世界の最果てに佇む猟犬と新世界の彼方で吼える忠犬

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第44話

公開日時: 2021年6月12日(土) 15:54
文字数:4,040

 サウスウェールズ皇帝特区は、帝都ニューヨーク東部に位置する。この特区には各省庁が集中し、議会に選出されて招集を受けた帝国貴族のための公邸が立ち並ぶ。


 二〇〇人の近衛兵によって厳重に守られ、一般国民の居住地としては機能せず、この地区に定住することが許されているのは僅かに一〇〇名余り。彼らは全てテューダーの血を引くアメリカ帝国の皇族達であり、ここは彼らのための町であり、アメリカ帝国の政治の中枢だった。


 サウスウェールズの北に建つ皇宮。その三階の西側に、窓のない広間がある。三十畳ほどの横長の空間は、長円形のテーブルを真ん中に置いて、天井にはシャンデリアを二つ吊るしている。クリーム色の壁には、この部屋を作らせた先代皇帝・ソロモン大帝の若き日の肖像画が立て掛けられ、この部屋に入った物達を見下ろしている。


 外界から隔絶されたこの空間は、戦時における意思決定の場だ。先々代のフランスへの憎悪のために参戦し、泥沼化の一途を辿った日露戦争の講和工作に始まり、ロシアと中国の内戦への介入や二度の太平洋戦争、新世界への侵攻と、二十世紀以降に帝国が関わったあらゆる戦争における意思決定は、全てこの部屋で行われてきた。


「私はこの部屋に来ると、欠かさずお祖父様の肖像画と向き合うのだ」


 皇帝が座る最奥の席。ソロモン大帝の肖像画に向かって直立し、勲章を飾った左胸に手を当てながら、軍服を着た男が地鳴りのような声を紡ぐ。


「お祖父様は世界の英雄だ。そう遠くないうちに、この肖像画の隣に父上の肖像画も並ぶ。我々はこの帝国の導き手として、大帝たる二人に恥じぬ活躍をせねばならん。分かるな?」


「もちろんだとも」


 上座の軍人に、顎髭を蓄えた老人が相槌を打つ。灰色に近い肌に深い皺を刻み、老化で張りを失った頬が垂れ下がり、銀色の縁の眼鏡をかけたその姿は、知的でありつつも不気味だった。


 祖界の科学技術と新世界から持ち込まれた魔法の研究・実践を管轄する主要官庁・魔法科学省。その長である魔法科学大臣を三十年以上勤め続ける、現帝の甥にして皇位継承順三位の皇族・ホレーショだ。


「そんなこと訊くまでもないでしょう。私達はみな、ハロルド兄さんと同じくお祖父様と伯父様を尊敬し、この帝国の発展に日々身を削っていますわ」


 純白のドレスを着た皇位継承順六位のグレースが続く。父親譲りの金髪が艶やかな美女は、ホレーショと五歳しか違わないにも関わらず、外見は三十代半ばのそれだ。新世界の魔法によって外見的若さを保ち続ける彼女は、厚生大臣の要職を担っている。


「そんなお説教のためにこの部屋に呼んだわけではないでしょう? 早く本題に入ってくださいな」


 グレースが物欲しげに催促すると、ハロルドは振り返って上座の椅子に座る。そこは皇帝だけが座ることの許される席だが、二人がハロルドの行いを咎めることはなかった。


「参謀本部の情報によれば、大東亜は本気でロシアを叩くつもりだ。そして、太平洋連邦もな」


「ということは、やはりウラジオストクとオセアニア一帯の占領に動き出すと?」


「そういうことだ」


 ホレーショの問いにハロルドが頷く。


「欧州連合内では、オーストリアが停戦に奔走しているそうだが、世論はロシアとルクセンブルクに同情的だ。この上反撃を受けて太平洋連邦まで占領されたとなれば、奴らも止まることはできまい」


「そうなれば兄さんの読み通り、アジアと欧州の全面戦争になりますね。そして両陣営が疲弊したところに、我々が止めの一撃を加える」


「素晴らしい。ブリテンを取り返すどころの話ではない。世界の覇権すらも我々のものだ」


 二人の称賛に、ハロルドは得意顔で葉巻を取り出し、先端を切り落としてマッチで火を点ける。帝国軍の最高司令官である彼にとって、それは勝利の祝いであると同時に、儀式でもあった。


「これで次の皇位継承は私で決まりだ。私についてきたお前達にも、相応に報いてやる」


「ハロルド兄さんが皇位を継承するのなら文句はありませんわ。オズワルドやアルバスのような、イングランドの血統を軽視する者では、冠を戴くには不適格ですからね」


 グレースが嘲笑すると、そこへホレーショが懸念を続ける。


「その二人は戦後の植民地にでも放り込んでしまえば良いとして、トマスはどうする? あれは宰相として有能だ。貴族達も納得しないだろう」


「あれは私の弟だ。多少のわがままには目を瞑ってやる。精々死ぬまで、この兄に尽くしてもらうとしよう」


 ハロルドは皇帝の威厳と勝者の余裕を以て答え、悠然と紫煙を燻らせた。


     ◇


 哨戒から戻ったドミトリー・ボーコフ大尉が、牧島惣助からの伝言を受けて、一階の職員用休憩室に向かったのは、ちょうど日付が変わろうという時のことだった。


 窓がなく、換気扇の音が妙に響く、六畳ほどの空間には、正方形のテーブルと二台の自動販売機、メーカーの置き菓子が用意されていて、やや手狭だった。パイプ椅子も大尉の体格からすれば子供用のそれのようなもので、座り心地は良くない。


「済まないな、大尉。尻が痛いだろうが、我慢してくれ」


 向かいに座った惣助もそれは察したのだろう。詫びとともに自販機から調達した缶コーヒーを差し出してそう言った。


「そんなことより、地上に出てくるのは控えてもらいたい。あんたは命を狙われてるんだからな」


 得物のAK-12をテーブルに立て掛け、ボーコフ大尉は肩を竦める。


「それは分かっている。だが、患者やスタッフのいるところで、迂闊に聞ける話題ではないんだ」


 惣助はそう言って、虎のような鋭い目をする大尉を宥める。実際、ここへ来るに当たって、惣治に母親の相手をさせて、出し抜いてきたのだ。


「そこまでして聞きたい話題となると、俺が答えられるか怪しいがな。まぁ、聞くだけ聞いてみよう」


 ボーコフ大尉がそう促すと、惣助は単刀直入に訊ねた。


「君達は参謀本部の命令で来たんだったな。それなら、参謀本部は何故私を守ろうとしている?」


「最初に言ったはずだ。あんたは日本政府にも影響力がある。そいつを罷り間違って殺せば、この戦争は歯止めが効かなくなる。参謀本部はそんなこと望んでないんだよ」


 大尉は缶コーヒーを一口呷る。冷たいブラックコーヒーは、安物の粗悪な酸味があって、顔を顰める。


「あぁ、質問が良くないな」


 自身の米語を恥じつつ、惣助は言い直す。


「北海道には私より有力な華族や衆議院議員が他にもいるだろう? その中で私を守ろうとしているのが、いまいち納得できないんだ。例えば稚内にいる樺山という議員、彼には君達のような護衛はついているのか?」


「いや、聞いていないな」


 大尉は首を振る。


「この任務には俺ともう一つの隊が参加していて、保護対象になってるのはあんたの家族と軍人一人だけだ」


「それは妙な話だな。樺山さんは私よりよほど政治に影響力があるし、今の日本には珍しい親露派だ。死なせたらそれこそ戦争が止められなくなるぞ」


 参謀本部がそこまでの人物を認知していないということはないだろう。押し黙る大尉に、惣助は続けて訊ねる。


「私の他に保護の対象となっているのは、軍人だったな。名前は?」


「セイシロウ・アシカワ。貴族の息子だと聞いている。こいつはもう保護済みだ」


 惣助は首を傾げる。


「芦川の次男を守る必要性が見出だせんな。軍人が戦死するのは仕方のないことだ。芦川はそれが分からないような馬鹿ではないぞ」


「それは参謀本部に言ってくれ。正直に言うと、俺達も詳しくは知らされてないんだ。あんたらを死なせると、外交的に問題になりかねないとだけ聞かされてる」


「それなら、参謀本部は誰からの情報でそう判断したんだ?」


「さあな。司令部の責任者とは昔からの腐れ縁だが、情報源を話したりはしない」


 大尉は肩を竦めて、それ以上この話が進展することはなかった。


     ◇


 ウラジーミル・ジリツォフは月明かりの下を走り続けていた。肺が潰れかけているかのように呼吸もままならず、それでも前に踏み出す足と強く振れる腕に、心強さとおぞましさを覚えながら、無人の道路を無心で走り続けた。


 やがて目的地の正門を潜り、赤茶色の建物を見上げながら深く息を吐いたその時、黒焦げになったBTRの傍で、景色が黒く歪んだ。


「……っ」


 吸い込まれるようなその歪みの中から、黒いローブを着込んだ人物が姿を現すと、ジリツォフは恐怖に息を詰まらせ、老人らしく足を震わせる。


 鍵穴のような模様を刻んだ白いマスクが、月明かりに陰る夜の闇に不気味に浮かぶ。真っ黒なグローブをはめたその手には短剣が握られ、獣の牙のような刃が鈍く輝き、ジリツォフを威圧する。


 ジリツォフは腰に差していた拳銃を抜いた。志に協力する新世界の住人から受け取った、ロシア製の自動拳銃だ。


 引き金を絞りきるより先に、右手の感覚がなくなった。そして銃口を自身の右目に向けると、引き金が引かれて視界が弾ける。


 頭の右半分が、吹き飛ばされる。それでも痛みはなく、被弾の衝撃で崩れかかる姿勢に踏ん張りが利く。こんな状態でも生きている自分に吐き気を覚えながら、ジリツォフは走り出す。


 黒いローブの影は拳銃を抜いた。減音器を着けたその銃口が閃くと、銃身の鈍い機械音が寒空に響き、ジリツォフの膝と脛を射抜く。


 だがジリツォフは止まらず、裏口へ回った。職員用の通用口のドアを開け、バリケードを押し退けて建物に入ると、そこで自動小銃を提げた二人組と出会した。


「おい、侵入者だ! 鳴らせ!」


 一人がそう言って、自動小銃を向けてくる。再生した右半分の視界でそれを認めると、ジリツォフは慌てて日本語を紡ぐ。


「タ、タスケテ! オソワレテル!」


 手負いの市民を装いながら、片言の日本語を紡いだジリツォフに、見張りらしき二人は一瞬の戸惑いを見せる。


 黒ローブの影が追いついたのを背後の気配で認める。そして、二人の関心はより不気味な方へと向いた。


「何だこいつは!?」


「くそっ! 撃て!」


 二人の足下を、ジリツォフは這いながら通り抜ける。そして銃声とともに、防犯ブザーの警報音が鳴り響いた。

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