世界の最果てに佇む猟犬と新世界の彼方で吼える忠犬

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第56話

公開日時: 2022年1月24日(月) 00:03
文字数:5,382

 プスタスク郊外の山の上に、五階建ての邸宅が建っている。前庭の雪化粧を小綺麗に整えたその屋敷は、北キーファソ州の領主であるセリュー・テューダーの住まいだ。新世ロシア公爵の一人であり、その中で唯一のエルフで、このキーファソの騎士出身という経歴は、帝国の貴族の中でも一際浮いた存在だ。その上、皇族であるテューダーの姓まで与えられているのだから、その異質さはより際立つ。


 テューダー邸の荘厳な玄関の前に、ミニガンを備えつけたジャルマンオオトカゲが降り立つ。その背中から飛び降りたリールー・カレンデュラは、相棒のオオトカゲの首筋を撫でてから、玄関を押し開く。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 紺色のメイド服を着た女中がエントランスで出迎える。リールーと同じエルフで、プスタスクが新世ロシアの一部になる前に存在した寒村の出身だ。


「ただいま。お母さん、いないよね?」


「えぇ。今はニューヨークに。ホープ様はお帰りですが」


「そっか。ちょうど良かった」


 笑みを見せるリールーに、女中は眉を顰める。


「またセルー様に秘密で何か企んでおられますね?」


「そんな大したことじゃないよ。ちょっとしたアルバイトの話」


「いけませんよ、お嬢様。今はただでさえ緊迫しているのです。もし騒ぎになるようなことがあれば、セルー様やお嬢様のお立場も……」


「そんなヤバいことじゃないって。ダイジョブ、ダイジョブ」


 女中の諫言を受け流して階段を昇り、リビングに向かう。


 静かな部屋の暖炉の傍には、ソファが二つ向かい合って置かれている。リールーに背を向けて座る人影は一つ。暖炉の火によく映える赤毛を軽やかに跳ねさせた癖毛の持ち主で、耳元の髪を細く束ねて金の留め具で結っている。尖った耳は同族の証であるものの、肌の気色は祖界の人間のそれで、米帝軍人の制服がよく似合う肩幅の持ち主だ。


「ホッピー、お酒飲みたくない?」


 男の前まで来ると、リールーは気軽に切り出して、向かいに座る。


 エルフの耳と人間の肌を持ち合わせた赤毛の青年は、足下で赤いユカルの実をタイリクシマイノシシに食べさせていた。


「人拐いやってる悪いフランス人を取っ捕まえるの。報酬はソーンツェ酒飲み放題!」


 青年は食事を終えたタイリクシマイノシシを抱き上げ、膝の上に乗せる。瓜模様の背中を撫でながら、リールーと同じオレンジの瞳で、彼女の方へ向き直る。


「第三部の奴らの尻拭いか何か?」


「尻拭いじゃないよ。今って何かとめんどくさい情勢でしょ? 私達が動こうとしても許可下りないと思ってね」


「パシりに使おうってわけか。どうせ小物だろ? ロシアの内戦が落ち着いてからにしろよ」


「それじゃ遅いよ。子供が拐われてるんだよ? 君にも良心というものがあるなら、私達に協力すべきじゃない?」


 人道的な正論を振りかざすリールーに、青年は辟易したようにため息を吐く。


「それに暇でしょ? そんな制服着て良い子ぶってるなんて、ホッピーらしくないよ」


「それ母さんや叔父さんの前で言ってみろよ」


「やだよ、怒られるし」


 何とも子供染みた物言いに呆れながら、青年は膝の上でうとうとするタイリクシマイノシシを撫でながら思案し、


「ソーンツェと馬肉だな。四人分払ってもらう」


「オッケー。馬肉ってことは、ミール通りのお店で良いんだよね?」


「あぁ、そこで良い。で、誰捕まえてくれば良いんだ?」


 青年に促され、リールーは折り畳んだ紙をポケットから取り出す。差し出されたそれを受け取って開き、青年はその内容に目を通す。


「捕まえるのは展示会の後で良いよ。情報集めるのにそのくらい時間はかかるだろうし」


「あぁ、分かった」


 紙を丸めて、暖炉に放り込む。火の勢いが微かに揺らぐと、タイリクシマイノシシが驚いて目を開ける。


「標的の身辺調査をしてくれ。人間関係と住まい、生活習慣。その辺が分かれば良い」


「分かった。まとまったらまた連絡するから、よろしくね」


 約束を取りつけると、リールーはソファから立ち上がる。私室に向かおうとしたが、その足を止めて、青年の背中に声をかけた。


「そういえば母さん、ニューヨークに行ってるんだってね。君もいよいよ、皇帝になるのかな?」


「さぁ、どうかな。俺は乗り気じゃないけど」


「王冠を被るのに乗り気は関係ないでしょ。健闘を祈ってるぞ、我が愚弟よ」


「激励したいのか貶したいのかどっちなんだよ」


「どっちもだよ。じゃ、おやすみ」


     ◇


 ニューヨーク東部のサウスウェールズ皇帝特区。セルー・カレンデュラが皇宮に足を踏み入れるのは、およそ三十年ぶりのことだった。


 帝国貴族である以上、皇帝に仕えるのは使命であり、皇宮への出入りも足繁くなるべきところだが、キーファソ王国出身のエルフという出自は、本国の皇室や貴族から不興を買い、遠ざけられてきた。


 それが今になって訪れることになったのは、彼女の同伴者であるアルバスによるところが大きかった。


「皇帝陛下、セリューを連れて参りました」


 皇宮三階にある皇帝の私室。天蓋付のベッドに横たわる白髪の老人は、センサーとチューブで枕元のモニターに繋がれ、心電図が脈打つように電子音を響かせる。濁りかかったその目は虚空を捉えていたが、アルバスの声に反応して彼の方へ向くと、その背後にいるエルフの女に生気が戻る。


新世界フロンティアの者が何用だ?」


 掠れながらも威圧的な声を紡ぐ。


「トマスから具申があったかと思いますが、陛下の跡継ぎについて、我々はホープを推したいと考えています。どうか、お許しをいただけませんでしょうか」


 セルーが跪き、頭を垂れる。忠誠と服従を示すその姿に、病床の皇帝は声を荒げた。


「エルフの血をテューダーに交わらせただけに飽き足らず、皇位を簒奪するつもりか。この恥知らずどもめ! 消え失せろ!」


 ベッドから起き上がろうとするも叶わず、それでも敵意を露に、息も絶え絶えにセルーを睨む。


 アルバスは皇帝に一礼すると、セルーを連れて私室を出た。これ以上の問答が時間の無駄で、何の実りもないことは明白だった。


「あれが今の皇帝だ。お前やホープのことは認知しているが、その前後の認識がボケている。とても話にはならんよ」


 廊下を歩きながら、アルバスが言う。皇帝の権威など、既に当てにしていないその物言いは、ひどく冷めていた。


「人間の老いは恐ろしいものだな。あの皇帝が、ああも醜くなるとは」


「少しは気分も晴れただろう。故郷の仇の惨めな姿を、あんな間近で見れたんだからな」


 アルバスの皮肉めいた言葉に、セルーは答えなかった。


 談話室に向かうと、ソファには先客がいた。数は三人。殺伐とした空気が漂っているのを、セルーはすぐに感じ取った。


「セリュー、貴様がどうしてここにいる?」


 黒髪を整髪料で整えた男が立ち上がり、セルーを見咎めた。ハロルドによく似た分厚く肩幅の広い体格の持ち主だが、その腹に詰まっているのは専ら脂肪であり、その証拠に肉を詰め込んでいた頬は老化の影響で熟れた柿のように垂れ下がっている。


「皇帝陛下に謁見してきたところだ」


 アルバスが代わりに応じる。


「そういうお前こそ、ここへ来るなんて珍しいじゃないか。カリフォルニアで何かあったのか、ティモシー?」


 黒髪の巨漢が、苦々しげにアルバスを睨む。両者の険悪な関係を心得ているセルーは、二人の仲裁を買って出るような無謀な真似はせず、ソファの末席に腰を下ろした。


「ティム叔父様は、私がお呼び立てしたんですよ」


 アルバスと対峙したのは、上座に座っていた金髪の青年だ。ティモシーとは正反対の痩せ身に気品ある赤い背広を着た紳士で、彼もまたアルバスには敵意を隠そうともせず睨みつけた。


「新世ロシアの最近の独断専行には、財閥や貴族からも懸念の声が出ています。ここは一族の意見を取りまとめて、然るべき措置が必要と考えたものですからね」


「お前の父上からはロシアへの戦争介入は承諾してもらっているが? 独断専行とは何のことかね?」


「戦争介入の許可は帝政復古派への物資援助と世論工作に限定しているはずです。新世界から義勇兵を十万人も送り込むなど聞いていない」


「義勇兵は自らの意思で戦地へ赴いたのであって帝国政府の知るところではないな。ロマノフ朝の支持がそれだけ厚いということであり、それはとりもなおさず我ら帝国政府の統治が優れていることの証左だろう。何を困る必要がある?」


「詭弁を弄するのもいい加減にしろよアルバス。貴様らは帝国の足を引っ張っているんだよ。あんな極北の田舎貴族のために欧州を刺激して、アジアの連中まで敵対姿勢を見せ始めたらどうするつもりだ?」


「元々他の二極は力で叩き潰すのがお前達の考えだろう? それとも、ハルがいなくなった途端日和見に転じたのか。それでは奴も浮かばれないな」


 アルバスのその言葉に、静観を貫いていたタキシードの男が顔を上げ、怒りを孕んだ目で睨みつけた。ハロルドの一人息子であるジャックだ。父の自殺から半年が過ぎたが、心身の耗弱は思うように回復せず、テューダーの証である赤毛も色褪せて久しい。ただでさえ温厚な性格だったところへ、尊敬する父の不幸によって一層覇気はなくなったと、国内のメディアでも取り上げられるほどの疲弊だった。


「喧嘩なら他所でやってくれないか?」


 扉が開いて、さらに二人が加わる。痩せ身の老紳士に、スキンヘッドと野性的な髭で口許を囲んだ巨漢である。


「皇帝陛下にこれ以上心労をかけないでくれ」


「心労をかけているのは叔父様の方です、父様。ロシア内戦への介入の件、何故宰相としてお諌めなさらないのです」


「それについては私から承諾してある。陛下からお許しもいただいていることだ」


 息子であるクリスの追及に毅然と応じ、老紳士はティモシーに関心を向ける。


「オズワルドから事情は聞いた。壁の再建費用はお前が負担しろ」


「トマス、どういうことだ? あの壁はこいつの領民が壊したんだぞ」


「そもそも壁は二〇二〇年限りで撤去する約束だっただろう。それを反故にしてきたのはお前だ。オズワルドに請求するのは筋が通らないだろう」


「そんな約束こそ守る道理はない! 大体メキシコの治安を考えてみろ。壁がなければ本土の治安に関わるんだぞ!」


 声を荒げるティモシーに、トマスの背後から挑発的な怒声が返ってくる。


「勝手なこと言うのも大概にしろよ? 最近じゃてめぇの領地の方が治安が悪いだろうが」


「だからそれは貴様が犯罪者を野放しにするからだろう!」


「壁があるのにそんなザマなら、壁なんて関係ねぇんだよ、このウスノロ! こんなとこまで来て泣き言垂れ流す暇があったら、セリューを見習って税収を増やす算段でもつけたらどうなんだ? あぁ!?」


 当て馬にされて、セルーは顔を伏せる。


「喧嘩は止めろと言ったはずだ」


 トマスが間に入って、釘を刺す。


「話はこれまでだ。クリス、見送りを。早くしなさい」


 反論は認めないとばかりの一方的な物言い。クリスは実父を苦々しく見つめながら立ち上がり、ジャックとティモシーに促す。


 三人が床を踏み鳴らしながら部屋を後にすると、空いたソファにアルバスとトマス、そしてオズワルドの三人がそのまま座る。セルーは末席からは動かず、三人の誰かが口を開くのをじっと待った。


「で、お前ら皇帝には会ったのか?」


 ソファに座り込んだオズワルドが、アルバスとセルーに訊いた。


「さっきな。記憶が混濁しているようだった。あれではもう勅令も出せんだろう」


「あぁ。夏頃から悪化の一途だ。もう外交関係は事後報告ばかりだよ」


「ならもう、首をすげ替えても問題ないな?」


 足を組んだオズワルドが、トマスに投げかける。現帝の実の息子という続柄に配慮しない物言いだが、言われた当人は慣れているのか、顔色一つ変えずに頷く。


「我々は次の帝位継承者として、ホープを推薦する。それで良いんだな?」


 アルバスとオズワルドと顔を見合わせ、トマスが投げかける。


「貴族連中と他の皇族は反発するだろうが、その辺根回しはしてるんだろうな?」


「ホープを積極的に支持しているのは三割ほどだが、残りも対抗勢力としてまともな候補者を立てているわけでもないのが実情だ。我々が立場を明確にすれば、議会の過半数の支持は間違いなく得られるだろう」


「親族が百人以上居て、ホープの対抗馬が皆無とはな。我ながら虚しくなってくるよ」


 アルバスが肩を竦める。


「トマスの息子は?」


 セルーがそこで三人のやり取りを聞き咎めた。


「あれは皇帝の器ではない。エリザベスかアンの方が見込みがある」


「その二人が担ぎ出されることはないのか?」


「二人とも未成年だ。それに、後ろ楯となる身内も貴族もいない」


 皇帝の遠戚で、外見と血筋だけが強みの手合いだと、セルーはすぐに察した。皇族にはこの手の人間が多く、大抵がどこかの公的団体の名誉会長や理事に名を連ねている。


 だが実際の権力はほぼ皆無といって良い。新世ロシアの首相と情報機関の元締めであるアルバスや帝国本土の宰相・トマス、メキシコやキューバを領地として発展させてきたオズワルドのような政治的実力者とは、そもそもの土俵が違うのだ。


「で、肝心のホープは何か言ってるのか?」


 オズワルドがセルーに投げかける。


「特に何も聞いていない。本人は軍人としての今の立場が気に入っているみたいだが」


「俺らが担いでも本人にやる気がなきゃ意味ねぇだろ。ちゃんと話しとけ」


 釘を刺すオズワルドに、セルーは答えなかった。

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