「――入団希望者というのは、お前だな?」
部屋に入るなり、団長はそう声をかけ、向かいの椅子に座った。一緒に入ってきた赤い髪の女性騎士は、美女の傍に立ち、こちらを見下ろす。
「名乗れ」
「は、はい。フォルティルス・リモニウムと言います」
「出身は?」
「コルベクです。西にある田舎の」
「そうか」
関心の薄い反応に焦りを覚えながら、フォルティルスは目の前の美女に見惚れてしまっていた。
同族でも一際美しい白い肌に、後ろで結った艶やかな金色の髪。翡翠の瞳を持った切れ長の双眸と引き締まった顔立ちは、騎士然とした凛々しさを纏っている。身動きの取りやすさを考えて選ばれた、肩を露出させる青地の衣服は、肌にぴったりと合う礼装で、浮き出た身体のラインのしなやかさが、彼女の自他への厳しさを表しているように思えた。
「お前はアルドルの紹介だったな。何故入団を希望している?」
団長の傍に立つ、赤髪の女性に目をやる。不安と緊張が顔に表れていたのか、アルドルはそれを諫めるように首を振り、何やら厳しげな言葉を無音で投げかけてきた。
「僕は、アルドルさんとは同郷です。家はあまり近くないんですけど、活躍はよく耳にします。それで、アルドルさんに憧れて、入りたいと思って……」
「何だ、アルドルはコルベクの出身だったのか?」
「そうだよ。団長、やっぱり忘れてたのか」
呆れたようにアルドルが肩を竦める。
「そんなんだからセルーさんに先越されるし、男も取られるんだよ」
「あの男は私の好みではない」
「趣味の話じゃなくて、心配りの話だよ。ほんと、騎士道精神に全振りしちゃってるんだから」
団長は咳払いをして、強引に話を戻す。
「話を戻すが、お前はここへ来る前は何をしていた? 軍人か、警察か?」
「どちらも試験で落とされました。小柄だからダメだって」
団長の表情から関心が薄らぐのを、フォルティルスは感じ取った。
「こいつは剣より弓が得意なんだ。百発百中さ」
そこへアルドルが助け船を出してくれた。すると団長は、
「狩猟をやっていたのか?」
「えぇ、まぁ。弓ならコルベク一番の自信があります」
「今までで一番の成果は何だった?」
「カストラを狩ったことがあります。大きさは大体、六シルトくらいだったかと」
「弓だけでか?」
「魔法も使いました。祖父から捕縛用の魔法と火の魔法を教わっています。祖父は南方の出身だったそうなので」
団長は話を聞きながら、何度か静かに頷いた。それから外の鳥のさえずりがよく聞こえるくらいの静けさが訪れ、団長がそれを破った。
「剣は使えるのか?」
「護身用程度ですけど、一応」
「それで何故騎士団に入りたいと思ったんだ? 騎士は剣術が必須だ。求められる技量も相当なものだと分かるだろう」
「それは……」
言い淀んで、それから決心して、答えた。
「小さい頃から、騎士に憧れてたからです。コルベクが隣国の侵略に遇った時、遠征騎士団が助けてくれたんです。その時からずっと、誰かを守れるようになりたいって、思ってました」
「ほら、前にランリファスの連中を返り討ちにしたことあったろ? あの時の話だよ」
アルドルが補足すると、団長は思い出したように頷いた。
「まぁコルベクは狩猟ばっかの土地柄だから、剣術を教えられる奴がいないんだ。私だって、まともに剣を習ったのは軍に入ってからだったんだからな。こいつのやる気次第では、目を瞑ってやっても良いんじゃないか?」
「そうだな……」
団長はテーブルに手を置いて、思案する。青い長手袋を着込んだ細い指先が、幾重にも交差する。
「フォルティルス、お前覚悟はあるか?」
やがて投げかけられた問いに、フォルティルスは即答した。
「あります。剣術もアルドルさん……ほどはいかないかもしれないけど、必死に――」
「そうではない。騎士としての覚悟だ」
「え?」
戸惑うフォルティルスをまっすぐに見つめ、団長が続ける。
「騎士とは国家に対して忠誠を尽くし、人々に対して規範となるものだ。法を守り、秩序を作るため、我々は敵を打ち払う剣であり、民を守る盾とならなければならない。そのために我々は、いついかなる時も公正であり、己を厳しく律し、人々に対し慈愛の心を持ち続けなければならない。それがお前にできるか?」
「で、できます! 必ず、絶対に!」
「そうか」
そこで初めて、団長は笑みを見せた。
「名乗っていなかったか。遠征騎士団団長のユリス・ゲンティアナだ。これから騎士とは何たるかを、私が教えてやる。覚悟しておけ」
◇
店から移動する時に回収しておいたユリスの剣を手に、フォルティは昔のことを思い返していた。
初めて会った時から、団長は何も変わっていない。自他に厳しく、しかし慈愛の心を持ち合わせ、いつも団員のことを考えていた。
面接で言われた言葉は、それから何度も何度も、数え切れないくらいに教えられた。無様な姿を見せては叱られたし、目に余れば蹴られもした。でもその後は優しかったし、見捨てずに教え続けてくれた。弓と魔法はいつも頼りにしてくれて、活躍の場も与えてくれたおかげで、騎士団で爪弾きにされることなく、役に立つことだってできた。
あの優しさがなければ、騎士なんて投げ出していた。だから団長には感謝しているし、心から慕っている。
だけど、もうあんな戒律に縛られてほしくない。国を守れず、仲間を救うこともできないただの足枷のために、死んでほしくはない。
「――リモニウムさん」
その時が来てしまったことを認めて、フォルティは加々美の方を振り返る。
「彼女の意思を聞きに行こうと思う。ついてきてくれるかな?」
「分かりました」
首肯して立ち上がり、加々美とともに地下へ降りる。二人の部下は念のための警備として、一階の事務室に残った。
ユリスを監禁している地下作業室の扉の前では、傭兵のランドルフが壁にもたれかかって待っていた。腕を組み、わざとらしく退屈そうに、首を鳴らしている。
「女を始末するんだろ? 待ってたぜ。俺がやってやるよ」
「彼女の答えを聞いてからだ。早まらないように」
「分かってるよ、キャプテン。だが俺には確信がある。あの女はあんたらにゃつかねぇってなぁ」
心底楽しみとばかりに、ランドルフが喉を鳴らして笑う。
加々美が扉を開け、フォルティとランドルフがそれに続く。
何もない空間の中心で、ユリスは変わらずそこにいた。力なく項垂れていた頭を上げて、部屋に入ってきた三人をじっと見据える。
「答えを聞こう、ゲンティアナさん。我々とともに戦うか、ここで死ぬか」
加々美が問いかける。
「答えは変わりません。私を殺したければ、どうぞご自由に」
躊躇いのない言葉。既に覚悟を決めきった物言いに、フォルティが堪らず声を上げた。
「何で……何でですか? どうしてそんなに騎士道に拘るんですか!?」
背後からランドルフに突き飛ばされ、フォルティは壁に身体を打ちつける。
「だから言ったろ? こいつらはそういうカビ臭い代物が好きなんだよ。てめぇらジャップと同じだ」
ランドルフがユリスの前に立ち、生身の右腕で細い首を掴む。
「……フォルティ」
首にかかる握力が一気に強まり、ユリスの表情が歪む。
「……お前の言う通り、私の騎士道は国も、民も、守れやしなかった。ただの綺麗事だらけの理想に過ぎないのかもしれない……だが、みんなその理想を信じて私についてきてくれたんだ。お前も、アルドルも、セルーも、みんな……その騎士道を……私の理想を信じてくれたみんなの思いを守るためなら、死ぬことなど恐れはしない……ッ!」
必死に紡いだ言葉に、フォルティは呆気に取られ、そして思い知らされた。
この人はやっぱり、何も変わってはいない。あの時から、ずっと、何も。本当に愚直で、不器用なことだ。
「ハハハハハハッ! 聞いたかよおい! 死ぬ間際になって開き直りやがったぜ! 随分と勇ましいもんだよなぁ!」
だけど、その理想を信じていたのは、自分だって同じじゃないか――。
フォルティは剣を抜いた。鞘を投げ捨て、長い刃を振り上げ、床を蹴る。
「リモニウムさん、何を――!」
加々美が声を上げる。ランドルフの視線がこちらを向く。それでも、構わない。
「やああああああああああ!!」
フォルティは刃を振り下ろした。本能的に頭を守ろうとして、ランドルフの鉄腕は顔を隠す。だが狙いはそこではない。
団長の首を締め上げる、その汚い手だ。
「この野郎ッ! クソッタレがあああああッ!!」
前腕から先を切り落とされ、ランドルフが咆哮し、右の義手で左肩を押さえて踞る。
「血迷ったか!」
加々美が叫び、腰に差した回転式拳銃を抜く。
「ピラ!」
引き金が引かれる前に、フォルティが叫んで、加々美を指差す。大陸南方で発達した、空気中の魔素と使役者の生気を媒介として発動する火の魔法だ。指先から生み出したのは火球。祖界の魔素は極めて薄いが、それでも手傷を負わせることはできる。
「っ!」
火球が肘に命中し、作業着を燃やす。被弾の衝撃と熱に呻きながら、加々美は作業着を脱ぎ捨てる。
「調子に乗ってんじゃねぇ!」
患部から血を撒き散らしながら、ランドルフが右腕を振り抜いた。拳がフォルティの右のこめかみを捉え、棚に吹き飛ばした。
「フォルティ!?」
吹き飛ばされた部下にユリスが声を上げる。ランドルフは肩で息をしながらユリスに歯を剥いて見せる。
「てめぇの前にまずはあのクソッタレからだ」
残虐な宣告とともに、棚の小物を巻き込んで倒れたフォルティに大股で近づく。
「止めろ……逃げろフォルティ!」
肘を突いて上体を起こしたフォルティに、ユリスが叫ぶ。だがフォルティはそれに精一杯笑みを返し、そしてユリスに、震える指先を向けた。
「ここならよく狙える……ピラ!」
ランドルフの左足を素通りした火球が、ユリスへまっすぐ向かう。そしてユリスを椅子に縛りつける左右の結束紐を掠め、燃やした。
「逃げてください、団長。早く」
拘束を解かれたユリスに、フォルティが静かに告げる。
「おらぁ!!」
笑いかけたフォルティの顔に、ランドルフが左足の爪先を叩き込んだ。崩れたフォルティの頭を、何度も何度も踏みつける。
「尖り耳野郎の分際で! 人間をコケにしやがってッ! ふざけんじゃねぇぞ!!」
ハンマーのような足が振り下ろされる度、肉の潰れる音がして、血の飛沫が跳ねる。動かなくなったフォルティに、ユリスは力なく椅子から滑り落ち、顔を俯かせた。
「残念だ、全く」
カチリ、と乾いた音がして、加々美の落ち着き払った声が降ってくる。
「彼とは心から通じ合っていた。それをあなたに邪魔された。情など挟むべきではなかったな」
銃口を向けられていることは分かる。このまま頭を撃ち抜いて始末するつもりだ。そうはさせない。
顔を上げて、銃口を睨む。引き金を絞ろうとする人差し指の動きを認めた、その時だった。
『大尉、公安です! 機動隊も来てます!』
腰に取りつけた無線機からの声に、加々美の顔色が変わった。
次の瞬間、外から発砲音がいくつも聞こえてきた。拳銃のそれではなく、もっと重たく、そして幾重にも連なった銃声――軍用の自動小銃のそれだ。
「くそッ!」
忌々しげに吐き捨て、銃口を下ろすと、奥の扉へ駆け出し、そしてランドルフに命じる。
「仕事だ、ミスター。まだ終われん」
返事を待たず、扉を開け、奥の部屋へ消える。
「公安だと? ちょうど良いじゃねぇか。憂さ晴らしにはもってこいだ」
フォルティの頭を潰しきると、ランドルフは息を上げながら振り返り、歪に笑う。
「だがその前にまずはメインディッシュをいただこうか。なぁ、おい!」
獣のように一歩踏み出して、ユリスを威圧する。ユリスはよろよろと立ち上がり、縛りつけられていた手首をならし、そしてランドルフをまっすぐに睨む。
「どうした? ビビって声も出ねぇかぁ? 無理もねぇ。てめぇらは俺らに負けたんだからなぁ!」
「あぁ、そうだ。新世界は米帝に屈し、国を失った。仲間も、民も、家族も、守れなかった」
だがな、とユリスは身構えて告げる。
「私はお前に負けたことなんて、一度としてない」
「ほざけぇ!!」
鋼鉄の拳を振り上げ、まっすぐに迫る。
鋼の一撃が振り下ろされようとした刹那、ユリスは跳躍した。ランドルフの金髪を見下ろせる位置まで跳ねると、その頭に左手を置く。左腕を軸に宙を舞うと、大男の背後に着地した。
前のめりに跳び、フォルティが手放した剣を取る。跳躍の勢いを使って前転し、フォルティの亡骸の前で立ち上がり、ランドルフと再び向かい合った。
「そんなもんで俺に勝てると思ってんのかぁ? えぇ、おい!!」
ランドルフは吼え、威嚇する。銃はおろか、ナイフも持っていないらしい。飽くまで生身の肉体と、あの鋼鉄の半身で、嬲り殺しにするつもりだったらしい。
ユリスは剣を両手で握り、構える。切っ先を大男の額に重ね合わせ、小さく息を吐く。
「ッ!」
床を蹴り、躍動する。
振り抜いた刃を、鋼鉄の肘が受け止める。斬撃の余波が柄を介して伝わり、骨身に響く。
「てやあぁ!!」
ランドルフの左腕が踊る。前腕から先を無くし、役立たずと思われたそれは、傷口から血を撒き散らし、ユリスの目を赤く染めた。
「ぐあ……!」
振り抜かれた左腕が、返り様にユリスの鼻っ柱に肘を叩き込んだ。体制が崩れたユリスの腹に、続けざまに鉄の拳を打ち込む。
強烈な一撃に吹き飛ばされ、床を滑って壁に背をぶつける。そこへ間髪入れず、ランドルフが追撃をかける。
「おらぁ!!」
「ッ!」
迫る鉄拳を横にかわすと、拳はコンクリートの壁を穿ち、衝撃で表面が剥がれ落ちる。まるでロケット弾でも撃ち込まれたかのようなクレーターを目の当たりにし、ユリスは息を飲んだ。
「ハハハハハッ! どうした、恐いか? 恐いよなぁ! 次はその顔を潰してやるぜぇ?」
戦慄を看破し、笑うランドルフ。ユリスは背後との間合いを一瞥してから剣を構え、
「そんな大振りに当たるほど鈍くない。御託は当ててから言うことだ」
「てめぇもなぁ!」
挑発に激昂し、再度拳を振り上げ、間合いを詰めてくる。
「死ねええええええええええ!!」
直立のユリスの顔面に狙いを定め、拳が繰り出される。
鼻先まで迫った刹那、ユリスは最低限の動きだけで横にかわした。今度は恐れることをせず、砕け散った壁の破片に頬を切られながら、ランドルフとの狭い間合いの中で切っ先を胸に定め、突き出す。
「ぃい!?」
ランドルフは反射的に左腕を差し出し、守りに入る。
「プルラ!」
肉を裂き、骨を砕き、左腕を貫いた切っ先を、魔法で加速させる。魔法石を仕込んだ柄頭を右手で押し込み、満身創痍の状況では出せない力を無理矢理に引き出す。
「でやああああああああああ!!」
最後の力を振り絞り、左足を目一杯踏み込む。骨に止められた刀身が血で滑り、前進する。
「ふざけんじゃねえええええ!!」
ランドルフが咆哮する。壁にめり込んだ鉄拳を引き抜き、ユリスの側頭部を殴りつける。
「ぐッ……!」
弾けた衝撃に、視界が歪む。こめかみを直撃した鉄の一撃で、血が吹き出たのが分かる。
だがそれでも、この剣は引かない。
「はああああああああああ!!」
切っ先が胸板を突く。皮を破り、硬質な筋肉を切り裂き、肋骨の隙間から心臓を貫く。
「かっ……あっ……!」
大男が目を見開き、口をあんぐり開けて固まる。傷口からは血が溢れ出し、刃を伝って滴り落ちる。
ユリスの側頭部に食い込んでいた拳から、少しずつ力が抜けていく。やがて鋼鉄の義手が力なく垂れると、ランドルフも糸の切れた人形のように項垂れ、そして崩れ落ちた。
「やった……やったぞ……」
ユリスが天井を見上げ、静かに笑う。宝飾を施していた柄が土塊のように崩れ、同じようにユリスも床に膝をつく。
地上へ繋がる扉が破られたのは、その矢先のこと。92式拳銃を手にした夏目を先頭に、タボールを提げた仕堂と護藤、ラムを携えた大牙がそれに続いて雪崩れ込んできた。
「ユリスさん!」
夏目が駆け寄り、倒れかかったユリスを抱き止める。
「良かった、まだ生きてる。救急車を呼んで!」
「了解!」
仕堂が地上へ駆け上がる。
「ナツメさん……?」
目を開けたユリスが、か細い声を紡ぐ。
「ユリスさん、死んじゃダメよ。すぐ病院に連れていくから」
「ご迷惑をおかけしました。ですが、少しはお役にも立てたかと……」
「えぇ、春秋叙勲ものの大活躍よ」
賛辞にユリスは笑い、そして反対側の扉を指差す。
「首謀者はあの扉の向こうに逃げました。私に構わず、早く……」
「分かった、ありがとう」
夏目は護藤と大牙に相槌を打つ。ユリスをそっと寝かせ、拳銃を手に立ち上がる。
「こいつが年貢の納め時ってやつだな」
大牙がそう言って、扉にバッテリングラムを叩き込んだ。
◇
地下室に併設された縦長の空間に入ると、加々美はその奥に安置した装置に駆け寄った。
七キロ近い変異石を使った爆破装置は、加々美の腰ほどの高さの台座に鎮座している。横幅はこの部屋に辛うじて収まりきるほどの大きさだ。この部屋で組み立て、三人がかりで地上に運び出す算段となっていたのだが、どうやらこの装置が日の目を見ることはなさそうだ。
変異石の気化ガスを詰め込んだ四本のガス缶には、起爆剤となる火薬と信管が取りつけられ、防弾性の強化ガラスで守られている。その傍には起爆コードを入力するパネルがあり、ここに十桁の暗証番号を入力することで装置が起動し、三十秒後には爆発する仕組みとなっている。
加々美はパネルの上部に備えつけられた、赤いボタンを押した。この装置の起爆コードを加々美は知らない。機動隊と交戦している部下も、あの傭兵もだ。それを知る人物から、決行当日にコードを教えてもらうために、このボタンは存在する。
やがて背後に気配が現れ、加々美が振り返る。どす黒い空間の歪みが、数メートル先に発生していて、そこから黒のコートを纏った人影が出てきた。薄暗い空間に溶け込んでしまいそうな、真っ黒なフードを目深に被ったその人影は、体格をコートで隠し、鍵穴を思わせる悪趣味な模様の仮面を被っているせいで、人物像は判然としない。この爆破装置も、起爆剤も、爆薬となる変異石も、この人物を通して手に入れたものだ。
人影は無言のまま、携帯電話を差し出した。二十年は昔の型で、最低限の小さな画面に大きめのボタンを備えた代物だ。既に通話ができる状態なのを認めて、加々美は受話器を耳に押し当てた。
『どうしたのかね、加々美大尉? 計画決行は明後日のはずだが』
聞こえてきたのは、流暢な日本語。欧米圏の訛りがあるが、十分過ぎるくらいに綺麗な日本語だ。
「計画変更だ、チーフ。ここで爆破させる」
『言っている意味がまるで分からないな。そこは隠れ家ではないのかね?』
「公安に嗅ぎつけられた。ここで爆破するしかない」
焦慮を必死に抑えて促す。
だが電話口の声は、加々美にため息を返した。
『なるほど、やけくそで爆破させるというわけか。日本人というのは本当に、自決行為が好きだな』
「ここで爆破させるだけでも意味はある」
『公安がそこに辿り着いたということは、君達の正体に気づいているだろう。ロシアの破壊工作に見せかけた空港爆破事件の真相にも、ね。その状況で爆破して何になる? 精々公安の兵隊が何十人かと、民間人を数十人ばかり犠牲にするだけじゃないか。そんな結果に何の価値があるんだか』
「ならせめて、逃亡を手助けしてほしい。あなたの使いならそれができるはずだ!」
扉の向こうが騒がしくなる。加々美は焦りを隠しきれず、声を荒げた。
「我々は志を同じくした盟友だ。そう言ったよな?」
『あぁ、私は日米同盟はまだ継続していると考えている。だからこそ君達愛国者に手を差し伸べた』
「だったら――」
『だが我々にはそれ以上に大切な絶対の真理がある。知っているだろう?』
そこで加々美は、右腕の痛みが感覚もろとも消え去ったのを感じ取り、固く冷たい銃口が、自らのこめかみにあてがわれたのを自覚した。
『ルール・ブリタニアだよ、大尉。そのためなら我々は、何だって犠牲にする』
冷徹な言葉とともに、加々美の右手は引き金を絞り、脳漿を吹き飛ばした。思考することもできず、ただ目の前の光景を映すだけとなったその目に、仮面の人物が手をかざす様子を捉えていた。
仮面の人物は加々美の亡骸から携帯電話を取り上げる。頭蓋で弾道が逸れたのか、銃弾は耳よりやや上を貫き、携帯電話は無傷だった。
血塗れの受話器を耳に宛がうと、それを待っていたように、相手が告げた。
『撤退だ、セリュー。戻っておいで』
通話を終えると、仮面の人物は黒い歪みに入っていった。歪みが消えて、空間に訪れた静寂は間もなく扉が破られて消え去った。
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