くじ引きで決めた当番の時間は明け方五時。それまでに休息をとることにしたものの、二時間も経たずに目が覚めてしまった。
気だるい身体を引きずって、夏目は地上に繋がるエレベーターホール脇の自動販売機へ赴いた。缶コーヒーを飲んで気分を紛らわそうと考えたのだが、同じことを思い立った顔見知りが先にいた。
「ユリスさん……寝なくて良いの?」
黒地のスーツを着たユリスの新鮮な姿に、眠気が失せる。
「眠くないので、心配無用です。ナツメさんこそ、お疲れでは?」
微糖コーヒーのタブを開けて、ユリスはそれを呷る。どうやらこの寒さの中、冷たいコーヒーを買ったらしい。眠くないというのは半分痩せ我慢だろう。
まぁ、それは自分も同じだが、と苦笑して、
「私も眠くないから。戦争真っ最中の街にいるなんて、初めてのことだしね」
そう言って、ブラックコーヒーを買う。氷のように冷たい缶を取り出して、ベンチに座って一気に呷る。
「ユリスさん、元気そうで安心したわ。上手くやれてるか、心配だったから」
「母親みたいなことを言いますね」
ユリスは苦笑しつつ、隣に座る。
「ソウスケさんとご家族には、良くしていただいています。紹介してくださった大臣にも、感謝していますよ」
穏やかな物言いのユリスに、夏目は嘘がないことを認めて、安堵したように笑った。
「そういうナツメさんの方はどうなんですか? 北海道に来てるとは思いませんでしたよ」
「ユリスさんと捜査してた件で、ちょっとね」
今は関係者ではないだけに、踏み込んで話すべきではないだろう。そんな配慮を察して、ユリスも用件を理解しつつ、深入りは避けた。
「シドウさんとゴトウさんも来られているのですか?」
「今は別行動だけどね。稚内から牧島市に入ったところで分かれて、憲兵の人と先に中標津に来てたの。牧島さんと同じ華族の人よ」
何の気なしにつけた補足に、
「もしかして、アシカワ様のご子息ですか?」
「あれ、知ってるの?」
「日米交流会という集まりがあって、そこでお会いしました。軍人というよりは学者のような方だったかと」
抱いた印象は同じだったようだ。それよりも夏目には、初対面の場が引っかかった。
「日米交流会って、親米派の集まりよね? 何でユリスさんがそんなところに?」
米帝のファーストフードと分かった途端、ハンバーガーを拒絶するほどだったのに。一体どんな心境の変化か問い質すと、
「ソウスケさんが交流会の幹事なので、護衛のためですよ。そうでなければ行きません」
それもそうかと夏目は納得した。
会話が落ち着き、訪れかけた静寂が、地上階から漏れてきたブザーの音に掻き消される。立て続けに銃声が響いてくると、夏目とユリスはコーヒーを置いて立ち上がった。
「ソウスケさんが一階にいます。迎撃はロシアの方達に任せて、私達はソウスケさんの保護に向かいましょう」
「分かった。もし接敵したら、今度はいきなり撃っちゃって構わないわよ」
「分かってます!」
拳銃を抜いて、二人は地上に繋がる階段を駆け昇った。
◇
二階に築かれた防衛陣地から、タチアナとフェリックスの二人が音源に駆けつけると、ちょうど警備員が床に倒れたところだった。
暗い通路の奥を銃身下部のフラッシュライトで照らすと、敵の姿が光に晒される。不気味な黒い靄を背に黒いローブを纏い、右手に短剣を握ったその様は、二人に死神を想起させ、怯ませる。
その一瞬を突いて、黒いローブの影は踵を返し、黒い靄に飛び込んだ。反応が遅れたタチアナとフェリックスは、同時に引き金を絞って銃弾を撃ち込むが、煙のように靄は消え、そこにあの死神の姿は残っていなかった。
「おい何だよあれ!」
「新世界の魔法ですかね。あんなの見たことないですけど」
動揺するフェリックスに、タチアナが努めて冷静に答え、死体を調べる。
喉を切られた死体が一つに、腹を裂かれた死体が一つ。薬莢は辺りに三つほど転がっている。
相手が魔法使いであることを考慮しても、元軍人の警備員を相手に刃物で一方的に勝ったとなると、相当な手練れだ。
「一旦戻って、状況を報告しよう。あんな訳分からん奴と俺達だけでやり合うのは無茶だ」
「そうですね。ほんと、無線が使えないのって不便ですよ」
タチアナは拳銃を抜くと、廊下に転がって鳴き続ける防犯ブザーを撃ち抜いた。ブザーは砕け散って、耳障りな警報はやっと収まった。
◇
夏目とユリスが地上階へ出て、惣助達のいる職員用休憩室へ向かう途中で、ブザーは銃声とともに鳴り止んだ。
診察室と順番待ちのためのソファが並ぶ長い廊下は、非常灯のか弱い明かりに不気味に照らされている。職員用の通路はこの廊下の奥にあって、そこを抜ければ休憩室に辿り着ける。
長い廊下を、息を殺して進んでいく。銃声はあれから聞こえてこないし、エントランスから響いてくる足音も遠い。
敵を撃退できたのかもしれない。そんな期待を抱きながら、職員用の区画を隔てる扉が見えてきた時、背後に気配が現れた。
夏目が振り返ると、薄暗い空間に黒い靄が現れ、捻れたようなその中心から、黒いローブを着た影が出てきた。
「あれは……」
マルカル・スポルを殺害し、窮地を救ってくれた、鍵模様の仮面の人物。結果的に恩人だが、ここへ現れた目的が読み取れず、夏目は困惑する。
だがその手に持つ短剣の歯が、狩りを果たした獣の牙のように血で汚れているのは、敵性勢力と判断するに足るだけの説得力があった。
「どうやら敵のようですね」
同じく足を止めたユリスが言った。
「相手の得物は刃物ですか。それなら、私が相手をしましょう」
ベルトに差していた鞘から剣を抜き、まっすぐに敵を見据える。
「ナツメさん、ソウスケさんを頼みます」
「引き留めても無理そうね……負けちゃダメよ」
「言われるまでもありません」
強気な笑みに安堵して、夏目は踵を返して走り出す。ユリスはそれを見送ることはせず、敵と対峙した。
黒いローブの影が床を蹴る。
横に薙ぐ短剣を、ユリスは剣で受け流し、間合いを詰める。
相手の鳩尾を柄の底で殴りつけるが、それを読んだかのように、グローブをはめた左手が柄を受け止めた。
「っ!」
その手を払い除けて、間合いを作る。一メートルもない狭い間合い。それをユリスは踏み込んで、一気に削る。
「たああああっ!」
叫んで、振り抜く。壁を切り裂いた大剣の切っ先を、黒いローブを靡かせて、影は斬撃をかわす。流れるように返された太刀も、まるでそれを読んだかのように受け流し、まるで磁石の同極同士のように、間合いを作る。
太刀筋を読まれている。そう判断するには十分だった。
ユリスは大仰に剣を振り上げると、それを一思いに縦に薙いだ。それも相手が後ろに跳んで空を切るが、構わず柄を脇に引き込み、踏み込む。
切っ先は相手の胸をまっすぐに捉えている。間合いが一気に半減すると同時に、心臓めがけ白刃を伸ばす。
振り抜きからの刺突。ランリファスの戦士を倒すため、遠征騎士団副団長が編み出したその太刀を、黒ローブは短剣で弾き、ユリスの腹に手を当て、詠唱する。
「プルラ」
「ッ!?」
魔法によって吹き飛ばされ、ソファを巻き込んで床を転がる。腹と背中の鈍痛に息ができず、手元を離れた剣を探る余裕もない。
痛みと焦りの中で、ユリスは自身に撃ち込まれた魔法の正体を理解し、そしてまた混乱する。キーファソで発達した、魔法石を媒体とする魔法。その基本の一つである加速魔法は、初心者が使っても武器の威力に下駄を履かせるくらいしかできないが、上級者が使えばその限りではない。魔法による加速を相手に伝播させ、自分よりも遥かに巨大な怪物すらも素手で吹き飛ばすことができるようになるのだ。
魔法が盛んだったキーファソでも、それほどまでに魔法を使いこなした者は少なく、ユリスも一人だけしか心当たりがない。
「ま……さか……」
霞みかけた視界が、黒ローブの影の得物を捉える。剣技の応酬で血を払ったその短剣は、まるでガラスのように透き通り、そのくせ周囲の微かな光を吸い込んで宝石のように輝いている。キーファソ北部で採掘される鋼を使い、キーファソの者しか知らない技法で作られたその刃は、ユリスが持つ贋作とは比べようもなく美しい。
黒い影はユリスに止めを刺すこともなく、足早に夏目の後を追って歩いていく。
行かせるわけにはいかない。ユリスは重たい身体を何とか起こして、そして影の背中に飛びついた。
腰の辺りに縋りついて足を崩すと、黒い影が巻き添えを喰って倒れ込む。反撃する間も与えず短剣を握る右手を押さえつけ、そして仮面を剥ぎ取る。
「……っ」
首ほどの長さで切り揃えた橙色の髪に、目鼻立ちのくっきりとした凛然たる顔立ち。琥珀色の瞳を嵌め込んで、温厚な性格を表す小動物のような丸い目。団員達には優しさから慕われ、厳しさから尊敬され、騎士として、副団長として、そして友として、ユリスを支えたあの頃の面影は、今も確かに残っていた。
「セルー……!」
死んだと思っていた友との、思いがけない再会。だが相手はそれを喜びはせず、
「どけ!」
左の肘をこめかみに打ち込み、怯んだ隙にユリスを振り払い、立ち上がって走り出す。
「っ……待て! 待ってくれ!」
ふらつく身体に鞭打って、ユリスはその後を追った。
◇
防犯ブザーの甲高い警報は通路を伝って病院中に響き渡り、職員休憩室にいた惣助と隊長にも届いた。
「様子を見てくるから、あんたはここにいろ。もし敵が来たら、こいつで返り討ちにしてやれ」
ホルスターから銃身長を切り詰めたグロックを抜いて、惣助に渡す。テーブルに立て掛けたAK-12を取ると、隊長は休憩室を出ていった。
窓のない通路は非常口の明かりだけが灯っている。人の気配はなく、遠くから聞こえてくる防犯ブザーの音と銃声が、残響のように伝わってくる。
一発の軽やかな銃声とともに、防犯ブザーが鳴り止む。隊長はエントランスに繋がる連絡路に出て、敵の姿がないことを認めると、惣助に手信号を送って安全を伝える。
「タスケテ!」
「!」
突如現れた気配に、隊長が銃口を向ける。
中庭に面した通路の角。院長室の手前で手を挙げる人影は、床に膝を突いている。
「ワタシ、ロシアジン! マチニスンデル!」
「ロシア人だ?」
銃口を下ろして、相手を凝視する。灰色のジャンパーに血をべっとりとつけ、頭から垂れた血が乾いて顔にこびりついている。怯えたようなその顔は、跪いた姿も相俟って、随分と弱々しく見えた。
「お前、ロシア人か? ここで何をしている?」
負傷した老齢のロシア人は、隊長が紡いだロシア語に生気を取り戻す。
「あぁ、良かった! こんなところでロシア軍に会えるだなんて、奇跡だ」
「質問に答えろ。お前この町で何をしている? 軍人ではないな?」
「えぇ、そうです。孫の家族を訪ねてきてたんですが、戦争に巻き込まれてしまって」
隊長は老人の傍まで歩いていって、そこで老人の顔に既視感を覚えた。どこで見た顔だと首を傾げると、ちょうど同時に前方と後方のドアが開いた。
エントランスに繋がる前方のドアに、銃口を向ける。拳銃を手にドアを開けた夏目は、向けられた銃口に反応して引き金を引きかけ、隊長であることに気づいて銃を下ろす。
「危ないわね……」
「こっちの台詞だ。お前ここで何をしている?」
「ブザーの音が聞こえたから、牧島さんを助けに来たのよ」
「そりゃどうも。当主ならあっちだ。じきに合流する」
通路の奥を顎で差す隊長。しかし夏目の関心は、彼の背後に向いていた。背中を丸めて跪いていた老人が、腰に差していた拳銃を抜いて、撃鉄を降ろす。それを認めた夏目は銃口を向け、その老人の名を叫んだ。
「ジリツォフ!!」
銃声が響き、老人の銃口の先――職員用の通路から出てきた惣助が、肩を撃ち抜かれて倒れた。
「帝国のために!」
ついさっきまでの卑屈な姿から想像もつかない、勇ましい雄叫びを上げたジリツォフの脇腹に、夏目が銃弾を三発撃ち込む。続けて隊長がジリツォフの右手を蹴り、拳銃を弾き飛ばす。
「どういうつもりだ!?」
床に押さえつけ、AKの銃口を眉間に突きつける。ジリツォフは怯むこともなく、脇腹の銃創に顔色一つ変えず、勝ち誇ったように笑った。
「愚かな共和主義者め! これでお前達はおしまいだ!」
「貴様!」
怒りに任せて、ボーコフ大尉はAKの引き金を引く。至近距離からのライフル弾に、ジリツォフの脳漿が吹き飛ぶが、その達成感に溢れる笑みは変わらず、喉を鳴らして不気味に笑う。
「何だ、これは……」
明らかな致命傷は、醜い傷口から生え出した蔦のようなものによってふさがっていき、吹き飛んだ部分が復元されていく。明らかに科学や論理を逸脱した光景に戦慄する隊長の襟を掴むと、ジリツォフは乱暴に払い除けた。
壁に激突し、床に倒れる大尉。夏目は起き上がろうとするジリツォフに、銃弾を撃ち込む。
胴体に五発、いずれもまともに被弾して立っていられるような部位ではないというのに、ジリツォフはまるで痛みを感じていないかのように平然とし立ち上がり、銃創から血を滴らせながら夏目に迫る。
「離れて捜査官さん!」
横から聞こえてきた声に反応して、後方へ跳ねる。
連絡路を飛び出すと同時に、横殴りの弾雨がジリツォフを貫いた。銃声を聞きつけ、エントランスを通り抜けて駆けつけたタチアナとフェリックスによる制圧射撃。それによって顔面と腕の肉が削げ落ちるが、そこから蔦が生えてきて、瞬く間に再生していく。
「何だよこの化け物は……」
息を飲むフェリックスは、タチアナと二人、弾倉を替えることすら忘れて唖然とする。
「お前ら、退いてろ!」
隊長が叫び、ジリツォフの背中にグレネードが叩き込まれる。炸裂と同時にジリツォフは倒れかかるが、右半身を失った身体を内側から出てきた蔦が支え、踏み留まる。
「異世界の化け物ってのは厄介なもんだな」
擲弾発射器から硝煙を燻らせる隊長が、呻くように呟く。
蔦は上半身を肩まで作ったところで止まり、その代わりに右腕を形成始めた。床につくほど長いそれは、先端を槍のように鋭く尖らせている。
一薙ぎして壁を抉ると、その右腕を目の前の夏目めがけ伸ばした。
「っ!」
鋭い刺突に反応が遅れる。切っ先は腹を向いて、獲物を前にした獣のように迫る。
その手が触れる直前に踵を返し、宿主の左半身を貫いたのを認めて、夏目は既視感に襲われる。
駆け寄ってくる気配に振り返ると、黒いローブを着た女が、短剣を手に迫ってきていた。ついさっき対峙した、あの気味の悪い仮面の人物だとすぐに分かったが、同時にその目が睨むのが自分ではないと察せられた。
ローブの女は夏目の横を通り抜け、悶えるジリツォフの喉に短剣を突き立てた。鉤爪のように引っかけ、力任せに引き裂くと、ジリツォフは膝をついて倒れ、その身体が白い灰に変わっていく。
「おい、一体どうなってる!?」
グレネードでも息の根を止められなかった化け物が、容易く仕留められたのを、ボーコフ大尉は受け入れられず、声を荒げる。だが夏目は納得させられる答えを持ち合わせておらず、ただローブの女の行方を呆然と見届けることしかできなかった。
「止まれ! 貴様何者だ!?」
乱暴に叫ぶ隊長。タチアナとフェリックスも得物の銃口を向けるが、制圧できる自信はない。
「セルー!」
そこへユリスが駆けつけた。腹を押さえながら、足取りは鈍いが、ローブの女を呼び止めようと必死なことは、夏目にも伝わった。
「まさか、知り合いなの?」
「私の、私の友人です。止まってくれ、セルー!」
必死に呼びかけるユリスを見て、夏目がロシア語を叫ぶ。
「隊長、撃たないで!」
「しかし!」
迫ってくる橙色の髪のエルフに、銃爪にかけた指が震える。
「――私は牧島惣助を殺しに来たのではない」
隊長の目の前まで来た女は、ロシア語を紡ぐと、そしてAKの銃身を掴んであっさりと剥ぎ取った。
「邪魔をするなら殺す」
見下ろしながらそう告げて、AKを放り投げる。
タチアナとフェリックスが銃口を向ける中、女は通路に入った。ジリツォフが持っていた拳銃を拾い、その奥で倒れる惣助を認め、歩いていく。
撃たれた銃弾は一発。右肩に食い込み、背広には血糊が滲んでいるが、当人は意識があって、痛みに顔を歪めながら、ローブの女を見上げる。
「君はどこの勢力だ?」
夏目とユリスが通路に入り、ローブの女を監視する。フェリックスは隊長に肩を貸して立ち上がらせ、タチアナはエントランスへ応援を呼びに向かう。
背後で繰り広げられる事態の進展には目も繰れず、そして惣助の質問にも答えず、女は拳銃の弾倉を引き抜いて、弾を見る。そして唇を噛むと、拳銃を捨てて携帯電話を取り出し、電話越しの相手が受話器を取ると、枯れたような声で短く告げた。
「任務失敗。プランBへの切り替えを」
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