一階に到着すると、稲木玖美華はエレベーターを駆け降りて、エントランスに展開する憲兵隊を見るなり、安堵した。
国王が呼びつけたのだろう、しっかりと武装し、今にも突入を開始しようとしている。
「テロリストは上にいますよ。大広間です。早く行って……」
憲兵隊員と目が合い、稲木は息を飲む。
大東亜共同体が設立して半世紀以上経ち、今でこそすっかり大人しくなった憲兵隊だが、大日本帝国が植民地主義を肯定していた時代には、現地を暴力で支配し、「厳重処分」の名のもとに多くの殺戮を繰り広げてきた歴史がある。共同体に加盟した途上国の治安維持を彼らが担っているのは、その頃の職務の名残だ。
稲木に向けられている隊員達の視線は、まさにその当時のものと思えてならなかった。その目にはこれまでの低姿勢は垣間見えず、まるで政治犯を見るように、冷たく鋭かった。
「――稲木筆頭政務補佐官ですね?」
背後から肩を叩かれ、振り返る。背広を着た青年とゴブリンの二人は、公安庁の手帳を見せ、淡々と告げた。
「公安庁の仕堂と申します。治安維持法違反と同盟国保護法違反の容疑で、あなたを逮捕します」
稲木には、逃げる気力すら最早なかった。
◇
サロサタワーを囲むように整備されたビジネス街。ここに建ち並ぶ高層ビルには、祖界から進出した企業の現地法人が入居している。
フロレスタ観光もそうしたうちの一つだ。ブラジルに本社を持ち、新世界に進出したのは十年前のこと。六ヶ国に計二十六の事業所を構えており、それらの事業を統括しているオフィスが、三井グラディアセントラルビルディングと名づけられた高層ビルの三十階に置かれている。
サロサタワーとは通りを挟んで数十メートルの距離に建ち、窓からはパルデュラのビジネス街を一望できるオフィスには、今二人だけがいる。つい一時間ほど前には、三十名ほどのブラジル人と十名弱のグラディア人、五人の日本人がスタッフとして出勤していたのだが、彼らのうち四十名はオフィスを叩き出され、残りは全員床で血を流して倒れていた。
そして、オフィスにいる二人だけの生存者のうちの一人――鎖地は執務室で受話器を取り、目の前の椅子に座る瀕死の支社長から聞き出した番号をダイヤルした。呼び出し音が三度鳴って、相手が受話器を取ると、日本人らしい訛りのドイツ語をわざとらしく紡いだ。
「グ~テンモルゲ~ン。大日本帝国公安庁の者だけど、そちらドイツ連邦情報局さんでお間違いありませんかね?」
受話器の向こうからは、息遣いだけが伝わってくる。喋るつもりはないらしい。
「ブラジル国籍のダミー会社使って新世界に侵略かますなんて、舐めた真似してくれるじゃねぇの」
それがフロレスタ観光の実態であり、彼らが新世界に進出して十年かけて進めていた計画だ。
彼らがこの十年で買い取った土地の総額は、実に三〇〇億円を超える。このビジネス街に建つ高層ビルの過半数はフロレスタ観光が土地の権利を保有し、ヤイガの再開発エリアもほぼ全てを手中に収めている。それらは国王の勅命によって払い下げられた国有地であり、最初の買い主は日系暴力団・兼久一家のフロント企業である兼久不動産だ。
暴対法が存在せず、反社会的勢力を排除する風潮もないグラディア王国では、兼久一家のような連中でも国有地を買い取る権利はある。審査は稲木筆頭政務補佐官や彼女の息のかかった役人が口添えすることで通過することができるし、後ろ楯の大日本帝国に提出する資料にも説得力が増す。
そうして買い取った国有地を、フロレスタ観光が割高な金額で購入する。この流れであれば、国有地は私有地に変わった後に転売されたことになるため、フロレスタ観光を大日本帝国が審査することなく、簡単に手に入れることができてしまう。帝国本土であれば私有地売買だろうが内務省への届け出が必要であり、その相手が欧州系ともなれば公安庁にまで話が行ってしまうが、グラディア王国ではそのような法整備を阻んできた甲斐あって、私有地に関しては自由に売り払うことができてしまうのだ。
兼久一家はこの土地転売を通じて、一〇〇億円以上の利益を手にし、稲木筆頭政務補佐官やその小飼の役人達にも、総額で数十円という大金が支払われている。この事は兼久一家の金庫に隠されていた伝票と銀行口座の金の流れから既に把握済みであり、大日本帝国内務省にも報告済みだ。
「これだけの土地を買い占めとけば、グラディア王国は事実上、ドイツの影響下だ。あのバカ君主も筆頭政務補佐官の口添えがあれば簡単に転がせるし、この国から輸送される物資に依存する周辺諸国の生命線を握ったも同然。欧州連合は晴れて新世界進出を果たし、その立役者であるお宅らはフランスやロシアを出し抜いて欧州連合内の主導権も握れる……筋書きとしてはこんな感じか?」
『そこまで分かっているのなら、最早私から答えることはないと考えるがね』
受話器の向こうから、嗄れた声が届く。最早興味はないとばかりの、淡白な語調だ。
「反社経由で欧州連合が土地を買い漁ってた罪は重いぜ。あんたらが買った土地の権利は強制的に接収され、新世界に出てきてる欧州連合加盟国の企業も全部締め出される。当然、現地に置いてある資産も没収だ」
『そんなことをすれば、経済的な報復が行われることになる。欧州に進出している企業は、君の国にも少なくないが、同じ憂き目に遭うことになるぞ』
「知ったこっちゃねぇよ。そもそも目先の金に目が眩んで、核ミサイル向けて睨み合ってる国で商売する方がどうかしてんだろ。そんなバカな拝金主義者が野垂れ死のうが興味ねぇよ」
『それに関しては同感だ。どうにも世間の連中は、我々が少しの火種で爆発する危険な状況下にあることを理解していない』
緊迫する冷戦下、経済・文化的にはそんなこと知らぬ存ぜぬとばかりに、欧州や米帝と友好的な交流を続けている。それは欧州連合や米帝も同様で、世間の人々が心の底では覇権や支配、解放などよりも平和を望んでいることの証左でもあった。
尤も、政治がそれを望まず、いつでも息の根を止めてやる準備をしており、民衆も二枚舌でそれを望んでいるのもまた、三極の共通点であった。
『無駄話はここまでにしよう。この計画が破綻した以上、新たなプランを考える必要がある。君のつまらないお説教を聞いてやる暇はないんだ』
「まだ諦めてねぇの? もう観念してくたばれよ。アフリカだっていつまで支配下に置いてられるか分からねぇんだ。お宅らもう没落するだけだろ」
電話口の男は、鎖地の挑発に淡々と答えた。
『君のことは覚えておこう。特務の中でも、君はとびきり不愉快な男だ。息の根を止めてあげられる日を楽しみにしているよ』
「やってみろよ、ジャガイモ野郎」
拳銃を抜いて、椅子でぐったりする支社長に銃口を向ける。手足をガムテープで縛られ、顔の形が変わるほど腫れ上がるまで殴られた肥満体型の男は、とっくに死を覚悟していたらしく、静かに目を閉じた。
銃把を握る右手と受話器を握る手を交差させる。そうして相手に銃声がよく聞こえるようにしてやると、鎖地は引き金を絞った。
◇
エレベーターが最上階に到着し、サロサ八世は宮殿へまっすぐに走っていく。
騎士の国の王にあるまじき肥満体と運動不足による不格好な足取りで、ほんの十数メートル走っただけで、息が上がりきってしまっている。
エレベーターから直線距離で繋がっている宮殿の正面玄関に辿り着いて、自動ドアの玄関が開くのを期待する。が、ドアは反応を示さない。
「ええい、くそ!」
額の汗を拭って、息も絶え絶えにドアの側に取りつけられたパネルに目をやる。
黄金のカードキーを懐から取り出し、カードリーダーに通す。そしてさらに、サロサ八世と一部の高官だけが知る、八桁のパスワードを入力していく。
「忌々しいっ! くそっ!」
焦りと苛立ちに呻く。厳重なセキュリティを所望し、かっこよさだけでこのドアロックシステムを選んだのは、他でもないサロサ八世だ。
八桁の生年月日を入力すると、アラームとともにドアロックが外れて、自動ドアが開き始める。安堵した次の瞬間、パネルに触れていた右手に衝撃と激痛が走った。
「いがっ! があぁぁぁぁぁぁッ!」
右手を剣が貫き、パネルもろとも串刺しにしていたのだ。手のひらから血が流れ出し、床にこぼれ落ちていくのを見て、激痛に見舞われながら、サロサ八世は叫ぶ。
「な、何だあぁぁっ!? うあっ、あぁぁっ!!」
狼狽するサロサ八世は、自らの悲鳴に紛れ込む足音に振り返り、そして戦慄する。
ユリス・ゲンティアナが、そこにいた。肩で息をし、足を微かに震わせながら、しかし殺気を滲ませる目でまっすぐにサロサ八世を見据えて、向かってくる。
「ど、どうして貴様がここに……」
混乱するサロサ八世は、ユリスの背後にある開かれたドアを認めた。非常階段から昇ってきたのだ。二〇〇メートルの高さを、階段を使って。議場から宮殿までの区間、「国王たるもの悠然とせねば」というサロサ八世の意向で、エレベーターがのんびりと昇降するようになっていたことも、彼女が追いつけた要因だった。
「こ、こっちへ来るなッ! ひ、ひぃぃぃっ!!」
オートロックの安全な宮殿は、目と鼻の先。だが深々と突き刺さった剣が、行く手を阻む。
ユリスはサロサ八世のもとまで来ると、剣を引き抜いた。痛みで呻きながら悶えるサロサ八世に、血まみれの切っ先を向ける。
「や、止めろゲンティアナ! わ、私は貴様の主君だぞっ! 父上の遺言を忘れたか!?」
その瞬間、ユリスの顔が強張り、そしてサロサ八世の口を踏みつけた。
「ごはっ!?」
「その口で国王陛下の名誉を汚すな」
ユリスはサロサ八世を見下ろし、剣を振り上げる。
「貴様はグラディア国王ではない。国王陛下を殺害し、王位を簒奪した国家の敵だ。陛下の騎士として、私が粛清する」
ユリスの碧眼は、サロサ八世が見たことがないほどに、純粋な殺意に染まりきっていた。
「ひっ、いぃぃぃぃぃ……!」
恐怖のあまり涙し、威圧に呼吸は浅くなり、砕けた前歯の跡地から血が漏れ出す。あまりに情けない姿にも、ユリスは一切の動揺なく、剣を振り下ろそうとした。
「ユリスさん!」
その手を止めたのは、背後から聞こえてきた叫び。彼女が道を外すことを見咎めたかのような悲痛な声は、ユリスを思い止まらせた。
「止めて、ユリスさん。殺しちゃダメ」
振り返った先には、顔を腫らした夏目と、短機関銃を提げた憲兵隊の隊員達の姿があった。彼らがエレベーターで来たことは、閉じ始めたドアで察しがつく。
「止めないでください、ナツメさん。私は、この男を殺さなければなりません」
「先代の国王のために?」
「そうです。私は、あのお方をお守りできなかった。だからせめて、仇を討たなければ……」
「だったら、もう仇は取れてるわよ」
そう言って夏目はユリスの側まで行き、剣を握った手をゆっくりと下ろさせる。
「稲木筆頭政務補佐官も、宮殿にいる他の補佐官も、全員身柄を押さえた。残った王立騎士団も、憲兵隊が制圧してる」
「ロルカ・タギカは? あの男も間違いなく関わっています」
「私が仕留めたわよ。奥歯折られちゃったけどね」
何なら死体確認する? と、腫れ上がった頬を撫でながら夏目が言うと、ユリスはそれ以上口答えせず、剣を下ろした。
「あなたの忠節は陛下にも届いてるわよ。だから、もう止めよう? こんな男、あなたが手を汚す価値なんてないわよ」
「ナツメさん……」
ユリスの目から、殺意が和らいでいくのを認め、夏目は安堵する。
「そ、その女をさっさと捕まえろ!」
そして形勢が逆転したと見たのか、サロサ八世が喚き出した。
「お、おい憲兵隊! その女をさっさと捕まえんか! このサロサ八世に怪我をさせた不埒者だぞ!」
手の傷を押さえながら、背後の憲兵隊に叫ぶサロサ八世。
「残念だったなゲンティアナ! 憲兵隊は我が手中にある! お前はもう終わりだ! これまでのことは断じて許さぬ! 公開処刑にして――」
グラディア語で撒き散らされる憎悪の言葉の意味を、夏目は理解していなかった。ただユリスに対して、何か身の程知らずな罵声を浴びせているのだけは分かったので、そのお返しに、人中に拳を叩き込んでやった。
「ほぺッ!?」
間抜けた声を漏らして、サロサ八世は白眼を剥いた。
「じゃあ、後のことはお願いします。ユリスさん、行くわよ」
憲兵隊にそれだけ言って、夏目はユリスの手を引いて、エレベーターに乗り込んだ。
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