら良くも悪くも、過剰に批評してくる姉が珍しいと思ったが、あまり深く考えず、イベントに行く映子と美子に新刊を委ねた。
これでやっと新刊の準備がすべて終わったのだった。
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