「おい、こらクソ姉貴!」
自分の家から徒歩5分くらいにある事務所の扉を勢いで開けると、上下ジャージ姿で黒ブチ眼鏡をかけた干物女が応接のソファに寝転び、アイスを片手にスマホをいじっていた。
「クチの聞き方気を付けろ、クソガキ。ここに来たら、先生だろーが」
「今は原稿してねーだろうがよ」
姉は、入ってきた玉城を見ることなくソファでくつろいだまま罵声を浴びせた、この干物女こそ、今では日本一の少女漫画家として名高い、たまきあいこ先生、すなわち玉城の姉なのだ。
「潤也さん、こんばんはー」
「あれ、映子さん、こんな時間までいたの? 今日入稿終わったんじゃ」
遠くで雑用をしているアシスタントの映子が声をかけてきた。姉の事務所には通常、アシスタントが出入りしていて、過酷な締切を乗り切るために仮眠用のスペースも用意されているが、ちょうど今朝締切が終わったところのはずなので、こんな時間までアシスタントがいるなんて珍しい。
「明日から先生に描いてもらう原稿を用意してました」
にっこりと微笑んだ映子はラフな格好の姉と違って、淡いピンクのブラウスに白いスカートといった清楚な装いをしており、たまきあいこの作品に出てくる女性キャラのようなふわふわゆるゆるな人だ。映子は以前から姉の作品の熱心な読者であり、漫画家を目指すために去年くらいから姉のアシスタントを始めたらしい。
「あれ、潤也くん来てたの? お茶いれようか」
お盆にお茶を三つのせて部屋に入ってきたのは、姉のアシスタントを長く続けている美子だ。こちらはボーダーのロンTにデニムというラフな格好だ。
「こんばんは。美子(よしこ)さんもいたんですね」
「うん、さっきまで先生と映子さんと打ち上げしてて、今、片付け終わったところなのよ」
「あ、なるほど。それはお疲れさまです」
「で、あんたは何の用なの?」
「そうだ! おまえ、なんてモン描いてんだよ!」
姉とは違って穏和なアシスタント二人に癒されて、あやうくここに来た目的を忘れるとこだった。
「何が」
「何がって、アレだよ……アイコ名義の」
「ひっ」
映子が持っていた書類をバサバサと落とした。湯飲みをテーブルに置いていた美子も驚いた表情で慌てて振り返る。
「じゅ、潤也くん、まさか先生の『落とし前はおまえのケツで6』を読んだの?」
「なんつータイトルだよ」
そもそも、尻で落とし前つけるヤクザなんてどこにいるんだという話だ。
「潤也、表紙の成人マークが見えなかったのか? 十八才未満童貞は読んだらダメなんだぞ」
「ど、童貞は関係ないだろ! 読んでねーよ、ちらっと見ただけだ」
意図的にフォルダを開けたが、読んでいないのは事実だ。うっかり開いたページは完全にヤッているシーンだった。
「ほら先生、だから言ったじゃないですか。潤也くんのためにも、あのフォルダはアクセス権つけないと」
「別に構わん。あんなぬるいBLじゃ、ズリネタにもならんだろ」
「アレがぬるいとか、おまえの貞操観念おかしいぞ。つーか、BLで抜かねぇよ」
「潤也さん、そんなこと言わないでください! 先生のヤクザ受けシリーズは大人気なんですから」
「ヤクザ受けシリーズ……」
シリーズになるほど描いていたのか、という驚きの気持ちだ。そういえばさっき6だと言っていた気がする。おそろしい。
「先生のBLは骨太でいいですよね。普段の連載とは雰囲気が違って、それもまた魅力的です!」
「普段と違いすぎて、俺の中で整理できてませんけど……」
きらきらふわふわな外見の映子があのエロ漫画原稿を手伝い、しかもアレを絶賛しているというのも新たな衝撃だ。
「潤也くん、世の中はエロを求めているのよ」
「そうだぞ。何より売り上げが示している。BLはエロがあってなんぼだ」
美子と姉が自分に向かって力説している。
「乙女も腐女子も味方につけてる姉ちゃんが怖ェよ」
少女漫画もボーイズラブ漫画も売れているたまきあいこは、向かうところ敵なしといったところか。
「で、おまえは、そんなことをわざわざ言いにきたのか」
「あ、いや……」
勢いで事務所に押しかけたのは、文句を言いに来たのではない。
「聞きたいことが……その、あって」
「明日にしろ」
「おい」
なんという、秒殺。しかしアシスタントに打ち上げの片付けをさせて、ソファで寝転がってスマホをいじっている大先生が忙しいようには思えない。
「聞くだけ聞いたらすぐに帰るし……」
「めんどくさい」
「その、なんで姉ちゃんは、俺にあの漫画を世に出せって言ったんだ?」
見るからにめんどくさそうな表情をしていた姉だったが、その言葉は耳に届いたらしく、初めてスマホから視線を外して玉城のことを見た。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「いや……なぜって」
「あの漫画って、潤也くんの『ボーイズラブは突然に』のこと?」
映子と美子も気になったのか、自分たちに近づいてきて姉の座っているソファの向かい側に並んで座った。
「はい。俺が描いてるあの漫画のことです」
姉に見せて同人誌にすることを勧められた経緯も、その内容もアシスタントの二人は知っていた。
「私、潤也くんのあの漫画好きですよ! 主人公がまっすぐに相手を思う気持ちが伝わってきて」
映子が笑顔で語る。
「あ、わかる。キャラもかわいくて、漫画としての完成度も高いよね。さすがあいこ先生の漫画をずっと見てきただけのことはあるなぁって思った」
美子も、映子の言葉に賛同した。
「あ、ありがとうございます」
改めて褒められるとなんだか恥ずかしい。普段は姉の原稿を手伝っている戦友のような存在の二人であり、身内のような存在の二人でもあるからだ。
「私の答えは映子に近いな」
「えっ」
「あの漫画は初めてにしてはよくできていた。もともとおまえはセリフ、コマ割りの技術は私の原稿を常に見ているだけあってそのへんの駆け出しの漫画家よりも上手いし、問題ない。だから同人誌としてなら、すぐ世に出してもいいと思った」
「あ……ありがとう」
「あの漫画を読んだら、たいていの人間は主人公の涼平のことを応援したいと思うだろう」
姉に自分の漫画を褒められるなんて、いやそもそも姉は自分が少女漫画界の頂点だと思っている節があり、誰かを褒めるなんてめったにないので、純粋に驚いた。
「でも、俺の漫画、まだBLとは呼べないんじゃないかって思う」
「どういうことだ?」
「さっき姉ちゃんも美子さんも言ってたとおり、世の中はエロいことを求めているとしたら、俺の作品にはそれが圧倒的に足りないと思う」
そもそも自分は三田村に教えてもらうまでボーイズラブ漫画の知識がほとんどなくて、男が男を好きになることだろう、くらいしか知らなかった。しかし、今日、ボーイズラブが奥深いジャンルだということに気付かされた。そして自分が思っている以上に男同士の恋愛は進んでいて、セックス描写も多く、読者がそれを望んでいることも知った。何より姉の作品もそういった描写の多いもので、そうしたニーズを先取りしていた姉は、それをちゃんと理解した上で作品を作っていたのだろう。
それなら今の自分の作品はどうなのか、中途半端に男同士の恋愛を描いているのではないか、と一気に不安になったのだ。誰かに意見を聞いてみたくて、不本意ながらも一流漫画家である姉を訪ねたのだ。
「確かに、さっきも言ったがBLはエロがあってなんぼ、という考えは否定しない」
姉が体を起こし、座り直した。
「だったら……」
「確かに、何も考えずエロい描写だけを楽しむ作品もある。しかしそれならイラストでいい。漫画である意味はそこにある。ページをめくるたびに読者を引き込ませることが一番大事で、読者が応援したくなる二人じゃないと意味がない」
「……」
目の前の映子と美子は、うんうんと頷きながら姉を見つめている。
「エロがあればいいとは言ったが、大事なのはエロに至る過程だ。その先にエロがあるかどうかは、話の展開次第だし、その二人が望まなければ、その二人にエロが必要なければ、なくたっていい」
「そういうもんか……」
「淳と涼平がどうなるのかを、今のおまえがわからなくてもいい。描けば見えてくる。結末を焦らず、今は二人の気持ちが近づいていく過程をしっかりと描け」
姉が以前「二人はまだ付き合わないほうがいい。引っ張れ」と言った意味がようやく理解できたような気がした。姉はすでにこの漫画の本筋を理解していたのだろう。作者である自分よりも早く。
「潤也くん、私も続き楽しみにしてますから!」
「春になったら新刊出しましょうね! 私達、売り子がんばりますから」
「ははは……ありがとうございます」
玉城の気持ちはすっきりと晴れたわけではなかったが、落ち着きを取り戻したことだけは間違いなかった。
――たまきあいこってやっぱりすごいんだな。
それだけははっきりと認めざるを得なかった。
姉の事務所から自宅までは徒歩で5分程度の距離だ。ふと思い立った玉城は歩きながら、持っていたスマホで宣伝告知用に作った自分の創作用のアカウントにログインをした。普段は、イベントで本を頒布する、という情報を知らせるときにしかアクセスしない宣伝用のSNSアカウントだが、ログインしてすぐに一気に通知が押し寄せる。多くのリプライやDMが届いているらしい。
「ははは……すげえな、みんな読んでくれてるんだ」
ざっと通知に目を通すと、通販が始まった新刊を手に入れた喜びと感想がびっしりと届いていた。
『涼平くんがかわいくて萌えました』
『淳の煮え切らない態度が逆に尊い!』
『二人のことを応援しています』
自分の描いた二人を応援してくれる声が、玉城の心にじんわりと染みる。しかも読んでくれた人たちは、身内ではない知らない人たちだ。当然知り合いでもなければ、友達でもなく、ただ作品の作者と読者という繋がりしかないネット上の人間同士だ。
それに、ついこないだ確認したときは三十人程度だったアカウントのフォローが五百人を超えていることにも気づく。
『二人が幸せになりますように』
ぽつりと書かれたその言葉に、玉城は頭を殴られたような気がした。
「そうだな。二人を幸せにしてやらなきゃな」
自分の分身だったはずのキャラクターは、多くの読者に愛され始めている。ボーイズラブとはなんたるや、を考える前に、自分は二人を幸せに導いてやらなくてはいけない。それができるのは自分だけなのだ。
「もうちょっと頑張ってくれよな、涼平。おまえの気持ちはきっと淳に届くから」
家に着くなりベッドにダイブし、ようやく気持ちの整理がついたからなのか気づけば寝落ちていた。徹夜だったことを体がようやく思い出したのか、朝までぐっすりと眠りについた。
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