「ユリス、いびきうるさいよ」
日が昇って、寝室から出てきた惣治は、居間の片づけをしていたユリスから挨拶を受けるなり、寝惚け顔で苦言を呈した。
「私ではありませんよ。フィラではありませんか?」
「いや、あれユリスでしょ」
流音が聞き咎めると、ユリスはいよいよ首を傾げた。
「いつも椅子に座って仮眠してる時は静かなのに、昨日のは凄かったわよ。ヒグマが入ってきたのかと思ったもん」
「そんな大袈裟な……」
夏目にも散々言われたが、ここでも言われるとさすがに信じざるを得ない。が、グラディアにいた頃も指摘されたことがないだけに、祖界の人の耳が良過ぎるだけではないかと、疑念も生まれる。
「おー、起きたか惣治」
と、そこへ家主の惣助が、フィラとクロナを連れて居間に入ってきた。
「おはようございます、惣助さん。狩りの成果は如何でした?」
「うん、エゾシカ一頭にタイリクシマイノシシが十頭。エゾシカは仕留めたから今夜食べるが、タイリクシマイノシシは牧場で飼うことにした。みんなピンピンしてるしな」
罠で捕まえた当事者らしく、惣助は得意顔で答えた。
中標津の市街地から、三十分ほど北に上がったところにある牧島牧場は、牧島家のルーツであり、今は邸宅が別荘として残されている。牧場も牧島家に縁のある人々によって維持されているものの、営利目的の運営からは解放され、牧島家の趣味として、半ば動物園のような形で一般公開されていた。
「ねぇフィラ、昨日の夜どうしてた?」
「え? 惣助さんと一緒に狩りに行ってたけど」
「ほら、やっぱり」
「何の話?」
「ユリスのいびきがうるさいって話」
冷蔵庫から取り出した牛乳をマグカップに注ぎながら、台所から惣治が答える。
「あー、そういうことね。それ、酒のせいじゃないかな?」
「そんなことはないでしょう。そんなに飲んだ覚えはありません」
ユリスは毅然と否定するが、そこへクロナが、
「流音と一緒に飲んだんだったら、結構な量でしょ。この子酒豪なんだから、お酒弱い人が一緒に飲んだら潰れるわよ」
「あ、うん。この子べろんべろんだったわ」
ぐうの音も出ず、ユリスは目線を逸らす。
「エルフってアルコールに弱いから、下手に飲むといびきかいたり寝相悪くなるんですよ。僕の姉もかなり酒癖悪かったんで、こうならないようにしようって誓いましたもん」
「それは森エルフのことでしょう」
「いや、君らも大差ないから」
「この状況で張り合わなくても良いでしょうに」
「まぁ無呼吸じゃなきゃ構わんだろ。ユリスは隙がないからな。そういう愛嬌も良いもんだ」
快活に笑い飛ばして、惣助はソファに座る。
「惣治、お前今日、母さんのとこに行くか?」
「行くけど、父さんは行かないの?」
「父さんは工場に顔を出してからだな。まぁ昼には顔を出せると思うから、先に行っててくれ」
郊外にある牧島乳業の工場は、東京移転までは本社として使われ、今も商品開発を担っている重要拠点だ。北海道に来たからには、社長として顔を出さないわけにはいかない。
それは惣治も分かっているが、子供心に納得はできなかった。
「どうせ今夜パーティやるんだから、その時に顔見せするじゃん」
「そうもいかんのだ。分かってくれ、惣治」
不満顔の息子を宥めて、立ち上がる。
「流音とユリスは、惣治と一緒に病院に行ってくれ。私の護衛はクロナだけで構わん。エゾシカの準備とタイリクシマイノシシの餌付けは、フィラに任せる」
それだけ言い残すと、惣助は私室へ戻った。
「仕事バカ」
吐き捨てて牛乳を一気飲みし、マグカップをシンクに置く。
「シャワー浴びてくるから、流音とユリスは準備して待ってて!」
膨れっ面のまま惣治が浴室へ向かうのを見送ると、ユリスは流音と一緒に車庫へ向かった。
◇
「――さっさと着替えなさいな」
狩猟着のまま机に座って、窓から外の様子を見下ろす惣助に、ノックもせずに部屋に入ってきたクロナが急かす。
「早く行って済ませてしまえば、晴華と会える時間も増えるでしょうに」
「シャワーで汗を流したいんだよ。だが惣治が使ってるからな。待つしかないだろう」
クロナが傍まで行くと、玄関の前ではセダンが停まって、ユリスと流音が荷物を詰め込んでいる。
使用人を待たせている若旦那の行動はお見通し。その辺りはさすが親子といったところか。
「惣治は私に似てしまったな」
惣助の独り言に、クロナは向き直る。
「あのすぐ不貞腐れるところ。小さい頃の私そのままだ」
「いやぁ、あれは晴華似ね」
自嘲する惣助に、クロナは首を振る。
「あの膨れっ面とか、お前さんがデート中にタイリクシマイノシシと遊び始めた時の態度そのままじゃないの」
「あぁ、それは確かに……晴華はよく膨れっ面になるもんな」
「お前さんに似てるところはあれかな。生意気なところと、変に怖いもの知らずなところね」
遠くに見える海を眺めながら、クロナは懐かしげに笑う。
「普通、魔族を連れて帰ろうとはしないでしょうにね。手を思いっきり引っかかれて熱で魘されるし」
「それお前と初めて会った時の話だろ。あれは痛かった。あれほど痛い思いは、今後絶対にせんだろうな」
そう言って惣助は左の手のひらを見て、静かに笑う。長い年月と新世界の薬草のおかげで、傷痕は残っていないが、切り裂かれた時の感触と痛みは思い出すことができる。
「まぁ今は感謝してるわ。お前さんに楯突く奴は皆殺しにしてやるくらいにね」
「よく分からん物差しを出すな」
惣助は苦笑して諫めた。
◇
結局昨晩、仕堂と護藤が帰ってくることはなかった。
「いやぁ、安心しましたよ。娘がテロリストになっちゃったって、みんな心配してましたから」
ビジネスホテルを出て、そば屋に迎えに行った夏目と芦川を迎えたのは、店主である女子大生の母親だった。昨日の殺伐とした空気が嘘のように、何とも穏やかな笑顔だ。
「やっと冤罪が晴れたわ。ま、もう大学には戻れないけどね」
一方、相変わらず荒んだままなのは、当事者である女子大生・瑞希だった。
「それはうち関係ないから」
疲れ切った様子の仕堂が嗄れ気味の声を絞る。仕堂の様子と、目の下に隈を作っている瑞希の様子から、昨晩どれほどの修羅場だったのかは、想像に難くない。
「はあ!? あんたらのせいで無期停学になったんだけど? 国家賠償しなさいよ!」
「じゃあ内務省訴えりゃ良いじゃん」
「勝てるわけないでしょ! どうせ裁判所も政府の肩持つのよ。知ってるんだからね!」
本当に左翼なんじゃないかと疑いたくなる物言いだが、実際のところテロの嫌疑をかけられた者が国を訴えて勝てた判例は存在しない。それほど内務省の力が大きいのもまた事実だ。
「あの、ちょっと良いかな?」
座敷で荒れる女子大生に、芦川が声をかける。憲兵隊の制服を着ているだけあって、怖いものなしといった様子の瑞希も、さすがに強張る。
「大学にはもう退学届けは出しちゃった?」
「まだですよ。出したくないし。でも、もうすぐ除籍になると思います。学費払ってないし」
「じゃあ、何とかなりますよ」
やさぐれた自嘲の女子大生に、芦川は断言した。
「公安庁がテロリストじゃないって判断してるんだから、無期停学処分を続ける正当性はないですからね。そうですよね、桐生さん?」
「そうですね」
夏目は頷く。
「でも、大学に抗議したところで裁判になるだけですよ?」
「裁判はしません。コネでどうにかします」
冗談めかして言いつつ、真面目に続ける。
「文部大臣の古川さんとは面識がありますから、僕から話して、文部省から大学に解除するよう伝えてもらいます。早ければ、新年度から復帰できますよ」
「ほんとに……?」
「えぇ、任せてください」
「やったじゃないの、瑞希! あんたのお友達に教えてあげな!」
抱き合って喜ぶ母娘を尻目に、芦川が立ち上がって、
「じゃあ、ちょっと電話してきますから」
スマートフォンを手に、小走りで店を出ていく。夏目はそんな芦川を見送ると、ようやく解放されて安堵した仕堂に、
「ねぇ、護藤くんは?」
「奥で寝てますよ」
そう言って、バックヤードの奥を指差す。
「起こしてきます?」
「後で良いわ。それより、この後聞き込みに行くけど、大丈夫?」
「大丈夫……じゃないです。眠いです」
様子から察するに、一晩中寝ずに釈明につき合わされたのだろう。
東京を出発してから、仕堂と護藤が寝ている姿を見ていない。完徹状態で動き回っても、成果は挙がらないだろう。
「じゃあ二人であと二時間休んで、十時になったら辺りで聞き込みをやって。私は芦川さんと一緒に、中標津の方まで行ってみるから」
「了解です……あっ!」
重たげな目蓋をカッと見開いて、仕堂は手帳を差し出した。
「そうだそうだ。例のあいつら、中標津にいますよ!」
◇
二日前、中標津のホテルの駐車場から出てきた車に轢かれそうになった。頭に来て怒鳴りつけようとしたが、車に乗っていたのはやたら目つきの悪いロシア人の三人組で、おっかないから逃げてしまった。
そば屋の店主が従兄弟から聞いたというこの話を教えてもらうと、仕堂は店主からメールで写真を送ってもらい、その三人がマルカル・スポル、クリョア・ミッシ、ウラジーミル・ジリツォフの三人だと確認してもらったのだった。
「仕堂さん、あの状態でちゃっかり仕事をするなんて、さすがだなぁ」
夏目からメモの内容を教えてもらった芦川は、運転席で心底感心しながらそう呟いた。
「稚内でレンタカーを借りて、牧島市に入ったのは遅くても四日前。それで二日も居座っているということは、目的地は中標津で間違いないわ」
目的地が他にあるのなら、さっさと他所へ移動するだろう。留まり続けているということは、そこで何かを企んでいるということだ。
「芦川さん、彼らの狙いで何か心当たりはありますか?」
「一つ、大きなのがあります」
ハンドルを握る手を力ませながら、芦川は答える。
「今、牧島市に牧島家の当主が来ています。滞在先は間違いなく、中標津です」
開拓華族・牧島家。貴族院にも力を持ち、先代当主は農林大臣も務めたという名家。
テロの標的としては、申し分ない。
「牧島卿の行き先に心当たりは?」
宿泊先を襲撃するより、何かのイベントに参加したところを狙うのが定石だろう。牧島の予定が分かれば、そこから襲撃のタイミングを予測して、先回りすることができる。
「牧島乳業の工場と、牧島記念病院のどちらかだと思います」
芦川は淀みなく答えた。
「中標津の工場は元々本社だった建物で、今でも定期的に社長の牧島卿が訪れてます」
「なるほどね。記念病院の方も、そんな感じかしら」
「いえ、こっちは別の理由です」
リンカーンが市街地に入る。信号に引っかかりかけるが、芦川はアクセルを踏んで、押し通る。
「牧島記念病院には、夫人が入院してるんです。公表されてないから、これを知ってるのは地元の人か華族くらいのものですけど」
「じゃあ狙われる可能性が高いのは、工場に行った時ね」
目星をつけると、夏目はスーツの内ポケットから手帳を取り出し、それをダウンコートの外ポケットに入れる。
「芦川さん、警察署に行ってください。警備課に応援を要請します」
「分かりました」
「芦川さんは、私を降ろしたら工場へ向かってください」
指示を聞き咎めた芦川に、夏目はいたずらっぽく笑って、
「憲兵隊少尉がテロの危機が迫ってるって言ったら、迫力があって良いじゃないですか」
「公安庁の捜査官でも変わらないと思いますが……」
◇
中標津警察署三階の応接室に通された夏目と、署長、警備課長との面会は、早速の本題導入から五分後、言い争いに発展した。
「ですからね、いきなり乗り込んできて署員を寄越せと言われても、そんな簡単にはいかんのですよ!」
冬眠前の熊のように肥えた課長が、苛立ち混じりに声を張る。ソファで相対する夏目も退かず、
「公安庁の捜査に協力するようにとの通達は内務省から出てますよね? 昨日も大臣から話を通してもらってるはずです。それなのにテロ対策が任務の警備課が準備できてないなんてあるはずないでしょう」
「捜査は稚内でやるって聞いてたんだよ。それが何でこんなとこに来てんですか?」
「容疑者がこの中標津に潜伏していると分かったからですよ。捜査範囲は北海道全域、道警は方面関係なく要請に備え待機しておくのが当然のはずです」
「ったくもう、これだから東京の奴らは……」
「は?」
呆れたような物言いに、夏目は憤然とした声を漏らす。
「まぁまぁ、桐生さんも落ち着いて」
老齢の署長が媚びたような笑みで宥める。毒にも薬にもならなさそうな、警察としての威厳が感じられない人物だ。
「事情は分かりました。けど、そのテロリストは牧島さんを狙ってるんですよね? それなら私達の出る幕はないと思いますよ」
「どういうことですか?」
「いやだってね。牧島さんは優秀な護衛をお連れですし、ご自分で経営されてる警備会社の社員も工場に詰めてますから。その人達にかかれば、たった三人のテロリストなんて返り討ちですよ」
この人は自分が何を言っているのか、理解して発言したのだろうか。犯罪から市民の安全と平和を守るのは、警察の役目であり、大前提だ。私兵がいるからその役割を放棄して良いことにはならないだろう。
「まぁそういうことですから、この件は公安庁さんにお任せしますよ。課長、お引き取りいただいて」
「はい」
言葉を失っている間にトントン拍子で話は進み、署長と課長が立ち上がる。
「あなた達、それで牧島卿の身に何かあったら、どう責任を取るつもりですか?」
「大袈裟だなぁ。だから言ってるでしょ? あっちは警備員雇ってるんだから、問題ないって。ほら、さっさと帰んな」
「言っときますけど、本件の対応については内務省にも報告させていただきますからね。田舎の犯罪と違って、隠蔽なんてできませんよ」
声を荒げる夏目から、鬱陶しげに背を向け、署長は窓の方へ向き直る。
「……何だあれ?」
応接室から夏目を追い出そうとする課長を尻目に、曇り空を仰ぐ。
瞬きする間に視界を覆うそれが何なのか分からぬまま、轟音とともに、署長は爆風に弾け飛んだ。
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