「予備校の先生に聞いたんだけど、東京外大の世界史って三年に一回くらいロシア関係の論述問題が出るんだって。それで、今年の入試で出そうなんだよね」
「あ~、戦争あったしねぇ」
サラリーマンと学生でごった返す南北線の車両の中で、猫耳の亜人と黒髪の人間の女子高生二人組が、吊革に掴まりながら会話を連ねる。
「そうそう。戦争あったから、太平洋戦争の辺りが出題されるかもだって。近代史とか苦手だからやだなぁ」
「あの辺だったら北方領土とか覚えとけば良いじゃん? ニュースで毎日やってるし」
「でも世界史だよ? ベーリング海がどうのとか出されるかもしれないじゃん」
「そうかなぁ。国立なんだからそんなマニアックなこと聞いてこないと思うよ?」
密度の高い車内に響く受験トーク。それに反応したかのように、案内板には和平交渉の進展を報じるニュースの記事が表示される。
ロシア連邦による北海道侵攻から、ちょうど一ヶ月が経った。戦火の外にあった東京では変わらず日常生活が営まれ、当事者であるはずの戦争の講和が思い通りに進まない状況も、何となく対岸の火事のように受け止めていた。
「それにこないだの戦争が出題されるよりマシじゃん? めっちゃグダグダしてるし」
「まぁねー」
不意に手を伸ばしてきた友達を拒むこともなく、耳を触られながら、猫耳の女子高生は案内板を見上げる。
大韓帝国によるウラジオストク占領と、大日本帝国海軍による太平洋連邦の主要軍港へのミサイル攻撃。二つの反抗作戦が成功し、派兵された帝政中華陸軍によってトルコからロシア軍が追い出された頃合いで、米帝が仲裁を申し出た。大東亜共同体陣営が優勢となったタイミングでの仲裁だったが、三極の一角の仲裁を無下にするわけにもいかず、欧州連合は和平交渉のテーブルに着き、それから三週間、依然として交渉は続けられている。
戦争被害の補償と北方領土返還を要求した交渉は、誰もが予想した通りに難航しているが、その原因はロシア国内にあるというのが専門家の見解だ。誤解によって戦争を始め、海軍の主力艦隊を失い、ウラジオストクを占領されるという失態を演じた政府への失望感は強く、ロシア各地で大統領辞任を求めるデモが相次いでいる。さらには権威の失墜を嗅ぎつけた地方の独立派が息を吹き返し、モスクワ周辺では共和制の見直しと帝政復古を求める極右勢力も民意を得つつある。
「そういえばこないだ塚本先生の耳触ったんだけど、みー子ほどふわふわしてなかったんだよねぇ。やっぱ犬より猫の方がふわふわなのかな」
「塚本先生なんておばちゃんじゃん。年取るとふわふわしないんだよ」
「そうなの?」
「三十過ぎると一気にパサパサになるんだって。ママが言ってた」
「そうなんだ。じゃあ今のうちにいっぱい触っとこ」
「毎日触ってんじゃんー」
電車が飯田橋駅に停まると、降りる人の流れに乗って、女子高生二人組も降りていく。彼女達の隣に立っていた夏目は、空いた座席に座った。
◇
昨年冬の予想を外した気象庁だったが、春は見事に的中させた。四月に入る頃には気温が例年並になり、ゴールデンウィークには夏日になるという見立ての通り、大型連休一週間前の今日は気温二十六度を観測した。車内はエアコンを点けていて、外を歩く機動警備隊の重装備も、いつにも増して暑苦しそうだ。
『――こちらプードル1。二階を制圧。被疑者の姿はなし。護衛三名を射殺』
『こちらプードル2。離れで被疑者家族と使用人の身柄を確保。いずれも武器は所持していない。地下に護衛が数名逃走したため、これより制圧する』
「ハンター了解。狩りを続行せよ」
運転席で仕堂が無線に吹き込み、車窓の外に目をやる。南麻布の閑静な住宅街に、機動警備隊の装甲車と物々しい装備を提げた隊員達の姿は、やはり悪目立ちしてしまう。
「佐川伯爵なんて聞いたことなかったけど、南麻布にこんなでかい邸宅構えてるなんてなぁ。やっぱ上級国民様は違うぜ」
「あぁ、ほんと。ちょっとだけ共産主義者の気持ちが分かっちまうよ」
助手席に座る護藤が相槌を打つ。公安庁の捜査官にあるまじき発言を、後部座席の夏目は聞き咎めるでもなく、
「堂上華族の中でも、一時期は没落寸前って有り様だったらしいわよ。この邸宅だって、建てたのはほんの十年前だって」
「じゃあやっぱ大貫とかいうジジイの汁吸ってたんですね。そりゃ護衛も応戦してきますわ」
「ジジイの汁って表現ヤバ過ぎるだろ」
ツボに入ったのか、護藤が笑うと、仕堂と夏目もそれに引きずられて笑った。
極東連邦大学で起きた爆弾テロの主犯三人の死亡を、北海道での顛末とともに報告すると、夏目達の標的はテロリストから華族へと切り替わった。
内務大臣直轄で、公安庁長官が指揮する特別対策チームには、保安部と図書部、警備部から人員が選抜され、華族による重大事案の捜査が行われた。罪状は、ロシア政府への国防情報の漏洩を主とする外患誘致。それに関わったとされる堂上華族や、その影響下にある官僚と衆議院議員が次々と捕まっている。
この数週間の大捕物と、その後の取り調べで、事件は少しずつ解明されつつある。グラディアの政変の原因となった政務補佐官のスキャンダル。これによって欧州企業は新世界の資産を没収されたのだが、この時大打撃を被ったのが、大貫を始めとする堂上華族の面々だ。
グラディアのスキャンダルによって爵位を剥奪された稲木家と同じ堂上華族の彼らは、盟主たる稲木の口車にでも乗せられたのだろう、新世界に進出した欧州企業に投資していた。こうした企業の多くは資産没収による損失に耐えかねて経営破綻に追いやられ、結果彼ら堂上華族も困窮することとなったが、そこで大貫は起死回生の一手を打ったとされる。
大貫達は損失補填を、ロシア連邦政府に頼ることにした。見返りとして差し出したのは、海底ケーブルが敷設されている位置と道内・東北の軍の主力施設の情報、そして貴族院議員の数ヵ月以内のスケジュール。欧州の伝を利用して、それらをロシア連邦政府に売り渡していたのだ。
尤も、これは捕まえた華族達の調書を基に形作られた最も有力な仮説でしかない。これ以上の進展は、内務大臣も期待していなかった。事件の中心人物であり、ロシア連邦政府との交渉を一手に引き受けていた大貫公爵は、逮捕状が出た翌朝に服毒自殺をして、遺書すらも遺さなかったのだから。
「おっと?」
邸宅の離れから、銃声がいくつか響いてきた。それに仕堂が反応すると、まもなく無線機からその結果が告げられた。
『こちらプードル2。地下室にて被疑者の護衛と交戦。二名を射殺。被疑者は腹部に被弾し重傷』
「マジかよ……」
仕堂はそう呻いて、無線機を取る。
「ハンター了解。救急車を手配する。えーっと……引き続き警戒に当たれ」
『了解。プードル2は被疑者の応急処置を行いつつ、周囲を調べる。通信終わる』
『プードル1、了解した。通信終わる』
中堅の隊員達にフォローされ、冷や汗をかきつつため息を漏らす仕堂。護藤は指示を待たず、携帯電話を取り出して、救急車の手配を始める。
「救急車の手配を先に連絡できたのは良かったわよ。焦ることないから、落ち着いて」
「はい……班長ってやっぱ凄かったんですね。改めて実感しましたよ」
「それはどうも」
悪意のない小生意気な物言いに苦笑する。後任の育成のために今回から現場の指揮を任された仕堂だが、その理由が本人の昇進試験のためとあって、断るに断れなかったというのが実際のところで、本人も乗り気でないのは夏目もよく分かっている。
とはいえ、あの鎖地ですら通ってきた道なのだから、仕堂がこの道を通らないわけにはいかない。夏目としても、名門校で風紀委員の要職を務めた実績がある以上、嫌いな仕事ではあっても適性はあるはずと見込んでいるだけに、不安はなかった。
「今度お前がやってくれよ」
「やだよ。俺幹部候補とかなる気ないし」
八つ当たり気味の仕堂の無茶振りに、消防署への連絡を終えた護藤が素っ気なく返す。指揮や研究開発より現場で刑事らしいことがしたいとわがままを言って、その筋の専門家にも嘱望された特殊警備隊のキャリアを捨てて保安部に異動したのだから、当然の反応だろう。
ポケットのスマートフォンが、通知で震える。手持ち無沙汰の夏目はそれを取り出して内容を確認し、思わず頬が緩む。
「芦川さんからですか?」
「え? あ、うん。退院したって」
訊ねた仕堂にそう取り繕い、
「ちょっと電話かけてくるから、何かあったら対応お願い。護藤くん、フォローしてあげて」
「了解です」
指示を出して、車を降りる。歩道の隅まで行くと、背を向けて電話をかけ始める上司をサイドミラー越しに見守りながら、
「班長は鎖地さんだと思ってたけどなぁ。華族でエリート軍人相手じゃ、さすがの鎖地さんも勝ち目はないか」
「だなぁ」
仕堂と護藤のニヤケ顔を背に、夏目は電話を取った相手に祝意を告げた。
「もしもし。退院おめでとうございます」
『ありがとうございます。わざわざお電話いただいちゃって……お仕事中ですか?』
「えぇまぁ。でも、仕堂くん達に任せてるから、少しくらいなら大丈夫ですよ」
遠慮がちな芦川少尉をそう引き留めつつ、邸宅の方へ向き直る。銃声は聞こえてこないし、近隣から出てきた野次馬も所轄の警察官が壁になって押さえてくれている。特に異常はない。
憲兵隊分署での応急措置で、重傷を負った芦川が一命を取り留めることができたのは護藤のおかげだ。特殊警備隊時代に叩き込まれた医療技術は、戦地に派遣される軍医の経験を基に教育課程が組まれていたこともあって、あの現場では大いに役立った。応急措置の後帝国陸軍に保護され、牧島記念病院の外科医に診てもらった折には、護藤が医療従事者だと誤解されたほどの的確な対応だった。
肩と腹に一発ずつもらって生き長らえた芦川は、その後入院し、今日ようやく退院が許され、その一報を夏目に送ってきてくれたのだ。
「この後はすぐ稚内に復帰されるんですか?」
『それなんですが、実家から帰ってこいと言われちゃって……上司からも、復帰は親に顔を見せてからにしろって怒られちゃいましたよ』
ロシア軍による侵攻から一ヶ月。北海道と東北に上陸した部隊は壊滅し、海戦でも帝国海軍が勝利を収めた。今や大韓帝国がウラジオストクを占領し、それを楯に北方領土返還を視野に入れた和平交渉が続けられている。名誉の傷を負った士官に帰郷を許すくらいの余裕はあるのだろう。
「じゃあ東京に?」
『えぇ。来週、ちょっとだけ顔を見せてきます。あまり乗り気じゃないですけどね』
電話越しに苦笑する芦川。華族の次男というのは、何かと面倒な立ち位置なのだろう。
『それで、ちょっと相談なんですけど』
改まったように、芦川は切り出した。
『来週、予定の空いてる日とかありますか? 良かったらお礼も兼ねて、一緒に食事でもどうかな、って』
「あ……えっと、金曜か土曜でしたら、大丈夫ですよ?」
急いで予定を思い出し、答える。土曜は翌日が休みで、仕堂と護藤は休日出勤の予定だ。
『じゃあ土曜の八時に、赤坂まで来ていただけますか? 美味しい懐石料理のお店を知ってるので、ご馳走させてください』
「分かりました、八時に赤坂ですね」
『ちなみにその日って、仕堂さん達は……?』
「次の日仕事だから、来ないと思います」
何となく、望まれた答えを返すと、芦川は少しだけ声を弾ませて、
『じゃあお二人には何か贈り物を。何が良いかは、またその日に相談させてください』
「分かりました。じゃあ、また」
『えぇ、また』
電話を切り、深呼吸をする。緩みかけた表情を引き締め直すと、夏目は車へ戻った。
◇
牧島惣治はアルファードの後部ドアをノックして、ドアが開くとランドセルを投げ込んだ。
「ランドセルを投げるのは相変わらずですね」
乗り込んだ惣治に、ランドセルを受け止めたユリスが苦言を呈する。が、当の本人は閉まるドアを背に膨れっ面を返す。
「学校帰りなんだから、良いでしょ。こんな時くらい子供らしくしたいの」
「いつも相応に子供らしいでしょう。その膨れっ面とか」
呆れた風に言って、ランドセルを座席に置くと、運転席のフィラが車を発進させる。
「今日もパーティかぁ……みんな好きだよね」
独り言のようにぼやいた惣治に、ハンドルを握るフィラが応じる。
「世間では何かと騒ぎになってますからね。こんな時期だからこそ、団結したいんでしょう」
大貫公爵を始めとする堂上華族のスキャンダルは、惣治の学友でも知る大椿事だ。華族の屋台骨である堂上華族の醜聞に加え、その裏切りによって最も庶民に近しい開拓華族の有力者である牧島惣助が命を落としたことで、国内世論は華族制度の抜本的な見直しを求めるに至った。華族達の間ではこうした世間の動きに団結して対抗しようとする風潮が広がり、そこかしこで古参の華族がパーティを催しては結束を深めようとしている。
「こんなに無駄なパーティばっか開くから余計に反感買うんじゃないかな」
「それはそうですね」
フィラは相槌を打って、
「まぁでも、同じ開拓華族と繋がっといて損はないですからね。堂上華族の名義でパーティ開いてもらって、そこで得をさせてもらえば良いですよ」
「華族って面倒だね。お爺ちゃんもならなきゃ良かったのに」
「惣助さんも若い時に同じことを言ってました。『牧場で動物の世話してた方がずっと楽しいのに、親父のせいでそういかん』って、いつも愚痴をこぼしてました」
懐かしげに笑うフィラに、惣治も頷く。
「今日ってお姉ちゃんも来るの?」
「えぇ。流音とクロナを連れて、先に行ってますよ」
「そうなんだ。お姉ちゃんは来なくても良いのに」
惣助の訃報を知って酷く落ち込んでいた晴子も、今では何とか立ち直り、受験勉強と当主の姉の二足のわらじを履いて頑張っている。学習院大学になら華族の特権で無試験で入学できるが、父から許しを得た帝国大学受験を諦めず、その上華族として惣治を支えているのは、彼女なりの惣助への弔い合戦のつもりなのだろう。
「秋のやつは僕一人で行くよ。お姉ちゃんも受験で大変だろうし。今から乗馬の練習しとかないとね」
「乗馬?」
隣のユリスが聞き咎めた。それに惣治が答える。
「伯父さんから聞いたんだけど、キーファソの馬に乗るんだって。何か凄い荒馬らしいんだよね」
憂鬱そうな惣治。ユリスは思案して、
「もしやハルファグという種ですか?」
「え、知ってるの?」
「私の騎士団で使っていた馬ですよ。確かに気性は荒いですが、コツさえ掴めばソウジさんでも乗りこなせますよ」
「じゃあ乗り方教えて!」
「分かりました」
惣治は安堵して、満足したように座席にもたれかかる。
「しかし、ハルファグに乗る理由が分かりませんね。あれは軍でも気性が荒すぎて乗らなかったのに」
「まぁ、会場の領主が君の友人だからね」
遠慮がちにフィラが教えると、途端にユリスは機嫌を悪くして憮然とする。それをバックミラー越しに認めて、フィラは申し訳なさげに苦笑した。
新世界開拓に参加した祖界人の集まりである開拓団同窓会は、毎年十月に総会を兼ねた展示会を開いており、開拓華族である牧島家も当然出席を予定している。今年の展示会の会場は、新世ロシア帝国北方の巨大都市・プスタスクであり、この街がある北キーファソの領主として公爵の地位を持つのが、セリュー・テューダーことセルー・カレンデュラだった。
この事をユリスが知ったのは、ほんの二週間前のこと。公に姿を現さず、顔写真も公開されていなかった新興のロシア貴族となれば、今まで気づかないのも無理はなかった。
「ソウジさん、乗るのはやはり止めましょう」
「ダメだよ、ユリス。僕は当主なんだから」
露骨に感情的な申し出を、惣治が当主らしく諫める。牧島乳業を始めとする会社の経営を、当面は親族に任せている以上、せめて華族としての面目は自分が守りたいというのが、惣治の思いだった。
「しかし、ハルファグは危険です。もしかしたら、落馬による暗殺を狙っているのかもしれません」
「殺し方が遠回し過ぎでしょ」
「そもそも、新世ロシアは敵国ですし、祖界のロシア情勢に介入しようとしているそうじゃないですか。現地でテロに巻き込まれるかもしれませんし、行くのは避けるべきです」
バラエティ番組で陰謀論でも観たのだろう。だが聞き流せるほど荒唐無稽な話ではないだけに、フィラも笑いはせずに惣治の答えを待つ。
「みんなが守ってくれるから平気だよ」
惣治は毅然と答えた。
「僕は僕らしく、牧島家の当主になるよ。みんなに守ってもらいながらね。だから、これからもランドセルを投げるし、膨れっ面にもなるし、当主として新世ロシアに行くし、馬にも乗る」
「ソウジさん……」
「だから、ユリスは僕に乗馬を教えて、新世ロシアにもついてきて僕を守って」
いたずらっぽい笑みで命令されると、ユリスは観念したように笑った。
「ソウジさん、乗馬の経験は?」
「ないよ」
「ではまず普通の馬で基本を覚えましょう。ハルファグに乗るのはそれからです」
「分かった!」
惣治は笑みを返した。
第3章 了
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