Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

33

公開日時: 2020年10月9日(金) 18:00
文字数:4,853

 目の前にあるのは、夕日によって真っ赤に燃える倫敦の街だった。自分達は、どこかの建物の屋根にいるものらしい。屋根から足を滑らせないように、さりげなくウィリアムが支えてくれているのがわかる。


 屋根の上から見下ろす、夕日に染まった倫敦は、本当に素晴らしかった。石造りの建物の煙突から棚引く白い蒸気が、夕日に照らされ赤く染まっていく姿は、此の世の物とは思えない。遠く南の方角にウェストミンスター寺院と議事堂のシルエットが微かに見える。夕暮れに映えるそれは、正しく白の貴婦人と、黒の鎧を纏った騎士だ。


 空の青が西に行くにつれてゆっくりと白くなり、だんだんと赤い色に変わっていく様は、なんだか魔法のようにメアリに思えた。夕日は赤いものなのに、境界線に浮かぶ雲は黄金で、そして白い空に溶けていく。


 十二月の冷たい風が頬を撫でるが、寒さは少しも感じなかった。ただ、胸が痛くなるほどに、この世界は美しいと、そう思う。


 いつも見上げていた光景なのに、こうして見下ろすだけで、なんだか別世界のようだった。


「綺麗……」


 思わず呟くメアリにウィリアムが言った。


「丁度ミューディーズを出るときに、あまりに夕日が綺麗だったから、君に見せたいと思った。あんな惨事の後には相応しくないけれど、それでも……」


 語尾を濁して言い淀むウィリアムに、メアリは静かに首を振る。


「いいえ、ありがとうございます。それに、ウィリアムさんのおかげで火が消し止められたんですから。皆が助かって、本当に良かったって私は思っているんです」


 にこやかなメアリの言葉に、ほんの僅か、ウィリアムが苦い声で呟いた。


「……計算したのは君で、僕はただ、その計算通りの軌道とタイミングで銃を撃っただけだ。第一、僕は彼等を見捨てようとした」


 普段とは全く違う声の苦さは、後悔に直結しているからだろうか。夕日を見つめる蒼い目は、光の黄金に反射して、何処か不思議な輝きを放っている。その目に紛れもない哀傷を認め、たまらずメアリが口を開く。


「でも、ウィリアムさんが正確なタイミングで撃ってくれなければ、あの火事でもっと沢山の人が亡くなっているんです。それに、ウィリアムさんが最初におっしゃったんですよ、『ここにいる人たちも助からない』って。それは、ウィリアムさんが最初から、あの人達を助けたい、って思っていたからなんでしょう?」


 ウィリアムの言葉を、メアリは一生懸命に否定した。しかし、ウィリアムはまだ納得をしないようだ。益々苦い声で言葉を続ける。


「確かに火を消せたけれど、僕は、結局、あの場にいた全員は助けられなかった。だから……」


「違います。全員は助けられなかったとしても、それでも助かった人たちはいるんです。ウィリアムさんは、全員を助けられなかったことを悔やむのではなくて、大勢を助けられた事、それを誇りにして良いんですよ」


 自嘲するようなウィリアムの言葉を遮るように、メアリは大きく首を振って、必死になって反論する。


 ウィリアムの言うとおり、火は無事に消し止められたが、しかし、確実に何人かは犠牲になっているだろう。爆発に巻きこまれたり、蒸気自動車に轢き殺された人間だって少なからずいるはずだ。それは、変えようのない事実だった。


 しかし、その犠牲者達を助けられなかった事を、自分のせいだと気に病むというのはおかしいとメアリは思う。


自分達はちっぽけな人間で、火を消せただけでも僥倖なのだ。自分達がどうにかすれば、総ての命を助けられた筈だと思うのは、命に対する傲慢だろう。自分達は偉大な英雄でもないし、時を操れる運命の神でもなんでもない。だから、その場で出来ることを精一杯やるしかないし、その時の最善を尽くした結果ならば、失った命を悼む事も大事だが、しかし、それより、幾人かだけでも助けられた事を喜ぶべきだと思うのだ。


 そう言うようなことを一生懸命話すメアリに、ウィリアムが少し驚いたような顔をした。


「命に対する、傲慢……」


 口の中で呟かれた言葉に、メアリは静かに頷いた。


「自分が頑張りさえすれば、他の人の運命を変えられた筈だと思うのは、つまりはそういうことだと思うんです。総てを背負う、というには、人の背は小さすぎるし、無力なんです」


 そういうと、メアリは改めて、にこっと微笑む。ウィリアムに対して、明瞭はっきりと言った。


「でも、一人の背では背負いきれないから、だから、人は手を取り合って協力するんでしょうね。今回だって、私達、どちらが欠けても火は消せなかったでしょう? きっと、一人で何もかも背負えるようには、人は出来ていないんです」


 メアリの言葉は、一歩間違えば、運命という言葉の下に、自分の責任を放棄した不実なものに捕らえられてしまうだろう。


 しかし、メアリが真実言いたいことはそうではない。


 メアリのそれは、命に対する諦念――諦めるという意味ではなく、物事の本質をはっきりと見ることという意味での諦念――と、酷く似ていた。


 この少女は、命について、既に残酷なまでに悟ってしまっている。来たるべき死に打ち勝つことは、人には出来ない。しかし、抗うことは出来るのだ、と。


 その事に気付いたウィリアムが、ほんの少し、微かに笑う。風のない湖面のように、静かに言った。


「……そうだね。僕は少し、思い上がっていたようだ」


「人は、人の力でどうこうできるほど、小さなものではないんです。私達の手につかめるものは、たった二つしか無いのです。だから、こんなちっぽけな私達が、一人でも多くの方を助けられた事を喜びましょう? 人は、総てをたった一人で背負い込む必要はないと、私は、そう思うんです」


 慈しむようにそう言うと、メアリはまた、夕暮れの倫敦へ視線を向ける。


「悲しむ事と喜ぶ事って、矛盾しているけれど、でも、本質はおんなじ事なんじゃないかな、って思うんです。だったら、悲しむよりは喜んだ方が良いって、私はそう思います。だから、私、ウィリアムさんがこの夕日を見せてくれたことに感謝しているんです。……本当に、ありがとうございました」


 そういうと、メアリはウィリアムに深々とお辞儀をする。ふと、思い出したように訊いた。


「あの、肩は大丈夫ですか?」


 心配そうなメアリに、ウィリアムがゆっくり首肯する。


「大丈夫。痛みには慣れてる」


 そういうことでは無い、とメアリは言おうと思ったが、しかし、結局何も言わなかった。代わりに、出来るかぎり心を込めて言う。


「早く治ると良いですね」


 衷心からのメアリの言葉に、ウィリアムが少し目を逸らす。表情は殆ど変わらないのだが、なんだか叱られた子供のようだ。


「……そうだね。早く直すようにする」


「はい」


 そこで会話は一旦途切れる。メアリから目を逸らすように夕日に染まる倫敦を眺めていたウィリアムが、ふっと一つの詩を呟く。



The sea is calm tonight.

The tide is full, the moon lies fair

Upon the straits;---on the French coast the light

Gleams and is gone, the cliffs of England stand,

Glimmering and vast, out in the tranquil bay.

Come to the window, sweet is the night air!

Only, from the long line of spray

Where the sea meets the moon-blanch'd land,

Listen! you hear the grating roar

Of pebbles which the waves draw back, and fling,

At their return up the high strand,

Begin, and cease, and then again begin,

With tremulous cadence slow, and bring

The eternal note of sadness in.


(海は静かだ。

潮は満ち、月はドーバー海峡に

美しくかかっている――。仏蘭西海岸の灯火のまたたきは

何時しか消えた、英国の断崖は静かな湾内で

広々と微かに見えている。

君も窓際に来るといい、夜気が爽やかだ。

海と月光に輝く陸地が接する

長い波打ち際から

波が打ち寄せ打ち返し飛沫を立てるたびに

小石のこすれあう音が聞こえる。

打ち寄せる波が沖の大波に戻るたびに

その音は、ゆっくりと震える律動で

聞こえては止み、また聞こえて、

緩やかなカデンツアを振るわせ

永久に続く悲しみの調べ)


 誰かに聞かせるわけでもなく、無意識に出てしまう独り言のような風情で呟かれたのは、なんだかどこか、もの悲しいようなうただった。


 美しいドーヴァー海峡を謳うようであるのに、どこか寂しさが滲み、だからこそ、気になった。思わずウィリアムを見上げてしまう。


 メアリの視線に気付いたウィリアムが、ふと我に返ったように、ほんの僅かに目を細めた。少しだけ、弁解のように言う。


「……マシュー・アーノルドの詩だよ。僕は何故だか、こういう時に彼の詩が引っかかる」


「引っかかる?」


「自分でもわからないうちに呟いてしまう、という事かな。気に触ったなら謝ろう」

 そう言って本当に頭を下げるウィリアムを、メアリは慌てて手で制す。


「あ、いいんです、全然気に障りません! 綺麗な詩だと思ったので……」


 美しいのに、もの悲しい詩だと思ったことは告げなかった。なんだか、それをウィリアムに伝えるのが躊躇われたからだ。


「ウィリアムさんは、詩が好きなんですか?」


 だから、代わりに一つ訊く。例の紳士の言葉をロバート・ヘリックの詩であると看破したり、今のマシュー・アーノルドの詩を呟く様からの印象だ。


 その問いに、ウィリアムが少し首を傾げるように言う。


「わからない。馴染んだり、引っかかったりはするけれど、それが好きというものかと言われたら、違うように、僕には思える」


「そうなんですね……」


 ウィリアムの言葉には、いつだって真実しかない。今の言葉にも、照れ隠しや気取っているのでは無く、真実、詩が好きかどうかわからない、というような何処か戸惑う響きがある。だからメアリは、多くを聞くことはしなかった。


 ビュウ、と風が強くなる。微かによろめくメアリを庇い、ウィリアムが手を差し出す。


「風が出てきた。そろそろ帰ろう」


 抑揚はあまりないが、しかし、とても優しいようにそれは聞こえた。メアリは小さく微笑むと、その手を取った。


「はい。……今日は本当にありがとうございました」


「僕の方こそ、今日はありがとう。今度はこういう事件に巻きこまれない場所へ行こう」


 静かに告げられた言葉に、メアリが嬉しそうに、にこっと笑う。


「はい、よろしくおねがいします」


 屋根の上に佇む二人の間を、茜色に染まった水蒸気が流れていく。まるで自分達が雲海の中にあるような錯覚に、二人は顔を見合わせて少し笑った。


 十二月の風は冷たいが、それでも心の中は何処かほんのり暖かい。

 帰ると言ったばかりだが、しかし、太陽の最後の輝きが消えるまでの僅かな間だけ、二人は手を繋いだまま、しばらくその場に立ち通していた。




 完全に鎮火されたミューディーズの中、人々が右往左往する中で、中二階の手摺りに凭れ、グラッドストンが呟いた。


「とりあえず、あの二人のおかげで命は助かったようだが……。何なのだ、あれは」


 茫然とした風に呟くグラッドストンに、ケンが壁に凭れて言った。


「さぁなぁ。凄まじい空気の振動を感じたが、あれで火を消せたのだから、詮索よりも先に、素直にあの二人に感謝すべきではないかね?」


「それもそうだな」


 グラッドストンは、焦げた空気に噎せながら、面白そうに唇を笑みの形に吊り上げた。


「なんだか面白いことになってきたではないか、ケン殿。命を狙われるのも久しぶりだし、あんな少女に救われたのも初めてだ。何かが動き出す兆しかもしれんな」


 何処か挑むような顔つきになったグラッドストンを、ケンは特に変わらない表情で見ていた。


 警察と救急隊が駆け込んできたのは、それから暫くの事だった。

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