「急げ! 急ぐんだ!」
七人の部下と副官たる竹馬の友を率いて、ユリス・ゲンティアナは馬を駆る。
国境の街であるバーノンから王都のスラキスまでは、馬を走らせても数日はかかる。途中にある町や村で休憩を挟みながら、その倍はかけるのが普通だが、ユリスの一行はその道程を一日で踏破しようとしていた。
馬の息遣いは死にかけの老人のようだし、睡魔と身体の揺れで吐き気と目眩もある。だがそれでも、止まることはできなかった。派遣された伝令役が、命を睹して伝えてくれた都の状況を、この目で確かめる必要があったから。
やがてユリス達は夜明け前の森を抜け、王都を見下ろす下り坂に差し掛かった。反対の山から顔を出し始めた太陽が、ゆっくりと眼下の都を照らしていく。
「な、に……」
ようやく馬を止めたユリスは、その光景に言葉を失った。
山々に囲まれた広大な王都は、その面影を僅かに残すばかりだった。西方一帯はスプーンで抉り取ったかのように深く窪み、そこにあった市街地は跡形もなく消え去り、黒い土だけが残されていた。中心部にある荘厳にして華美な王宮も半壊し、ついさっきまで燃えていたらしく、黒い煙が白んだ空へ伸びている。都の原型を残しているのは、東の外れにある丘の教会と、その周りにある墓地くらいのもので、この街の活気の象徴だった麓の赤レンガの家々も、今や得体の知れない廃墟群と成り果てて、至るところで真っ黒い煙を血のように燻らせていた。
「何だ、これは……」
隣に馬を止めた燈色髪の女傑――親友にして副団長のセルー・カレンデュラは、ユリスと同様に息を飲んだ。
「これがスラキスか? ほんの数日前までとまるで違うじゃないか! こんなことがあるわけ……」
セルーは動揺を隠すことができず、狼狽える。幾度もの戦火を生き延び、何百という敵を切り伏せてきた彼女であっても、この光景を受け入れることはできなかった。
「そうか……これは、これは異世界の連中の幻術だ。こうやって私達の戦意を削ぐつもりなんだ。奴らめ、我がキーファソが他国と連合を組んだから恐れをなしたんだ。そうに決まってる!」
「落ち着け、セルー!」
「私は落ち着いている! さぁユリス、こんなところでもたもたしている暇はないぞ。こんなくだらない幻術、打ち砕いてやるんだ!」
セルーは賢明な女だ。常に冷静で、力や才覚に奢ることなく、何事も本質を見極めようとする。
だが、ユリスには今の彼女が、信頼に値する判断をくだせるとは思えなかった。冷たい風に乗って流れてくる、生命の焼ける死の臭いが、目の前のあれを現実だと証明していたから。
「行くぞお前達! あそこに巣食う異界の人間どもを蹴散らすんだ!」
セルーは背後の部下達に呼びかけた。みな、同じように動揺し、絶望の淵にいるような顔をしていた。
こうなると、どんなに歪な代物であったとしても、目の前の希望に縋りたくなるのだろう。ユリスとセルーが選んで連れてきた七人の騎士達は、示しを合わせたかのように互いを鼓舞し、副団長の意向に同調した。
「待て、待ってくれセルー! 相手が何人いるか分からないんだぞ!? せめて村まで引き返して、兵士と自警団を連れてくるべきだ!」
いつもとは立場が違った。本来なら、猪突猛進を繰り返すユリスを諫め、作戦を立て、補佐してくれるのがセルーのはずだった。なのに目の前の絶望ばかりの光景は、そんな決まり事すらも破壊してしまっていた。
「貴様はっ、こんな侮辱を人間から受けて、そんな悠長なことを言うのか!? 一刻も早くこんなふざけた真似を止めさせるのが先決だ。私達だけで十分事足りる!」
「違う! あれは現実なんだ! 幻術なんかじゃない!」
「人間ごときにこんな真似ができて堪るか! もう良い、私は行く。貴様は村へ行くなり好きにしろ!」
それは決別の言葉だった。それを感じ取ったユリスは、親友を引き止めようと声を上げ、離れていく背中に必死に手を伸ばした。
「セルー!」
手を伸ばした先には、真っ白な天井。
乱れた息遣いと全身の冷や汗が、ゆっくりと現実へ引き戻す。
「ゆ、め……?」
伸ばした手を下ろし、深く息を吸って、心拍を落ち着かせる。汗でベタついた身体を起こしてみると、そこでやっと見覚えのないシャツとハーフパンツを着ていることを自覚して、髪も解かれていることに気がついた。
ここが宿泊先のホテルでないことも一目瞭然だった。化粧台に、こじんまりとしたタンス、備え付けのクローゼット。その向かいに置いてあるのは、日本で先祖や故人の供養に用いるとされる、礼拝堂を模した置物。確か、「ブツダン」と言ったか。
「あ、起きた?」
寝室の扉を開けたのは、桐生夏目だった。Tシャツとジャージのズボンの上から簡素な青のエプロンを着た姿は、見慣れた背広姿とはあまりに乖離していて、正体に気づくのに少々時間を要した。
「キリュウさん……あの、ここは?」
「私の家」
「何故あなたの家に……」
浮かんだ疑問への自己回答とばかりに、眠気を残した頭に鈍痛が走った。
「やっぱり覚えてないのね。ユリスさん、昨日二次会まで行って泥酔した挙げ句、お店で爆睡したのよ。叩いても起きないし、宿泊先も分からないしで、仕方ないからうちに連れてきたの」
そう言われて、痛む頭の中で混濁した記憶が蘇る。フォルティとの再会に気分が良くなってしまっていたせいか、不覚にも酒に呑まれてしまったらしい。
「とりあえず、ユリスさんの酒癖が悪いってことはよく分かったわ。あと、いびきがうるさいってこともね」
「それは誤解です。普段は節度を守っています。というか、いびきって何のことですか?」
「そのままの意味よ。すっごいうるさくて、タクシーの運転手さんも笑ってたんだから」
全く記憶にないし、そもそも寝ている時のことなんて知る由もない。だがそれだけに、否定することもできない。
「まぁとりあえず、シャワー浴びてさっぱりしなさいよ。着替えも貸してあげるから」
いびきの件を弁解できないことに釈然としないものを感じつつも、寝汗と二日酔いの余韻を洗い流すことを優先して、ユリスは夏目の厚意に甘えることにした。
コンビニで調達してきたらしい無地の下着と、男物のシャツとハーフパンツに着替えてダイニングに戻ってくると、テーブルには朝食が用意されていた。
ご飯にカップのみそ汁、見るからに電子レンジで温めたらしい焼き鮭にきんぴらごぼう、そして不細工で固そうな目玉焼き。ホテルの朝食とは比較にならないが、夏目が朝食を用意してくれたこと自体が意外で、目を丸くしてしまった。
「コンビニで買ったのばっかで悪いけど、まぁ食べて。和食は大丈夫でしょ?」
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
夏目は笑いかけて椅子に座る。ユリスも向かいに座り、手を合わせる。
無言で目の前の食事に小さく一礼し、箸を取る。今時日本人でもあまり見かけない、律儀でおしとやかな食事の儀礼だった。
夏目はコンビニのハムサンドを手にリモコンを取り、テレビを点ける。日曜朝のニュース番組では、プロ野球のキャンプ情報が流れていた。朝食のBGMとしては無難だろうか。
「昨日のことなんですが」
鮭を箸で器用に切り分けながら、ばつが悪そうに訊いた。
「私は何か粗相をしでかしましたか? シャワーを浴びている時に思い出してみたのですが、記憶が曖昧で」
「仕堂くんと護藤くんに騎士道の何たるかを説教してたくらいかな。呂律が回ってなくて、何言ってるかよく分からなかったけど」
恥を晒すようなことではなかったとはいえ、気が重くなる。今度からどんな顔であの二人と会えば良いのだろうか。
「あ、そうだ」
夏目は思い出したように席を立ち、客間に小走りで向かう。ユリスがその様子を見守っていると、まもなくカバンからメモを一枚摘まんで戻ってきた。
「これ、昨日あなたの部下だった人から預かったの。フォルティさんだっけ?」
書かれていたのは、携帯の電話番号だった。彼の連絡先だろう。
「何故あなたに?」
「そりゃあ、あの時にはすっかり出来上がってたからでしょ。お店出た時のこと、覚えてます?」
答えはイエスだが、その時護藤に服装のことをいじられて何やら言い返したこと以外まともに思い出せなかった。
「電話番号をもらっても、私は電話なんて持っていないのですが……」
「じゃあ買いにいきましょうか」
夏目が提案して、缶コーヒーを一口呷る。
「私は今日休みだけど、あなたもそうでしょ? 次の日が仕事なのにあんなに泥酔するほど飲むとは思えないし」
「えぇ、まぁ……」
「じゃあ決まりね。ついでに服も買っちゃいましょう」
休日の予定が勝手に決まっていく。が、元々予定はなかったし、困ることもない。
ため息混じりにテレビの方に関心を移すと、いつの間にかプロ野球の話題は終わっていて、北海道の空港で起こった爆発を報じていた。
『昨日午後発生した、北海道・新千歳空港での爆発について、番組では当時現場に居合わせた方からお話を聞くことができました。独占インタビューです。ご覧ください』
画面には国道三十六号線のライブカメラが捉えた爆発の瞬間が映し出される。一瞬、画面が薄赤い光に包まれたと思った次の瞬間、赤い炎を含んだ爆煙が噴き上がる。国道脇の木々が爆風に薙ぎ倒され、車線を走る車が揺らされ、ガードレールにぶつかる。まるで戦争映画のような光景だった。
「変異石爆弾……」
ユリスはその爆発を見て、確信めいたように呟いた。
変異石の元々の呼び名は国によって微妙に異なるが、どこも示しを合わせたように「太陽」という意味合いを含んでいる。それが見た目から想起されているものだということは、変異石の色と祖界との邂逅以前の使われ方からも明らかだ。
新世界ではさして珍しくない鉱物で、山を少し掘れば大陸のどこでも採掘することができる。祖界の人類と違って自然エネルギーを必要としない彼らの生活様式の中では、その用途は多くの場合が祭事の装飾品に限られていて、現在の価値を見出だしたのは米帝の科学者達だった。
彼らは変異石に含まれる新世界特有の原子にパラリウムと名付け、エネルギー資源としての利用法を確立していった。熱分解とその方法に応じて石油にも天然ガスにも成り代わることができ、核融合素材として使用すれば水爆を凌ぐ破壊力を産み出す。当然、発電資源としても活用でき、原子力発電に迫る勢いで需要が増加している。その変幻自在で有用性に富んだ特徴から、与えられた呼び名は変異石。今や米帝や大東亜共同体のエネルギー事情と核戦略は、新世界から輸入される変異石に依存しており、世界の半分を影響下に収めながら、新世界への進出に失敗した欧州連合とのパワーバランスを維持する切り札として、邂逅以前とは比較にならない存在価値と存在感を誇示している。
変異石爆弾は、その名の通り変異石を用いた爆弾で、液状化させた変異石とそれによるガスを用いた爆弾だ。ほんの数百グラム用いるだけで高層ビルの柱を粉砕し、倒壊させることができるほどの破壊力を生み出す。新千歳空港は全壊し、隣接する空軍基地にまで被害が及んだということだから、数キロほどは使われたことだろう。
「死者三五〇〇人、負傷者四二〇〇人。パリの同時多発テロを超える未曾有のテロよ。事件現場が軍事基地の隣で空の玄関となれば、国の面子は丸潰れね」
CMに入ったテレビを観ながら、夏目が言った。
「随分と他人事のように言いますね」
ユリスは棘のある物言いをした。
「被害者のことならともかく、私は国家の威信とかには興味ないのよ。そんなのは政治家が考えれば良いこと。そうでしょ?」
「たとえ国政を担う身でなくとも、国を思い憂うのは当然だと考えますが」
「昨日も同じようなこと言ってたわね」
毅然としていたユリスが、ばつが悪そうに目を伏せた。申し訳ないことをしてしまったと思いつつ、夏目はテレビを消し、話題を変えようと試みる。
「さっきから気になってたんだけど、ユリスさんって箸使うのが上手よね。グラディアで教わったの?」
「日本人に教わりました。随分と昔の話ですが」
ユリスも夏目の意図に乗って、箸に目をやる。
「米帝との戦争が終わった時、私は国境近くの捕虜収容所にいました。そこではキーファソの騎士や兵士が捕らえられ、人間相手にはできないような拷問が日常的に行われていました」
「あなたも?」
「もちろんです」
この世界には人権に関する規定はないし、陸戦条約もない。そもそも人間ですらないのだから人権もない。
米帝はそんな建前を使い、侵略の際に行ったあらゆる非人道的行為を正当化した。それは捕虜の扱いも例外ではなく、人種や軍の階級、社会的身分などお構いなしに、新世界の人々は米帝の悪意に晒された。
「毎日のように無意味な重労働を課され、下劣な米兵の玩具にされ、朝が来る度に何人も死に、その度にどこかからまた新たな捕虜が連れてこられる。地獄そのものです」
「よく生きて出られましたね……」
「日本の特殊部隊が施設を襲撃して、私達を助けてくれました。もしあの時彼らが来てくれなければ、私は朝を迎えることなく死んでいたでしょう」
何とも、箸を使い慣れている理由を聞いてみただけなのに、とんでもなく重い話を掘り当ててしまった。
「……グラディアに移ったのは、その後です。そこで日本人の将校に色々と教えていただきました」
「なるほど、その人仕込みってわけね」
ユリスは首肯を返し、箸を取る。
「日本の食事はゲテモノが多いですが、みそ汁と焼き魚は好きになれました。恐らく、人生で一、二を争うくらいには好きです」
「それなら買ってきて正解だったわ」
まるで子供の食事を見守るように見つめてくる部屋の主。人に見られながら黙々と食べるのも美味しくないので、ユリスも質問を投げることにした。
「私も訊きたいのですが、良いですか?」
「なに?」
「あなたの態度を見る限り、愛国者というわけではないのでしょう。それなのに何故、公安庁に勤めているのです?」
公安庁は大日本帝国の治安維持を担う最後の砦であり、対テロと防諜をその使命としている。任務には常に命の危険がつきまとうし、市民からは恐れられ、警察からも良い顔はされない。それこそ愛国心でもないとやっていられないような職種ではないか。
愛国心を持たない桐生夏目という人物が、引く手あまたの立場でそんな職場を選び、反体制組織の摘発に勤しんでいるのは何故か。この数日間、彼女と仕事をする中で抱いた、純粋な疑問だった。
「まぁ、思い出したくもないような話をしてくれたんだから、それには応えてあげなきゃね」
まるで自分に言い聞かせるように言ってから、
「私ね、四人家族だったの。父と母と、それから五つ年下の弟。私が高校の修学旅行でアメリカに行ってた時にね、三人とも殺されたの」
ユリスは黙って聞き入る。
「最初は家に押し入った強盗に殺されたって思われてけど、二ヶ月後に捕まったのは右翼団体の構成員だった。犯行動機は、新聞記者だった時に父が書いた記事が軍を貶め、国家の権威を傷つけるような内容だったから」
「それだけの理由で三人も……?」
「そう、それだけの理由でね」
夏目は缶コーヒーの残りを飲んで、話を続ける。
「当時の右翼団体には、北方領土紛争の煽りで除隊させられた元兵士が結構紛れ込んでて、今よりもかなり血の気が多かったのよ。私の家族を殺した団体なんて、他に十人近く殺してるのが分かってる」
「信じられない話ですね。日本の軍人は、もっと高潔で慈愛を持ったものとばかり……」
「そういう軍人も少なくないわよ。今の国防軍は、加盟国と本土の防衛に力を入れてるから。でも中には、過激な考えを持って、それを実行してしまう人もいる。どんな国や組織だって、そういうものよ」
大恩ある組織の知らない一面に、少なからずショックを受けた様子のユリスをそう宥め、
「私はねユリスさん、国家とか天皇とか、そういう権威を大切に思うことを悪いことだとは思ってないし、この国を良くしようと思って、反戦や政治改革を訴えることも立派なことだと思ってるわ。でもそのために誰かを傷つけたり、大切な人を奪うことは、たとえどんなに綺麗事を並べても許されることじゃないの。そんな身勝手な連中から、この国に住んでる人達を守りたいと思ったから、私は公安庁を選んだの」
「復讐のためではなく?」
「私の家族を殺した犯人はとっくに処刑されたし、団体も解散して幹部もみんな死刑判決を受けてるからね。復讐しようにももう相手がいないのよ」
いたずらっぽく笑って言った。
「それに、公安庁は復讐心で動いてるような人は採用されないの。そういう人は目的を見失って勝手な行動を取り、自滅するから。あ、これ課長の受け売りね」
「それなら、私は公安庁には不採用ですね」
ユリスは自嘲して、ぬるくなったみそ汁に手を伸ばす。
「ユリスさんを採用したら、外事部で米帝担当をやらせろってうるさそうだもんね」
「毎年のように転属を申し出ますよ。尤も、諜報は好きませんが」
騎士らしい性格だと、夏目は笑った。
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