世界の最果てに佇む猟犬と新世界の彼方で吼える忠犬

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第40話

公開日時: 2021年6月8日(火) 18:33
文字数:8,047

 BTRの機関砲の掃射を掻い潜り、クロナが舞う。


 和服の袖を羽のように靡かせると、細い手が枯れ枝のように伸びて、その先にナイフのような爪を生やす。


 BTRの真上から、落下と同時に右腕を薙ぐ。鋭い爪が装甲を切り裂き、中にいた兵員もろとも羊羮のように六等分する。


 斬撃の反動と爆発したBTRの爆風に乗って、クロナは五メートルほど手前に着地すると、視界に敵を捉える。正門脇の庭木に、身を隠したロシア陸軍の歩兵一人。さらにその手前、警備員用のバンの陰には、二人隠れている。


「手前の二人は私がやるから、あなたは奥の一人を仕留めなさい」


 インカムに吹き込んで、地面を蹴る。同時に、車の裏に隠れたロシア兵が銃口を向け、発砲する。


 クロナは両手を握ると、無声音で呪詛を唱え、左右の拳を車体めがけ突き出す。鋼のような硬さを纏い、触覚のように伸びた腕は、車体もろとも、その陰に重なっていた兵士の腹を貫いた。


 銃声が響き、銃弾が耳元を掠める。庭木に隠れた兵士の抵抗は一発で終わり、クロナが向き直った時には喉を弓矢で射抜かれ、芝生に倒れてのたうち回っていた。


 肩がついたと油断しかかるが、近づいてくる猛々しい羽音と、後方から届く銃声を聞き取って、車体を飛び越え身を隠す。


「しつこいわねぇ……」


 ピストル型の注射器を首元に突き刺し、魔素を取り込む。魔族ならば特筆することもない、初歩的な魔法だというのに、この身体では消耗に追いつかない。


 羽音の主が視界に現れると、空になった注射器を投げ捨て、インカムを取る。


「フィラ、ヘリが来たから吹っ飛ばして」


『了解』


 Mi-24の機関砲が、クロナが隠れるバンを捉えると同時に、工場の窓から矢が放たれる。新世界南部・バラティナ連合王国が魔族討伐のために編み出した、魔術礼装による武器強化。弓矢に使えば、ヘリの装甲を射抜くことは容易い。


 曳光弾のように翡翠色の光の軌跡を残した弓矢は、ヘリの操縦席を貫き、プロペラを吹き飛ばした。機体は駐車場に墜落して、歩兵を蹴散らす。


 クロナは工場の陰から悠然と出ていき、残党に向かっていく。沈黙したMi-24の傍に倒れた歩兵は、クロナを認めてAKを向けるが、引き金にかけた指が動くより先に、クロナの右手の爪が防弾ベストのプレートごと心臓を貫く。


 背後からロシア語が聞こえて振り返ると、同時に罵詈雑言らしき恐怖に震えるそれが呻きに変わった。弓矢に喉を貫かれたロシア人は、力なくその場に膝を突き、崩れるように倒れた。


『クロナさん、一個貸しですよ』


 インカムから聞こえてきて、工場を見上げる。窓から弓を掲げたフィラの得意気な顔に、あっち行けと手で払い、


「片づいたみたいだし、一旦引くわ。応援を寄越すから、見張りは任せたわよ」


『了解』


 返事を受け取り、クロナは社屋へ向かう。


 牧島乳業中標津工場は乳製品の生産工場を中心として、敷地の奥に三階建ての社屋を構えている。十年前に改装した建屋は、牧島乳業のイメージカラーの白で塗られていて、曇り空にはよく映える。


 正面玄関から入ると、米帝製の民生用自動小銃・M1Aを提げた男が二人、クロナを迎える。紺色の制服を着た彼らは、系列の警備会社の従業員。平たく言うなら、牧島家お抱えの傭兵だ。


「正門にフィラがいるから、合流して警備をお願い。あと、惣助は?」


「惣助さんは従業員とともに、地下のシェルターに移りました」


「どうも」


 警備員が正門へ駆け出し、クロナは通路を進む。


 地下シェルターは有事の際に従業員を守れるように作られた代物で、核攻撃にも耐えられるよう設計されている。水と食料は五日分の備蓄があるので、事態が収拾するまでは持ちこたえられると見込んでいる。


 階段を使って地下に降り、シェルターの手前に立つ警備員に鍵を開けてもらう。分厚い鋼鉄の扉が開くと奥へ向かうと、工場長と警備責任者とともにテーブルを囲う惣助が、クロナの気配を気取って振り返った。


「戻ったか、クロナ。状況は?」


「外の敵は片づけたわ。ロシア軍が大体二十人、装甲車とヘリまで寄越して、随分と大袈裟だったわ」


 民間の乳製品の製造工場を制圧するために送り込む戦力としては過剰だ。そもそも、制圧する必要すらないだろう。


「ロシア軍の狙いは私だろうな」


 惣助はロシア軍の狙いを冷静に考察した。


「政府と関わりのある華族で、仮にも財閥の総帥だ。ロシアからすれば、戦後講和を有利に進めるための交渉材料にはうってつけだろう」


 突然始まったこの軍事行動を、惣助は局地的なものと読んでいた。世界を巻き込んだ大規模な戦争のつもりなら、上陸する戦力はもっと大規模になるだろう。


 となれば、そう遠くないうちに講和会議が開かれる。その時に政財界への影響力を持つ人物の身柄を押さえておけば、日本政府の譲歩も引き出しやすいという魂胆だろう。


「ロシア人め、卑劣な真似を……」


「社長のことは、社を挙げてお守りします。なぁ、みんな?」


 話を聞いていた工場の従業員達が、工場長の呼びかけに呼応する。非常事態下でも万全の体制の中にある上、社長が居てくれる安心感からか、みな一様に工場長に賛同の声を上げる。


「ありがとう。その気持ちだけで十分だ」


 だが惣助は冷静だ。装備も人数も優る現役のロシア軍を相手に、このシェルターを守りきるというのは現実的な発想ではない。


「私はクロナとフィラを連れて、ここを離れる。ここにいては君達を巻き添えにしてしまうし、何より気がかりがある」


「そんな、危険です! いくらお供の方がついているとはいえ、街はもうロシア軍に占領されているかもしれないのに」


 引き留める工場長の隣から、クロナが、


「気がかりっていうのは、惣治と晴華のことね?」


 牧島記念病院に向かった惣治と、入院中の晴華。当主の惣助が狙われているのならば、その親族も標的にされるのは自然なことだ。


「病院まで行けると思うか?」


「まぁ軍相手だと命の保証はできないけど、それでも良ければ、ってとこね」


「それで構わん。惣治達が心配だ、合流しよう」


「社長、私もここを出るのは控えるべきと考えます」


 警備責任者の男が食い下がる。陸軍特殊部隊のOBとあって、体格は軍人出身の他の警備員達と比較しても見栄えが違う。


「少なくとも、護衛のお二人だけを連れての出発は、さすがに危険です。ここから病院までは二キロも離れていますし、占領された市内を病院まで進むとなると、かなり時間を要するはずです」


「では警備員から五人、私についてきてもらう。ここの警備は固いが、病院は人手が足りていないだろうからな。向こうの戦力補充にもなる。これで良いだろう?」


 工場の警備員は常時二十人体制で、その戦力は無傷で残っている。このシェルターを守るだけなら、ここから五人引き抜いたとしても影響はないだろう。


「人選は任せるが、君にはここに残って指揮を執ってもらう。出発は三十分後、それまでに準備を進めてくれ」


「分かりました。できるだけ優秀な者をつかせますから、どうかご無理はなさらず」


 警備責任者の男は渋々といった様子で頷き、工場長もそれ以上の引き留めは諦めた。ここまで言っても意見を受け入れられない時は、折れるしかない。社の幹部として、惣助の性格と家族への思いの強さはよく分かっていた。


「社長、どうかご無事で」


「あぁ、ありがとう。それと、 魔素の注射の備蓄はあるか? クロナに可能な限り持たせてやりたい」


「一階の医務室に十回分はあったかと。醐羅ごら先生は今日は来ていないので、全て持っていっていただいて構いません」


 工場長が挙げたのは、先代の頃から来てもらっているゴブリンの産業医だ。この工場には人間やドワーフの他にも、小人や亜人も勤めているが、魔法を扱えるのは醐羅の他にはいない。


「ではクロナと取ってくるよ。外の様子も見ておきたい」


「では我々で荷物をまとめておきます」


「ありがとう、助かるよ」


 謝辞を告げて、クロナとともに出口へ向かう。


「それにしても、芦川少尉はこのことを予見していたのか?」


 思い出したように惣助が呟くと、傍を歩くクロナがそれに応じる。


「あの憲兵が言ってたのはテロであって、ロシア軍の攻撃じゃないわ。偶然じゃない?」


「こんな偶然があるか。何か関係があるように思えてならんが……」


「探偵ごっこは病院に着いてからね」


     ◇


「――牧島卿にテロの標的にされてるおそれがあることは伝えたんですが、その矢先にロシア軍の攻撃が始まったでしょ? あっちには牧島卿の護衛がついてるから、僕は憲兵隊の分署に支援に行ってました。まぁ結局、通信設備も破壊されて連絡がつかず、何もできませんでしたけど」


 並んで床に座る夏目に、芦川少尉はばつが悪そうに笑って経緯を説明した。


 道道沿いのコンビニは、裏口に空挺軍のBMDによる砲撃を受けて半壊し、電源設備も破壊されたことで、照明も暖房も機能していない。バックヤードが砲撃で剥き出しになってしまい、身を隠すこともできず、二人はやむを得ず、レジの裏で息を潜めていた。


「それで、警察署にミサイルが着弾したって聞いたから、心配になって抜け出してきたというわけです。間に合って良かった」


「ほんと、助かりました。ありがとうございます」


 夏目は頷いて、傍の箱から拝借した缶コーヒーを飲む。


「それにしても、ロシアも思いきりましたね。ここまで本気で攻撃してくるなんて」


「みんなそう思ってるでしょうね。本当は良くないですけど」


 芦川は苦笑して夏目の軽口に応じる。


「ロシアとしては、ウラジオストクのテロを大東亜共同体の破壊工作と判断して、その報復措置としてやってるんでしょう。テロで面子を潰された上に、ルクセンブルク大公の親族を殺害されたとなれば、怒る気持ちは分かりますけどね」


「だからって、八つ当たりにも程があるわ。日本は関わってないんだから」


 テロを実行した白ロシア党と繋がりを持っていたのは、帝政中華の国家安全局だ。報復として軍事行動を起こすなら、相手が違う。


「そこは政治的判断でしょうね」


 芦川は冷静に答える。


「帝政中華に攻撃すれば、国境線が広過ぎるから全面戦争に発展する可能性が極めて高いですし、大韓帝国とは接してる国境が狭い代わりに、陸続きですぐに援軍を送られる。だから、主要国で身近にありながら、殴ってもすぐに援軍が来なさそうな日本が狙われたんでしょう。腹立たしい話ですが」


 そんな打算でここまでされるのは気分が悪い。それは夏目も同じだった。


「まぁ、日本政府もどこまでやる気なのかは分かりませんけどね。少なくともまだ核は撃ってなさそうだから、本気にはなってなさそうですけど」


 第二次太平洋戦争で互いに撃ち合って以降、無数に起こった三極の衝突で使われることのなかった核兵器。それが使われるとすれば、政府首脳が腹を括った時だろう。


 今はその状況にかなり近い。北方領土紛争の時ですら、使われなかったことが奇跡と言われていたのだ。本土を攻撃された以上、政府がいつその判断を下しても、不思議ではない。


 夏目は憂鬱なため息をこぼし、そして流した視線の先に、缶コーヒーを持つ芦川の右手を捉える。手袋を着けているというのに、その手は病人のように震えていて、手持ち無沙汰で床に置いている左手は、グッと拳を握っていた。


「……実を言うと、人を殺したの、さっきが初めてなんです」


 夏目の視線に気づいて、芦川は恥ずかしげに言って、左手を持ち上げる。右手と同じように、その手は震えていた。


「さっきから震えが止まらないし、正直気分も悪いです。情けない」

 理由はどうあれは、他人の命を奪ったという重大な事実を、まだ消化しきれていないのだ。


 それがどれほどの苦痛か、夏目はよく知っている。


「最初はそんなものですよ。私もそうだったし」


 夏目はそう言って笑いかけ、震える左手を握る。


「桐生さんも?」


「そうですよ。芦川さんと同じ、一年目の時です」


 落ち着いた声で、夏目は述懐する。


「建物の裏口から突入したら、ちょうど逃げようとしてた大学生がこっちに来たんです。金属バットで殴りかかってきたから、咄嗟に撃っちゃって……相手も同い年だって後で分かったから、余計に引きずっちゃいました」


 懐かしげに苦笑する夏目。それがどれほど辛いものだったのか、芦川は今手に取るように理解できた。


「桐生さん、本当に強いんですね。僕なら、耐えられないですよ」


「芦川さんだって十分強いですよ。私を助けてくれたし」


「あれは必死だったからですよ。桐生さんを守りたかったから……」


 漏れかけた本音に、夏目は目を丸くする。失態に気づいた芦川は、途端に焦って、


「あ、いやえっと……そうだ! 桐生さん、手袋とかコートとか着てないし、寒いですよね。これ、良かったら使ってください。かなりモコモコしてて暖かいから」


「いや、でもそれじゃ芦川さんが……」


「僕は大丈夫、北海道の寒さには慣れてますから!」


 コートと手袋を差し出す。その焦った様子がどうにも初々しくて、夏目は思わず笑ってしまう。


「じゃあ、お言葉に甘えます」


 手袋を着けて、コートに袖を通す。サイズは大きいが、邪魔になるほどではない。


「ほんと、モコモコしてて暖かい」


「でしょ? 北海道の羊毛を使ってますからね」


 赤ら顔の芦川に、夏目は左手を取る。


「落ち着いた?」


 手の震えは、いつのまにか落ち着いていた。


「はい……もう、大丈夫です。ありがとうございます」

「そう、良かった」


 芦川に笑みを返すと、夏目は近づいてくるロシア語のやり取りに気づいて、頭を低くする。


「ロシア軍ですね」


 立て掛けていたAK-12を取り、銃把を握る。


「芦川さん、バックアップをお願いします」


「分かりました」


 芦川はホルスターから、92式拳銃を抜く。


 人数は三人。流暢なロシア語は、目と鼻の先の自動ドアの前で止まった。


「――第一段階に失敗した以上、代替策に移行するしかない。そっちは大丈夫なのか?」


「問題ない。じきにクラスハも到着する。空挺軍の連中は憲兵の相手に手間取っているようだし、気づかれることもないだろう」


「それなら構わんが……」


 戦況は圧倒的にロシア優勢。だが彼らのやり取りには、些かの焦りが認められた。


「少佐の部隊で、お前の部隊以外に何人動員できる?」


「我々は全員がジリツォフの同志だ。隊長も含め、な」


「ジリツォフ……?」


 追うべき名前の登場に、夏目はやり取りを覗き込む。


 背を向けるロシア陸軍の戦闘服を着た歩兵が二人、背を向けている。そしてその奥には、見知った顔が陸軍の戦闘服を着ていた。


「なら全員で病院を包囲して、確実に殺してくれ。頼んだぞ」


「もちろんだ。帝国のために」


「帝国のために」


 合言葉のようなそのやり取りを聞き終えるより先に、夏目は立ち上がってAKの銃口を向け、引き金を絞った。


 単発で続けざまに十発。目が合った標的はすぐさま遮蔽に飛び込んで取り逃がしたが、背を向けていた二人には銃弾が食い込み、振り返ることもなく崩れ落ちた。


「マルカル・スポルを見つけた! 芦川さん、追うわよ!」


「は、はい!」


 レジを飛び越え、半開きの自動ドアの隙間から外へ飛び出す。


 通りに出ると、マルカル・スポルの後ろ姿を捉える。夏目はAK-12を構えると、足を狙って引き金を絞る。


 撃った三発のうち、二発がふくらはぎと太股を捉え、よろめかせる。被弾した右足を引きずりながら、マルカル・スポルはアパートの敷地に逃げ込む。


 夏目は後を追って、敷地に飛び込む。赤黒い血をアスファルトに広げながら、ロシア兵の格好をしたテロリストは地面を這っていた。


「両手を挙げて這いつくばれ!」


 AKの照準を胴体に向け、威圧的な語気でロシア語を紡ぐ。振り返ったスラヴ系の男は、冷や汗一つ浮かべず、青白い顔に平静を貼りつけ、そして静かに笑うと、呻くように何やら呟く。


 それが新世界の魔法の詠唱と気づくのに、時間はかからなかった。


「このっ!」


 引き金を絞り、銃弾が脇腹を貫く。だがマルカル・スポルは痛みを感じていないかのような無反応で詠唱しきると、迷彩服の下から染み出た血やアスファルトの血痕が傷口から体内に戻っていき、そして銃創も塞がっていく。


「西方の呪術……」


 破壊と再生の両方を与え得る、新世界西方の魔法。遥か昔のエルフの賢者が作り出し、魔族が歪め出来上がったそれは、聞くだけでそのおぞましさが分かる呪詛から発現され、術者に希望と絶望をもたらす禁忌の呪法だ。


 西方の呪術によって傷を癒したマルカル・スポルは、立ち上がって悠然と迫ってくる。夏目はAKの銃口を腹に向けると、セレクターを下ろし、今度は警告なしで発砲した。


 絶え間なく放たれるライフル弾に、マルカル・スポルは小突かれたように上体を揺らすが、その無表情は痛みを感じてなどいないようだった。そして弾が尽きると同時に夏目の首を掴み、アパートめがけ放り投げた。


「っ!」


 壁に背中を打ちつけ、地面に倒れる。明滅する全身の鈍痛に起き上がる気力を挫かれ、圧迫された肺が酸素を求めて喘ぐ。


「桐生さん!」


 追いついた芦川が、マルカル・スポルを背後から撃つ。92式拳銃で三発、うなじと後頭部を捉えて血飛沫を飛ばすが、平然と振り返る。


「っ……逃げてッ!」


 夏目が上擦った声で叫ぶ。怯んだ芦川は立ち竦み、襟を掴まれ、壁に叩きつけられる。


 夏目はホルスターから92式拳銃を抜く。テロリストがかざした右手を撃ち抜くが、怯む気配もない。


 右手の貫通銃創から、蔦のようなものが血のように溢れ出し、右手を覆う。腐りかけのような深緑のそれは、やがて刃のように形状を変えていく。


「……っ」


 おぞましい光景とそこから生まれた凶器に、夏目が戦慄する。そして手刀の切っ先が、芦川に振り下ろされようとした、その時――。


 夏目の目の前に、黒い靄が現れた。


 それが何なのかを理解するより先に、靄の中から人影が出てくる。夏目と同じくらいの背丈に、黒いローブを着込んだ人物は、マルカル・スポルに右手をかざし、無声音で呪詛を唱える。


 次の瞬間、芦川に振り下ろされたはずの手刀は、主の頭を貫き、後頭部から深緑の切っ先を突き出した。


「え……?」


 突然目の前で繰り広げられた自傷行為に、夏目は呆然とする。


 黒いローブを着た影は、マルカル・スポルのもとへ歩いていくと、懐から短剣を取り出して、それを喉に突き立てた。マルカル・スポルはみるみるうちに白くなっていき、やがて朽ちた石のようにバラバラに崩れ落ちた。


 芦川がその場に座り込む。黒ローブの影は芦川に関心を向けず、踵を返して戻ってくる。


 鍵穴のような模様を刻み込んだ仮面を被るその影は、男なのか女なのか、そもそも人間であるのかすらも怪しかった。夏目に分かることは、あのマルカル・スポルを容易く殺し、しかもあんな姿に変貌させるような怪物に、対抗する手段を持ち合わせていないということだけだった。


「あなた、何なの?」


 好奇心から紡いだ質問に、黒ローブの影は足を止めることもせず、黒い靄の中に入っていき、そして消えた。


「っ……芦川さん!」


 夏目は起き上がって、芦川のもとへ駆け寄る。締め上げられた首を庇いながら咳き込む芦川は、


「桐生さん、怪我は……?」


「それはこっちの台詞!」


「僕は大丈夫です。正直、死んだと思いましたけど」


 落ち着くと、芦川は冗談めかして答えた。


「さっきの人、一体何だったんです?」


「分からない。新世界の魔法だとは思うけど……」


 考えられるのは、西方の呪術だろう。人間を石に変えて砕くなど、そうそうできることではない。


 だが、夏目も新世界の魔法の全てを知るわけでもないだけに、そうとも断言できなかった。


「とにかく、ここを離れましょう。見つかると厄介だし」


 芦川の手を取って、引き上げる。


「――魔法だとか何とか、面白そうな話をしてるじゃないか」


 ロシア語とともに背中に刺さる殺気に、振り返り様に拳銃を向ける。


「俺の故郷じゃ、そういうのは縁がなくてな。ちょっと色々、聞かせてもらえるか?」


 向けられるAKの銃口。その向こうに立つ壮年のロシア人の男は、笑みを浮かべていた。

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