世界の最果てに佇む猟犬と新世界の彼方で吼える忠犬

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第73話

公開日時: 2022年10月10日(月) 00:54
文字数:3,296

 ベルリン中心部に建つ連邦首相府から車で二十分ほどのところに建つ青の会館は、ドイツ連邦議会に議席を持つ左派政党・蒼星の党の本部だ。ニーダーキルヒナー通りを挟んで連邦財務省本部の向かいに建つ三階建てのビルで、横長の本館は青みがかったガラス張り。その奥に佇む別館は新世界の素材を用いた鉄筋コンクリート製の白い壁に覆われている。


 健全な民主主義を守るための強固な権力の構築と、国境なき統一社会の実現を理念に掲げるこの政党は、新世界から亡命したエルフによって創設され、これまで四十年にわたって活動してきた。欧州の洗練された民主主義と人権思想に、新世界の価値観を掛け合わせた政党の理念は、少しずつドイツ国民に受け入れられていき、今では議会に五〇の議席を持つまでになった。


 冬の月明かりが映える本部ビルを、ハンス・シュミットが訊ねたのは、連邦首相府での緊急会合を終えた、午前一時のことだった。


 折れ曲がった腰に前のめりの上体を支える杖。雲のように伸びて口許を覆う白く長い髭。紺色のローブまで着込んだその姿は、まるで千年を生きてきた人外ではないかと疑ってしまうが、尖った耳がその疑念を裏づける。


 ハンス・シュミット。半世紀前まで名乗っていた名は、オルエー・イフェイオン。かつてキーファソ王国の外交の一切を取り仕切ったエルフの長老であり、今はドイツ連邦情報局の長官の座に就く、千年の時を生きてきた男だ。


 シュミットは側近を渡り廊下で待たせて、単身別館へ渡った。両開きの扉を押し開けて、一階の通路の奥にある地下の階段を降りていく。


 セメントで固められた階段を降りると、そこからさらに奥へ通路が続く。まるで行く手を阻むかのような、手狭で真っ暗な通路を進んでいくと、鉄製の扉が現れる。それを杖の持ち手で二度叩くと、扉がゆっくりと開いて、エルフの青年と黒い渦が姿を現す。


「お待ちしておりました、イフェイオン様。どうぞ、こちらへ」


 一昔前のブラックホールのイメージを想起させるその歪みに、シュミットは青年に手を引かれ、躊躇うことなく入っていく。


 瞬きした次の瞬間、黒い歪みの向こうに現れたのは、柔らかな蝋燭の火が照らすダイニングルームだった。暖炉では赤々とした火が穏やかに燃え、薄暗い部屋を暖めている。


「お待たせしてしまいましたかな?」


 シュミットが嗄れた声を紡いで、ばつが悪そうに黒のソフト帽を取る。禿げた白い頭を見せると、上座に座るその人物は、落ち着いた調子で声色を紡いだ。


「さして気にしてはいない。が、お前が持ち帰る話は、楽しみにしていたよ」


 穏やかな語調に安堵し、シュミットは遠慮がちに自席へ向かう。


 フランス領南ブリテン。ヨークシャーの寒冷な丘の上に建つこの屋敷では、シュミットの席は上座から見て右から二番目と決まっている。これがワルシャワの邸宅ならば一つ手前に着くことが許されるのだが、この会合がどこで催されるのかを決めるのは、上座に座るエルフの一存だ。


 艶やかな青い髪で縦ロールを左右に作り、後部にも巻き髪をいくつも連ねている。丸い双眸の中では青い月のような瞳を鈍く輝かせ、整った顔にうっすらと張りつけた微笑は、作り物のように無機質で不気味だが、美しさを湛えて儚くもある。この世界のシルクで作らせたクリーム色の民族衣は、彼女の青をより一層に引き立たせていた。


「それで?」


 案内役を務めたエルフの青年が、紅茶と茶菓子を持ってくる。シュミットは手元にそれらが置かれるのを待って、問いかけに応じた。


「帝国貴族への支援について、追及されました。許可した覚えはない、と。ですので、『連邦情報局として何かした覚えはない』と、突っぱねておきました」


「あのお坊っちゃまは、それで納得したの?」


「してはいないでしょうが、いずれにせよ証拠がありません。あるのはドイツが流した武器が、米帝の貴族達の手に渡ろうとしていたという事実だけ。納得せずに私を罷免する前に、自分が退陣することになりますでしょう」


 涼しげな顔で言って、紅茶を啜る。


「そうなると、いよいよ私達の時代ですね」


 そこへ闊達な声が飛んできた。シュミットと同じように黒い歪みからやって来たのは、紫色の髪を肩にかけるエルフだ。上座に座るエルフやシュミットとは違って、服装は如何にも現代の祖界人らしいチャコールグレーのスーツで固めていて、黒いヒールは艶やかで高級感を溢れさせている。襟には青の月を象ったブローチを着け、それが彼女の身の上を示していた。


 蒼星の党・党首にして、ワルシャワに強大な支持基盤を持つ連邦議会議員、アンナ・コワルスカ。それが、メーリル・ステルンベルギアというキーファソ王国時代の名を隠した、今の彼女の名前と肩書きだった。


「リナリア卿は欠席ですか、ダフネ様?」


 上座のエルフに問いかける。


「彼はしばらく、顔を出せそうにないらしいよ」


「全く、フランス領での会合のホストだというのに、困ったものです」


 自席へ向かうコワルスカを、上座のエルフは表情を変えず窘める。


「フランスは何かと大変らしいね。許してあげよう」


「あんなもの、身から出た錆でしょう。米帝の皇族と軍人を抱き込んだとか威張っていましたが、結局はあの混血を始末できず、アジアと米帝の対立も誘発できず仕舞い。ロシアも結局奪われてしまって、フランスももう終わりですね。ベネズエラでも反欧政権が誕生しましたし、アフリカや中東が離反するのも時間の問題ですよ」


「そう言うでない。リナリア卿は聡明だ、じきに次の手を打つだろう」


 捲し立てるコワルスカを、シュミットが諫めると、わざとらしく驚いた声が返ってきた。


「あらイフェイオン卿、思ったよりもお早いお着きですわね。置き物かと見間違いました。私よりも到着が早いだなんて、シュタイナー首相も随分あっさりと追及を諦めたものですわ」


「私に時間を割く余裕もないのだろう。ロシアにガスパイプラインを閉められて国民は怒り心頭だ。今度の選挙で政権交代は確実だそうじゃないか」


「あれだけ失策が重なれば勝ち目があるはずないでしょう。まぁ、私に言わせれば分相応な政権ではあったと思いますよ? 実に人間らしい、愚かで間抜けた政権じゃありませんか」


 シュミットの向かいに座って、女エルフは嘲笑を紡ぐ。


「国民はロシアが米帝に寝返った時にどうなるか、考えなかったんでしょうかね? 平和ボケしたスラキスの愚民でももう少し頭が回っていたように思います。ダフネ様もそう思われますよね?」


 上座の女エルフは、問いかけに少し考えてから、


「さて、どうかな。スラキスの民にまともな者がいたかどうか」


「キーファソの英雄は決まって辺境の地から出てきましたからな。アブローのトリコサンテス然り、ティルナのゲンティアナ然り」


 シュミットが滔々と語ると、向かいでそれを聞いた紫髪の女エルフは、途端に高慢な笑みを強張らせた。それを認めたシュミットは、


「王の槍への嫉妬は相変わらずか」


「軽口は慎んだ方がよろしいですよ、イフェイオン卿? 私はコネだけで生きてきたドイツの議員連中ほど、気が長くありませんので」


「そうか、そうか。なら、気をつけるとしよう」


 苛立ちを抑え込んだぎこちない笑みに、シュミットが辟易した様子で答える。


「それに、王の槍など所詮は虚号。王の盾として王家に長らく仕えてこられたダフネ様と肩を並べるなど、身の程知らずも良いところです」


 エルフは上座の女に、憧憬と諂諛の目を向ける。


「前々から気になっていたのです。ダフネ 様であれば、キーファソを超える大国に君臨することなど容易いはず。それが何故、宰相の座に収まっておられたのですか?」


 上座の女は微かな笑みとともに答えた。


「私に王冠は重すぎるんだよ」


「もったいないことですな。キーファソがあれほどの大国になれたのも、あなた様あってこそだというのに」


「そんなことはないさ。それに、悪くないものだよ? 自分が手にした宝石で飾った王冠を、他の誰かが被ってくれるというのは。次はお前が被ってくれるんだよね? ステルンベルギア」


「もちろん、喜んで!」


 問いかけられた女エルフは立ち上がり、胸に手を当てて力強くそう答えた。


第4章 了


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