「知恵と神様への信仰は、相反するものなんですか?」
メアリの疑問に、ウィリアムが少しだけ躊躇うように言う。
「多分。いままで神の領域とされてきたものを暴く事が知恵であると、そう説く者がいる。知恵は人から神を奪うものであるらしい。例えば人は、コペルニクスの地動説で自らのいる場所が世界の中心であるという考えを否定され、そして進化論で、自らが神の似姿であるという事をも否定された。居場所と存在、この二つを否定され、残る神との縁は魂のみ、という有様だ。この世界は神が人間のために作ってくれた世界ではなくて、世界自身のものだと言うことを知ったが故に、そうして神はどんどんと暴かれて、今では、力学上で無力なものとしてしか存在を赦されなくなった。僕にはよくわからないけれど、罪を赦してくれる神の不在に、人間はあまり耐えられないのだそうだよ。だからこそ、聖書では、知恵が悪とされているのかもしれない」
知恵の実を食べることを神が禁じたのは、その事がわかっていたからかも知れない、と、ウィリアムの話を聞きながらメアリは思った。アダムとイブが神に背いて禁断の木の実――知恵の実を口にしたという人類最初の罪。すべての人間は生まれながらにしてその罪を背負うとされる。人間はその罪を羞じるどころか、更に罪を重ねるように、神の領域をその知恵で以て侵していく。
しかし、メアリには、知恵が悪だとはどうしても思えない。だから、おずおずと口を開いた。
「……知恵は、果たして聖書の言うように、悪だけのものなんでしょうか? 私には、そうは思えません」
すると、意外にも、ウィリアムが微かに驚いたような顔をした。なんだか、思いがけない言葉を受け取ったような、そんな表情だ。しかし、メアリはそれに気付かぬまま、ココアの入ったカップを見つめてぽつり、ぽつりと呟いていく。
「確かに、詐欺であるとか、殺人とか、泥棒とか、悪い知恵もあると思います。でも、人間の知恵で良くなったこともいっぱいあると思うんです。例えば、医学の発展で、病気で亡くなる人は確実に減っていますし、蒸気機関の発達で、帆船の頃とは比べものにならない速さで世界を巡ることが出来るようになりました。世界は、少しずつ善くなっていると思うのです」
信仰と知恵は相反しないとメアリは思う。相反しないやり方もあると、そう信じる部分があった。
神様はきっといる。でも、それは、絶対的能力をもって人間に禍福をもたらすとされるような存在ではなくて、もっと何か違う、優しい、暖かいものであると思う。神様は力学的に無力なのではなく、あえて、自らそうなったという、なんだかそんな気がするのだ。
「神様は、暴かれるのではなくて、その領域に人が立ち入ることを赦してくれている気がします。少しずつ、私達を信じてくれて、自分が完全に解体されるのを待っているというか……、神の言葉を人間が受け取って、『あなたの声は届いています』と答えてくれるのを待っているように」
メアリの言葉を、ウィリアムは黙って聞いていた。ほんの僅かに、躊躇うように訊く。
「……知恵が悪ではないというのなら、では、知恵によって生み出された、人を傷つける道具は、悪ではないのかな?」
その問いは、躊躇いがありつつも、どこまでも淡々とした声で発せられた。メアリは首を振ってきっぱり答える。
「悪ではないと思います。火薬は元々、皇帝のために不老不死の薬を作ろうとした中国の学者が、硝石に可燃性の薬物を混ぜた事がきっかけで生まれたと聞いています。ダイナマイトの発明も、きっかけは、ノーベル氏が弟さんをニトログリセリンの爆発事故で亡くしたから、だそうです。多分、悪意を持って何かを発明できる人はそうはいなくて、善意から生まれた発明を悪用する人がいるだけだと思います。自分でも極論だと思いますけど、物はみんな、良いことのために生まれてきていて、でも、それを悪い方へ使う人がいるから、だから悪くされてしまうんじゃないかなって……」
物の多くは、そんな、真摯な思いで作られる。それを裏切るのは常に人だ。
だから、知によって生まれたものに善悪はなく、それを用いる魂に善悪があるのだと、そう告げた。
「多分、知性には、どこかで感性に対する横暴、みたいなものがあって、人はその横暴さに打ちのめされてしまうから、知を悪とするしかない、のかもしれませんね。でも、なんというか……、だからこそ、知恵を悪にしてしまったら、なんだか違うというか……」
これ以上の話を纏めることが出来なくて、メアリは困ったように首を傾げてウィリアムを見上げる。ウィリアムの表情は普段と全く変わらないが、少しだけ、笑ったように思えた。
「ありがとう」
何故か小さくそういうと、ウィリアムは、メアリの頭をくしゃっと撫でた。その仕草が、なんとはなしに懐かしいし、どういうわけか、頭を撫でられて嬉しいことが照れくさい。
照れくささを隠すために、メアリは黙ってココアを飲むが、しかし、その正体にまでは思い至らない。ふと訊いた。
「ビリーさんは、さっき、何を言いかけたんでしょうね?」
「……さぁ。あれは、人をからかうのが好きな質だから、あまり気にしない方が良い」
殊更に無感情に言われたその言葉に、メアリは更に首を傾げる。ウィリアムがなんだか隠し事をしているような気がしたからだ。しかし、銀色の声の数値は何一つ変わらない。
なんとなく腑に落ちないような気がして、メアリは沈黙したままのトランクに視線を投げた。ビリーが起きたときに、また話を聞ける機会もあるだろう。自分の中でそう納得をさせ、メアリはマグカップの中に残ったココアを一気に飲み干す。
ココアはとても美味しくて、どこか優しい味がした。
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