「ケネギン王国には陸軍二千人に憲兵が六千人も配備されてるわけだが、この理由知ってるか?」
山岳沿いの不毛地帯に敷かれた高速道路を走らせながら、運転席の鎖地が助手席の夏目に問いかけた。
「十年も前のことなんだがな、ケネギンとグラディアとの間で結構厄介な外交問題が発生した。現グラディア国王・サロサ八世が、ケネギン国王の王女との初夜でやらかしたらしい」
「えっ……」
学生時代に、そんな両国の対立に関する報道があったのをおぼろ気に覚えていた夏目は、思い出すよりも先に飛び出た覚えのない事実に、言葉を失った。
「両国はそれまで友好国だったんだが、その甲斐あって王家同士で縁談が持ち上がった。話はトントン拍子で進み、王女の方もその気だったんだが、初夜にサロサ八世が性癖全開で事を始めて、怪我をさせたらしい」
「いや、ケネギンとグラディアは国境問題で揉めたんですよね? そんな話聞いたことないですよ」
「そりゃあ、共生省が情報操作と根回しをしたからな。元首の不祥事、しかも変態プレイで王女に怪我させたなんて、共生省にどんな火の粉が降りかかるか分かったもんじゃない。だから連中は結託して、この事を隠蔽した。事実を知ってるのは、ケネギン王族とグラディアの一部の人間だけだ。多分、あの女騎士さんも知らなかったと思うぜ」
知っていて仕えていたら、見損なうどころではない。
「三女を文字通り傷物にされたケネギン国王はぶちギレ。軍を差し向けて、グラディアへの侵攻を図ったわけだが、そこで国境を守ったのが、あの女騎士さんが率いる百人そこそこの警備隊だった。凄かったらしいぜ? 押し寄せる大軍勢を相手に一歩も退かなかったそうだ」
「国境の憲兵隊は何を……」
訊こうとして、事情を察して押し黙った。国境警備は憲兵隊の管轄だったとはいえ、同盟国同士、同じ大日本帝国が後ろ楯となっている国の国境だ。入国手続きの管理くらいしかしておらず、軍事衝突を止められるだけの装備を現場に配備していなかったのだろう。
「まともな装備の憲兵隊が到着したのは、二時間後だ。ケネギン側の死者は四百人、グラディア側はお前の友達を除いて全滅。だが国内に誰一人敵軍を侵入させず、あの女騎士さんはグラディアを守り抜いた。尤も、その件で昇進なんてしなかったし、死んだ騎士達も平民出身という理由でかなり軽く扱われたらしいけどな」
「どうかしてるわ、この国。国家の英雄に対して、あんまりじゃないですか」
まるで自分の事のように憤りを滲ませる夏目を宥めるように、鎖地は頭をポンと叩いた。
「で、この事件でケネギン王国は軍を縮小させられ、代わりに陸軍が置かれて憲兵隊も増員された。表向きはケネギン王国起因の国境紛争ってことにして、両者とも共生省の仲介で和解。ケネギン国王は当然納得しなかったが、そこは共生省があの手この手で脅迫して黙らせたってわけだ」
知りたくもなかった現代世界史の講義を簡単に締め括った鎖地に、夏目が疑問を漏らす。
「ユリスさん、どうしてこんな国のために忠誠なんか誓ってるんでしょう。こんな腐った国に、あの人が仕える価値なんてないですよ」
鎖地から投げ渡されたリュックから、茶封筒を摘まむ。その中にある資料は、もう目を通してあった。
「キーファソには朱子学的な教えでもあったのかもしれねぇよ?」
冗談混じりに鎖地がそう答えた矢先、夏目の携帯電話が着信音を鳴らした。
「……磯村課長からです」
ポケットから取り出して、画面に表示された名前と番号を見て、告げる。
「後で俺からかけ直すわ。俺の携帯、盗聴されねぇから」
夏目は頷いて、着信音が途絶えるのを待ってから、携帯電話の電源を切った。
車を停めたのは、それから一時間ほど走った後のこと。
サービスエリアに隣接するガソリンスタンドに立ち寄り、夏目に給油を任せる傍で、鎖地は磯村課長に電話をかけた。
「――鎖地です。ご無沙汰してます。さっき桐生に電話しました?」
そう切り出すと、受話器の向こうから小さなため息が聞こえた。
『桐生と一緒か。何をしている?』
「その質問は『何をやらかしたんだ?』と訊かれていると考えてよろしいですか?」
『そうだ』
磯村の語気は淡々としていて、焦りや怒りといった感情はこもっていなかった。
『桐生がグラディア政府から、王立騎士団襲撃の実行犯として指名手配されていると聞いた。事実確認を行ったところ、間違いないと回答を受けている。証拠もあるそうだ』
「あぁ、それは事実ですよ。俺も手伝ったし、何なら俺の差し金だし」
『理由は?』
「あいつの友達を助けるためですよ。ユリスとか言いましたっけ? 何か訳の分からん言いがかりをつけられて処刑されそうな感じだったし、共生省のコネも役に立たなかったみたいなんで、こうするしかなかったんですわ」
『それは桐生の動機だろう』
磯村は切り捨てるように言った。
『お前がゲンティアナ管理官のために動いた理由は何だ?』
「かわいい後輩のためってことで納得してもらえません?」
『お前の性格からしてあり得ない回答だ。受け入れられん』
さすが、愛弟子のことはよく分かっていらっしゃると、鎖地は肩をすくめた。
『仕事の一環で助けたと考えても良いか?』
低い声で、囁くように問いかけた磯村に、鎖地は悪寒を覚えつつ、
「はいそうですって答えたら、何か良いことあります?」
『助けてやる。公安庁として、な』
ただし、と磯村は釘を刺す。
『大義名分を作れるだけの根拠があることが条件だ。そうでなければ、何もしてやれん』
「それならありますよ。大臣一人と高級官僚を十人、社会的に破滅させられるくらいのものがね」
『分かった。桐生に代われ』
鎖地は車へ戻った。ちょうど給油を終えた夏目に、携帯電話を渡した。
◇
グラディア国王が体調悪化を理由に、政治の表舞台から姿を消したのは、王都を起点として大陸に伸びる鉄道網が完成した翌月のことだった。
王家の人間が執政を司るグラディアで、国王の代理を務めることができるのは、彼の親類縁者を置いてほかになく、その資格を有するのは、当時十三歳の一人息子だけだった。
中等教育に差しかかったばかりの年齢で、その小さな背に国の将来という重責を乗せた王子の態度は、ユリス・ゲンティアナから見てあまりに不相応だった。
「王立騎士団は王家直属の格式高き騎士団である。よって、その紋章を今後平民が背負うことは避けるべきと考えている」
ホラツィが提案した王立騎士団の装備の近代化と、それに併せた騎士学校の設立。文官主導のもと、十年がかりで進められた計画の集大成を、丸々と肥えた腹を揺らしながら、王子は柄にもない理由で拒んだ。
「加えて、大日本帝国という強固な後ろ楯と、周辺国の我が国への友好的態度、米帝領との物理的な距離を鑑みるに、王立騎士団の装備見直しは不要と考える」
「お待ちください、殿下。王立騎士団は今や、我が国唯一の軍事組織です。装備の近代化をしなければ、治安維持に影響が――」
「何より、近代兵器の数々はいずれも野蛮であり、王立騎士団の気高さを損なうものと考える。よって、この提案は国王代理の名のもとに却下する」
ニヤケ顔の王子は、そう言ってからクッキーを頬張り、砕けた欠片をポロポロとテーブルに溢した。その隣では、政務補佐官の稲木が、勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。
「王立騎士団を貴族のみで構成するのは、今の兵力では不可能です」
狼狽するホラツィと、彼を支えてきた役人達。末席に座るユリスが、彼らに代わって弁を振るう。
「加えて、現在在籍する平民出身者は百名を超えます。この人数の騎士を王立騎士団から除隊させれば、治安維持に深刻な影響をもたらします」
「それなら、警察組織でも作って、平民はそこに異動させれば良い」
何のことでもないとばかり、王子は言ってのけた。
「とにかく、王立騎士団は将来私のものとなるのだ。平民に身を守らせるなど、恐ろしくてできぬ」
王子の言い分を、しかしユリスは受け入れなかった。
「ご自分が何を言っているか、分かっているのですか。国民に対する差別的な発言は、国王陛下のご意向に沿うものではない。それを国王代理の立場で仰有るのですか」
「これは殿下のご意思ですよ、ゲンティアナ騎士長」
表情を険しくしていくユリスに、稲木政務補佐官が涼しげに言った。
「よろしいではありませんか。治安維持能力の強化は、あなたも提言されていた課題でしょう? そこに平民出身者を異動させ、他方では王立騎士団の少数精鋭化を図る。実に理に敵ったご裁下とお見受けしますよ? 今や中国でも徴兵制度は廃され、志願兵による軍の精鋭化を推進しています。その流れに乗るだけじゃないですか」
「装備の近代化を拒み、貴族の子弟で固めることの何が精鋭化ですか」
「とにかく、この話はこれにて決着です。警察組織の名称については、ホラツィさんで決めていただいて結構ですよ。職務については、憲兵隊の担当領域を引き継いでいくこととしましょう」
我が物顔でその場を取り仕切る政務補佐官を、王子は諫めようともせず、指先についた甘いクッキーの欠片を舐め取ることに執心する。
この場でこれ以上、何を言っても覆ることはない。ユリスは直感した。
乳母と侍女に甘やかされ、共生省が選りすぐったという家庭教師に、自分が稀代の名君たる器と過剰に持ち上げられた結果、この王子は今の自分の判断が絶対に正しく、反論する者を無知蒙昧な愚者としか見ていないのだろう。
会議が終わると、ユリスは国王の私室へまっすぐに向かった。王立騎士団の上級幹部の集まる会合がこの後は予定されているが、政務補佐官達に骨抜きにされ、すっかり特権意識に浸かりきったあの連中と同じ場所にいるより、今は国王陛下に具申する方が優先だった。
「――っ」
私室に通され、十日ぶりに謁見した国王は、見る影もないほどに変わり果てていた。
茶色がかった髪は真っ白になり、頬は痩け、背筋は前のめりに曲がり、まるで老人だ。
そんな有り様でもそれが国王だと一目で分かるのは、その瞳の生気だけは、相変わらず衰え知らずで溌剌としていたからだった。
「どうにも厄介な病気らしい。大日本帝国から来ていただいた医師も、皆目見当がつかないそうだ」
掠れ声で国王陛下は苦笑した。
「陛下、日本の病院に入院してください。最新の設備を揃えた病院で治療に専念すれば、病気だって治るでしょう」
重々しくソファに腰を下ろした国王に、ユリスは進言する。これで二度目だ。国政を離れ、国民に心配をかけたくないと言って、近臣達の申し入れを断り、やむを得ず大日本帝国から医師を呼び、常駐してもらっているのが現状だった。
「いや、ゲンティアナ。私はここにいるよ」
国王はユリスに、静かに笑いかける。
「大日本帝国の名医をして、原因は分からず、日に日に衰えていく身を持たせることで手一杯だ。入院したとして、幾ばくか死が先送りされるだけだろう」
「しかし……」
「それよりも、ゲンティアナ。一つ、頼まれてくれるか?」
国王が震える右手で手招きすると、ユリスは側まで歩いていって、跪いた。
「私が死んだ後、あの子に仕え、政を支えてやってほしい。国王としてはまだまだ未熟だ。周りの誰よりも、ゲンティアナは騎士として、あの子を諫め、支えていくことができるはずだ。だから、どうか……」
目線の下がったユリスを見下ろしながらのそれは、哀願に近かった。
国王陛下の代で王政に区切りをつけ、民主主義制度に移行すべき。胸に秘めていた提言を、ユリスは切り出すことができなかった。
陛下はもう、長くない。それは誰もが覚悟していることであり、だからこそ殿下も政治の場に出てこられたのだろう。仮にそれが、共生省の思惑であったとしても、王政を継ぐ意思を示したことは、前向きに捉えるべきなのかもしれない。
ユリスは必死に、自分にそう言い聞かせ、そして国王に、静かに首肯した。
「――お任せください、陛下。殿下の治世は、私が支えて参ります。ですから、ご安心ください」
国王が身罷ったのは、それから三日後のことだった。
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