新宿牛込の入り組んだ住宅地に、ワゴン車とセダンが静かに入っていく。
時刻は午前六時を過ぎたばかり。駅へ向かうサラリーマンの姿もほとんどなく、雀とカラスの鳴き声がよく響く清々しい朝だ。
「仕堂くんが正面から、護藤くんが裏口へ回り込みます。対象が玄関を開けたら、仕堂くんが対象を取り押さえますから、その間に私達は二階に進みます。私が先行するので、ゲンティアナ管理官には後ろを任せます」
エンジンを切ったセダンの中で、夏目は助手席のユリスにタブレットの地図を見せながら説明する。
「敵の人数は?」
「グループの構成員は二人。屋内には無関係の学生も一緒に住んでいるようです。場合によっては、二人とも相手にする可能性があることだけ覚悟してください」
「分かりました」
特別緊張している様子もなく、ユリスは頷いた。摘発対象者を「敵」と表現したり、やはり軍人らしい。
「あと、これを」
夏目はカバンから拳銃を取り出すと、銃身を握ってユリスに差し出した。
「私には必要ありません」
ユリスは前を向いて答えた。
「使ったこともありませんしね」
「だからといって、丸腰で行くわけにはいかないでしょ?」
「これがあります」
そう言って剣を鞘ごと引き抜いて見せる。さすがに腰に差したままにはできず、助手席とドアの間にある隙間に差し込んでいたらしい。剣としては刀身も細めだし、長さも自動小銃程度のものだが、そうはいっても屋内だとやはり嵩張るだろう。
「あの……それ本気ですか?」
「私は冗談や酔狂は好きではありません」
きっぱりと告げたユリスに、夏目は顔を顰めたが、まもなく前方のセダンから降りてきた仕堂と護藤を見て、説得を諦めた。
「無理に使わないようにしてください。最悪の場合は、伏せてくれればどうにかしますから」
「心配は無用です。それと、こちらでは騎士に対する礼節は気にしないところかもしれませんが、今の物言いは我々にしてみればいささか侮辱的です。以後気をつけてください」
王立騎士の睨む碧眼に、威圧感は十分。だが夏目は怯まず、むしろその物言いに苛立ちすら覚えて、結局何も答えずドアを開けた。
「行くわよ。予定通り、慎重にね」
爽やかな朝の空気の中、作戦が始まる。
車を停めた通りの角を曲がった先の、袋小路の奥に建つのが、件のシェアハウスだ。外観は典型的な昭和の二階建て木造住宅で、やや手狭だが庭もついている。この家の持ち主は既に他界していて、遺族が賃貸物件として公開した結果、学生複数名が住むシェアハウスに落ち着いたのだという。
仕堂が腰から拳銃を抜き、チャイムを鳴らす。護藤はその間に、姿勢を低くして裏手に回り込む。夏目とユリスも、外壁に身を隠した。
「はいはーい、朝っぱらからどなたですか~?」
緊張感に欠ける声で玄関のドアが開くと、仕堂は右足を滑り込ませて閉められないようにして、応対に出てきた少女に手帳を見せる。
「公安庁です。声出さないでください。あと今から中を調べさせてもらいます」
「は? え、ちょ……」
押さえ気味の声で一方的に告げると、戸惑う少女をよそに、夏目達に合図を送る。夏目はそれを受けて、仕堂の脇をすり抜けて土足で踏み込んだ。
92式拳銃を抜いて、親指で撃鉄を起こす。木の踏みづらを軋ませて、狭く薄暗い階段を昇る。窓から射し込む陽射しが近づくにつれて、奥から漏れ聞こえてくる話し声も判然としてくる。
「来週には戻るから、そんな寂しがるなって」
「うん……ドイツに着いたら、電話してくれる?」
「あぁ、絶対する」
声は、階段近くの和室から聞こえてくる。襖はほとんど全開で、そこから金髪の少女と、彼女と抱擁する青年の後ろ姿が認められた。
「今のドイツは寒くて堪えるわよ。春まで待ったら?」
声をかけると、少女が夏目の方を向いて目を丸くした。青年の方は身体ごと振り返って、ポケットからナイフを抜いた。
「え、だ、誰?」
面識のない、拳銃を持った堅苦しい格好の女。唐突に現れたイレギュラーに、少女は混乱し、青年との温度差がその立場を表していた。
「あなたは八神幸助? それとも榎本大作? いずれにせよ、ドイツには逃がさないわよ」
「俺達のことを知ってるってことは、やっぱ米山達は捕まったらしいな」
「こ、幸ちゃん? この人、一体何なの?」
「なるほど、あなたは八神幸助ね。もう一人はどこ?」
追及の最中、襖が乱暴に開かれるのを耳にして、夏目が反応する。
目を向けた先には、隣室から飛び出してきたパーカー姿の青年。もじゃもじゃにひねくれた髪を短くまとめたたれ目の青年は、両手で短刀を固く握り、刃を夏目に向けて突っ込んできた。
「パリエ」
辛うじて聞き取れるほどのか細い一言が、夏目の耳に入る。その瞬間、夏目の腹を突こうと迫った凶刃が、光の壁に止められた。
「な、何だこりゃ!?」
異界の文字が並んだ魔法陣。その中心に突き立てたナイフは、まるでガラス細工のように砕け散り、青年を一瞬で無力化した。そればかりか、渾身の刺突を弾かれた反動で、青年の体勢は後方に大きく傾いている。
「プルラ」
そこへ追撃が仕掛けられた。夏目の背後を風のように抜けたユリスが、鞘から抜いた剣の柄頭を青年の腹に叩き込んだのだ。青年は爆発に巻き込まれたかのように吹き飛ばされ、奥の壁に背中を打ちつけた。
「魔法……?」
目の前で起こった超常現象の答えに、夏目はすぐに辿り着いた。
新世界でも才能を持つ者でなければ扱うことのできない特別な力。鉱物や神器、或いは術者の生気を媒体に呪詛を紡ぎ、魔素を変質させて起こす超常の技。火を放ち、雷を撃ち鳴らし、死の淵にある者の命を救うことすら可能とする奇跡の術――魔法。それもユリスの使ったそれは、米帝に滅ぼされた大陸北方に伝わる、魔法石を媒介とする希少な魔法だ。
「怪我はありませんか?」
振り返ると、澄まし顔のユリスが立っていた。得物の剣を鞘に納め、何食わぬ顔をしながら、左手から土塊となり果てた魔法石を溢れ落とした。
「敵は二人でしたね? そこにいる彼と向こうの伸びているので、ちょうど数が合います」
「え、えぇ、そうね」
夏目はインカムのスイッチを押して、階下の部下に告げる。
「対象をいずれも二階で発見。一人こちらに来て」
返事を待たず、部屋のもう一人に呼びかける。
「無駄な抵抗はしないでね。ここで暴れたら、彼女も無事では済まないわよ」
「こいつは関係ないぞ。それなのに撃つつもりか?」
「関係なくても巻き添え喰らうかもしれないでしょ。だから大人しくしろって言ってるのよ」
ポケットナイフを手に奥へ後退りする八神幸助と、彼に追いたてられるように壁際へ押し込められる恋人。一見すると、彼女を守ろうとしているように見えなくもないが、実態は無関係な彼女を盾にしているのとほとんど同義だ
「おい、あんた新世界人だろ?」
青年の関心は夏目ではなく、ユリスに向いた。
「公安なんかの手先にならないで、こっちに来ないか? あんた見たところエルフだろ? 欧州にはエルフの反米組織もあるって話だ。どうだ、一緒に共和革命実現のために戦おうじゃないか」
「欧州……聞いたことがあります」
ユリスが反応を示し、八神青年の目に希望の光が宿る。夏目はまさかと思いつつ、しかし正面の標的から銃口を外すわけにもいかず、緊張に呼吸を浅くする。
「王政や帝政を打倒し、民衆が万事の主体となって政治を執り行う体制でしたか。祖界では、そうした政治体制の強国が大東亜のような連合体を作り、世界の半分を支配していると聞いたことがあります」
「そうだ、それが欧州だ。我々は民主共和革命をこの日本で実現すべく活動している自由の戦士だ。あんたもその女を殺して、俺達と一緒に欧州へ――」
「私のこの剣は、国家と王家のためにあり続けました」
青年の弁舌を遮り、ユリスは剣を抜いて見せる。
「そして今は、グラディアの王のためにこの剣はあります。故に、あなたからのお誘いにはこの一太刀を以てお答えします」
刹那、ユリスは木の床を踏み鳴らし、青年の懐に切り込んだ。
条件反射的な瞬きの直後、夏目が目にしたのは、ユリスの剣に薙ぎ倒されて、足下のボストンバッグを巻き添えに畳に転がる青年の姿だった。彼の背後で半ば人質となっていた少女は、突然の暴力に悲鳴を上げて、その場に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
護藤が拳銃を手に駆け昇ってきた。夏目は得物の撃鉄を寝かせ、腰のホルスターに収めた。
「大丈夫よ。あそこで伸びてるのが標的だから、彼の身柄の拘束をお願い」
「え、あ……了解です」
護藤は言われるがまま、廊下を小走りに抜けて、榎本に手錠をかける。
夏目は部屋に踏み入って、八神の状況を確認しようとしたが、畳に広がり始めた血溜まりから容態を察して、亡骸の下敷きになっているボストンバッグを引き抜いた。
「斬り殺す必要ありました?」
「制圧するにはやむを得ない措置です」
「今後はできるだけ生かして捕らえてください。情報を聞き出す必要もありますし」
「善処します」
あまり期待はできそうにない。ため息漏らしつつそう思い、夏目はバッグを開けた。
「あ、それとその娘、下に連れていってもらえますか? 事情を訊く必要があります」
座り込む少女を指差して頼むが、
「それはご自分の部下にお願いしてください」
「あー、言うと思ってました」
やれやれと首を振ってそうぼやいた。
◇
早朝の摘発を終え、学生三人の身柄を乗せたワゴン車が出発すると、夏目達を乗せたセダンもそれに続いた。
『結果を報告しろ、班長』
「対象一名を殺害。また、居合わせた学生二名の身柄も、念のため拘束しました」
『交戦理由は?』
「ナイフを取り出したため、ゲンティアナ管理官が対応しました。拘束した学生の一人が、顛末を目撃しています」
『正当防衛ということで処理しよう』
「目撃者は対象と恋愛関係にあったようです。解放されればすぐ、こちらを告発してくるかと」
『相手がテロリストならば世論は我々に味方する。仮にその学生が反体制に転向するのならそれもまた自由だ』
ポケットの業務用携帯と繋がったハンズフリーイヤホンで、庁舎で待機している課長に報告しながら、ブレーキを静かに踏む。車列は早稲田通りへ出て、信号に捕まった。
「あと十分ほどでそちらに戻りますので、詳細は後ほど報告します」
『いや、お前にはもう一ヶ所立ち寄ってもらう』
信号を眺めていた夏目が訝った。
『報告をもらうまでの退屈しのぎに、米山啓祐に口を割らせた』
「さすがですね。昨日仕堂くんが取り調べても黙秘を貫いたのに……」
『あれは詰めが甘い。鍛え直せ』
端的に酷評され、ばつが悪そうに笑う。信号が青になると、夏目は交差点を抜けてから車を路肩に停めた。
『米山から聞き出したのは、協力者の名だ。白山と同様、東京学院の熊沢教授の名を吐いた』
夏目は無言で続きを促す。
『また、武器の取引は必ず熊沢を介して行っていたため、直接のやり取りはなかったそうだ。これまで受け取った銃器、爆薬についても、保管場所を吐かせた。後で空いている班を回す』
「分かりました」
『お前は熊沢教授の身柄を拘束しろ。学内に協力者がいることも考えられる。仕堂達も応援に回させるが、くれぐれも注意するように』
通話が終わると、夏目はイヤホンを外して、ユリスの方を向いた。
「今から重要人物の確保に向かいます。ついてきてもらえますか?」
「重要人物?」
「武器を流していた組織との仲介役です。もしかしたら、そちらが追っている相手に結びつくかもしれませんよ」
こうでも言わないと拒否されかねない。何とも厄介な手合いだが、単身で乗り込むのはさすがに心許ない。
「分かりました」
あっさりと了承してくれて、夏目は安堵の息を漏らした。
セダンの停車に合わせて待機していた仕堂達のワゴン車が、ゆっくりと走り始めた。課長から連絡があったのだろう。
「立川までちょっとかかるから、朝ごはん買っちゃいましょう」
夏目はそう提案して、通りを見渡す。ちょうど良いところに、マクドナルドを見つけた。この時間なら、朝マックにありつける。
「マクドナルドでも良いですか?」
「何ですか、それは?」
「ハンバーガーっていうアメリカのファーストフードを売ってるお店です。この時間はマフィンを使ったものが食べられますよ」
新世界にもマクドナルドは存在するが、それは米帝領内に限った話。商魂逞しい米帝の企業も、国境で小競り合いを続けているような国への進出は遠慮しているのが現状だ。
「結構です」
物珍しさで食いつくと思ったが、ユリスの反応は予想とまるで違った。表情を強張らせて前へ向き直り、冷たく拒絶の言葉を吐いたのだ。
「私の口に合うものとは思えません」
「具体的にどんなものか言ってないんだけど……」
「とにかく、別のものにしていただけませんか。ここは米帝の属領というわけではないのでしょう?」
何とも棘のある物言いだ。
「じゃあ、コンビニでおにぎりね」
コンビニ脇の路肩に停めて、シートベルトを外す。
「好きな具とかあります?」
「うめぼしが入っているものでお願いします」
「了解。なかったらそれっぽいのを探してくるわ」
夏目はコンビニに小走りで駆け込み、三分ほどで小袋を二つ提げて戻ってきた。
「はい、これ」
袋からうめぼしを二つと、ペットボトルの緑茶を取り出して、ユリスに渡した。
「何故同じものを二つも?」
「それが欲しかったんでしょ?」
「だからといって二つとも合わせる必要ないでしょう。あなたは夕食におにぎりを所望されたら、副食も主菜も全ておにぎりにするのですか?」
買ってきてあげたのに何故ドラマの姑のような小言を言われなければならないのだろう。
「それに、二つだけでは足りません」
「じゃあ私の食べて良いわよ。はい」
「それではあなたの食事が疎かになりますよ?」
「私は元々朝は食べない派なの。だから良いですよ、遠慮なく」
「それは良くありません。ちゃんと食べないと、身が持ちませんよ」
「あーもう、良いから食べなさいって!」
缶コーヒーだけ取り出して、おにぎりの入った袋を投げ渡す。夏目は苛立ちを露にため息を漏らすと、シートベルトを締めてアクセルを踏んだ。
「では、ありがたくちょうだいします」
「えぇ、どうぞ。その代わり、ちょっと頼まれてほしいの」
缶コーヒーを一口飲んで、ドリンクホルダーに置く。
「今から行く先では、私は内務省行政局の職員。で、あなたは研修のために派遣されたってことにしてください」
「何故です?」
「大学っていうのは自治意識が強いとこなの。公安庁の人間が乗り込んできたなんてことになれば騒ぎになるし、そうなったら対象に逃げられちゃうかもしれない。そうでしょ?」
「なるほど。では、あなたに合わせるようにします。あまり深く聞き込まれても、対応できませんが」
「その時は私が何とかします」
そう言ってから、夏目はユリスの方を一瞥して、
「……でも、その格好だとさすがにバレちゃうか。渋谷にこの時間でも営業してるお店を知ってるから、そこで服を買いましょう」
「これはグラディアの装束ではありませんよ」
遠回りをしようとした夏目を、ユリスはそう制した。
「この出で立ちで私の身元を王立騎士団だと見抜ける者はいないでしょう。マントさえ外してしまえば、素性は分かりません」
「そう……なら、それで良いわ。あと、剣も持っていかないでくださいね? さすがにそれは騎士だってバレちゃいますから」
「仕方ありませんね」
ユリスは肩を竦めつつも同意してくれた。
「もしかしてなんですけど、こっちに持ってきた服ってそれだけなんですか?」
信号に捕まったタイミングで、夏目は好奇心をぶつけてみた。
「これと同じものを他に四着持ってきました。それが何か?」
「スーツとか持ってなかったんですか? こっちだと新世界の服装は浮いちゃいますよ」
「向こうではスーツの方がよっぽど浮きます」
「いや、それはないでしょ……」
新世界に進出している企業は日本だけでも数百社はある。中国や韓国の企業も積極的に進出しているのだから、祖界の文化は浸透しているだろうに。
「その格好だと、他人の視線とか気にならない?」
「なりますよ。こちらの方は節操なく他人を見てきますから」
「そりゃそんな異世界感丸出しの格好してればね……」
他人の目を気にするのなら、相応の対応をすれば良いのに。夏目は呆れながら笑って、
「今度服を買いにいきません? 祖界でも浮かないようにしないと困るだろうし、スタイル良いからきっと何着ても似合いますよ」
「はあ……」
信号が青に変わって、アクセルを踏む。
横目で見ると、ユリスはどう反応すべきか悩んでいる様子だった。まるでこんなやり取りをしたことがないか、それとも随分と疎遠になっているかのような態度だった。
◇
立川市にある東京学院大学は、一九九〇年代から始まった大学参入の規制緩和に乗じて設立された新興の私立大学だ。
規制緩和によって乱立した私立大学は、少子化の進む昨今はどこも苦しい経営を強いられているが、東京学院大学の立ち位置には近年、変化が見られていた。
元々は法学部と経済学部のみを擁する典型的な文系大学で、部活動の実績も地味。偏差値も十年前には四十を割るような有り様で、全国に散在する底辺大学の一つだったのだが、八年前に経営陣が刷新されてから風向きが変わった。
法学と経済学の分野で名の知れた、帝国大学を定年退官した教授を厚待遇で招聘し、講義の質を底上げ。さらに彼らの提言に従って、学生への温情を大幅に厳格化し、講義への出席を促した。日本を代表する大学で教鞭を執ってきた教授陣に叩き直された学生は揃って企業受けが良く、生半可な有名私立大出身者よりも高い能力と我慢強さを示した。無論、この改革についていけずに退学したり放校となった学生も相応に出たが、経営陣はそれを改革に伴う痛みと割り切った。
今や東京学院大学は、就職実績において都内の有名私立大学にも引けを取らないほどにまで成長した。近年では新たな経営の柱として、教授陣のコネを活用した欧米の私立大学への留学ルート開拓を推し進めており、既にフランスやドイツには数十名の留学生を輩出しているという。
「――お久しぶりです、熊沢先生」
法学部の学舎に隣接する研究室棟。教授の研究室が並ぶ三階の角部屋の主に、夏目は笑みをたたえて一礼した。
「あぁ、桐生くんじゃないか。いや、大学を卒業して以来か。よくここが分かったね?」
「ゼミ長から聞きましたよ。定年退官されても他の大学で教鞭を執るなんて、先生らしいですね」
「なに、学問一筋で生きてきたから、他に生き方を見つけられなかっただけさ」
そう言って老人――熊沢昭光は丸みを帯びた顔に穏和な笑みを浮かべ、白髪と黒髪が入り交じった頭を掻いた。
「そちらは?」
熊沢はユリスの方へ目をやると老眼を指で押し上げて訊いた。
「新世界から研修で来られている、ユリスさんです」
夏目が紹介すると、ユリスは申し訳程度に一礼した。
「実は近くで北海道庁の職員が研修を受けているんです。午後から私とユリスさんも講義を受けることになっているので、その次いでで寄ったんです。お邪魔でしたか?」
「いやいや、来てくれて嬉しいよ。さ、入って。良い紅茶とお菓子があるんだ」
腰の曲がった熊沢に通されて、十畳ほどの部屋に通される。応接用のソファとテーブル、それに壁を隠す本棚と机で、室内はほとんど使い切ってしまっている。それでも本棚は整然としているし、机の上もノートパソコンと小型のポットで限られたスペースを無駄なく使っていて、雑然とした様子はなかった。
「ユリスさんは、どちらから来られたのかな?」
紙コップにポットのお茶を注ぎながら、熊沢はどちらにでもなく訊いた。
「グラディア王国です。内陸の」
「グラディアか。あそこも確か、紅茶が有名だったかな?」
熊沢が背を向けたまま訊くと、ソファに腰かけたユリスは夏目に促され、
「ペキル茶の産地ですね。私は苦味が嫌いであまり飲みませんが」
「そうか、ペキル茶か。あれは今ベルギーで流行っているんだよ」
そう言って熊沢は、両手に持った紙コップをテーブルに置いた。色は濃い目で、湯気に乗って漂う香りにはほのかな甘味が含まれている。
「バニラ茶ですか。懐かしいですね」
夏目が言い当てると、熊沢は楽しげに笑い、長方形の缶をテーブルに置いた。
「ノイハウスのチョコレートだ。友人が送ってきてくれてね。食べると良い」
熊沢が蓋を開けると、中には十数種類のチョコレートが入ってあった。赤や青の包装で包まれたハート型のチョコに、木の実を模した形のチョコ。遊び心に富んだそれは、ベルギー王室にも愛される高級品だ。
「ありがとうございます! ユリスさんも、一つ食べてみて。美味しいから」
「はあ……」
どれを取るか戸惑いつつ、ユリスは二人に訊いた。
「お二人は知り合いだったのですか?」
「私の大学の恩師よ」
何ともこの場に似つかわしい、立場上相応しいと言い難い笑みで夏目は答えた。
「あなた、この大学の出身だったのですか?」
「いや、私が前に勤めていた大学での教え子だよ」
熊沢はハート型のチョコレートを取って答えた。
「私は幸い素晴らしい教え子達に恵まれてね。みな、学習意欲と向上心に溢れていたが、桐生くんは特にそうだった。学生達の模範だったよ」
「褒めすぎですよ、先生」
「いや、謙遜することはない。この学校の子らも、君のようにあってほしいのだがね」
そう苦笑するが、熊沢のそれこそ下手な謙遜であることは表情で一目瞭然だった。内心では生徒のことを、誇りに思っていることだろう。
「文部省の友人から聞いたんですけど、この大学は欧州の大学への留学実績が伸びてきてるんですよね。先生のお力添えですか?」
「力添えだなんて大袈裟なものじゃないよ。ただ、向こうの大学の友人に紹介状を書いたくらいのものさ」
「先生の紹介となれば、向こうも安心して引き受けられるでしょうね」
「できれば君も、パリに留学してほしかったがね」
熊沢はやや寂しげに言って、バニラティーを啜った。
「やはりヨーロッパの法学は進んでいるよ。人権思想の発祥の地なだけのことはある。日本もいつまでも、前時代的な法観念に捕らわれていてはいけない」
「死刑制度は前時代的な法観念の典型……先生はよく仰っていましたよね」
夏目は懐かしげに頷く。
「ユリスさんは、どう考えますか?」
バニラティーを見つめていたユリスに、熊沢は問いを投げた。
「新世界発見当時、大東亜に加盟した国はどこも死刑制度を有していたし、一部には窃盗や不貞行為でさえ公開処刑が適用されていたと聞きます。それについて、あなたはどうお考えですかな?」
「主の定めた法に従うのは当然のこと。その結果として、命によって罪を償うことを求めるのならば、それに従うことに何の疑問もありません」
「しかし、それだと冤罪による死刑執行のリスクは高くなってしまわないかね? 死刑の根本的な問題とは、一度執行されたが最後、どうやっても補償することができないことだ。仮にユリスさんの隣人が盗みを働いたとして、警察があなたを疑い、裁判の結果有罪となったとする。これで死刑判決を受けた時、どう受け止めるかね?」
「何も」
ユリスの短い答えに、熊沢と夏目は目を丸くした。
「その仮定に基づくなら、盗みの嫌疑がかけられた時点で、私は私のできるあらゆる手を尽くして、身の潔白を証明しようとするでしょう。しかし、私にできる全ての手を打ち、それでもなお嫌疑を晴らすことができず、主が私の死を望むというのなら、私は甘んじてこの首を差し出しましょう」
「本気かね? 国家によって理不尽に命を奪われることになるというのに、君は死を受け入れると?」
「それが騎士の果たすべき忠節というものです」
一切の迷いのない、簡潔な一言だった。それを聞いた熊沢は、静かに、しかし楽しげに笑った。
「そうか。やはり新世界の価値観は新鮮だね。今の質問を賛成派の学生に投げかけると、大抵は歯切れが悪くなるものだが、あなたは即答だ」
「新世界には、騎士道が浸透していると聞きますからね」
夏目はすかさず体裁を繕い、ユリスの方を一瞥した。しれっと身分を明かしてしまったことを、自覚しているのだろうか。
「しかし、国家が国民の命を奪うというのは、やはりそれ自体が脅威なんだよ」
熊沢は今度は諭すように語りかけた。
「先程の例えは些か極端に過ぎたが、今のご時世、誰もが死刑判決を受けてしまう可能性があるんだ。特に危険なのは治安維持法だ。今や共和主義や平和主義、環境保護運動への弾圧にも用いられるようになり、それによる死刑執行が年々増加している。中には無実の罪で処刑された者もいるだろう。明日にでも謂れのない罪を着せられるリスクが高まっているんだ。これを危機と言わずして、何と言うのかね?」
「治安維持法の危険性と人道的非合理性……昔講義で取り上げていましたね。懐かしいです」
バニラティーを飲み終えた夏目は、小さく頷く。
「でも、先生は治安維持法に抵触するようなことはないんじゃありませんか? 確かに、欧州には何かとコネをお持ちですが、それでどうこうしようなんて考えてはおられないでしょ?」
「…………」
まるで釘を刺すような夏目の問い。熊沢はそれに答えようとはせず、年季の入った腕時計に目をやった。
「もうこんな時間か。済まないが、これから講義が入ってるんだ。もう行かないと遅れてしまう」
「そうですか……残念ですが、仕方ありませんね」
夏目は紙コップをゴミ箱に捨てる。ユリスも冷めた紅茶を一気に飲んで、それに倣った。
「学部の授業ですか?」
「いや、大学院の方だよ。手前味噌な話だが、大学院の方の教え子はみな勉強熱心でね。今度二人ほど、ドイツにホームステイさせることにしてるんだ」
「良いですね。でも、今のドイツはちょっと寒くないですか?」
「何事も経験さ」
教科書と印刷しておいたレジュメを脇に抱え、熊沢が研究室の扉を開く。
廊下の向こうから、一団が近づいてくる。濃紺の戦闘服に防弾着を着込み、これ見よがしに腰に拳銃を提げた者が四名に、背広を着た青年とゴブリンの六人組。必死に止めようとする事務員を無視して、熊沢の前まで来ると、青年が手帳を見せて告げた。
「公安庁第二保安課です。熊沢教授、あなたの教え子について、いくつか伺いたいことがあります。ご同行願えますか?」
静かに手帳を見つめる熊沢に、夏目が背後から言った。
「指示に従ってください、先生。あなたの教え子から、裏は取ってあります。死刑を回避するためにも」
「……内患幇助となれば、どうあがいても死刑は免れないだろう」
熊沢は夏目の方へ向き直って笑みを見せ、ユリスの方を向く。
「ユリスさん、お話しできて楽しかったよ。学生以外の新世界の方と話すのは、あなたが初めてだったからね」
ユリスは何も答えず、そして熊沢は一団に連れられて、廊下を歩いていった。
「あなたの判断は間違っていませんよ」
遠退いていく恩師の後ろ姿を見送る夏目に、ユリスはそう声をかけた。
「たとえ師であったとしても、国家に仇為し、秩序を乱すというのであれば、それを防ぐことで国家を守ることが道理です。あなたは、間違っていません」
「別に国なんてどうでも良いわよ」
ユリスは前を向いたままの夏目を見下ろした。
「ただ、もし先生を見逃せば、他のグループに武器が渡ることになる。そうなれば関係のない人が犠牲になる。それだけは避けなきゃいけない。ただそれだけよ」
「結局のところ、同じことでは?」
「全然違うわよ」
肩を竦めて夏目は言った。
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