教授から、研究所の手伝いをしてみないか、と言われたのは、夕食後、皆でデザートを食べているときだった。
今日のデザートは、イートン・メスというクリームとベリーがたっぷり入ったプディングだ。控えめな甘さとベリーの酸味が溶けあって、ふわふわした軽い食感がとてもおいしい。
「研究所、ですか?」
「ああ。電信技術解析機関という、その名のごとく電信関係の研究をしている場所でね。膨大なデータを収集し、リアルタイムで分析しながら、それを各地に発信できる機関の研究をしている。私やウィリアムも、そこで少しばかり研究の手伝いをしているのだよ」
教授の言葉は淀みがなかった。
「ここ二十年で、通信技術も大きく変わった。かつて、米国に何か通信をするときは、船を使った郵便で送るという方法しかなかった。しかし、今は太平洋に沈む海底ケーブルのおかげで、即日で海の向こうの情報がやってくる。しかし――」
喉を潤すためだろう、教授は一度紅茶を飲んだ。そのせいか、次の言葉は、数値の変わった闇色の声で語られる。
「モールス信号は便利だが、しかし、長文であればあるほど通信量は膨大になる。そうなると、電圧の問題で送られる量は制限されてしまうだろう。電信技術解析機関は、その問題を解決するため、圧縮言語を開発しようとしているのだ。ジズ嬢、君にはその圧縮言語の開発に協力して欲しい」
教授の言葉に、メアリは慌てて頭を振る。
「待ってください、教授。私は計算しか出来ません。言葉だって英語しか話せませんし、圧縮言語の開発なんて、とてもお役に立てるとは思えません」
本気で困惑するメアリに、教授が苦笑した。
「案ずることはないよ、ジズ嬢。圧縮言語の正体は数式の組み合わせだ。十進法で数字を文字に当てはめるというものでね。要はアルファベットや数字も含む記号をすべて、〇から九までの数字に置き換える言語だ。しかし、言語を一度数字に分解するのにも、そして元に戻すのにも高度な計算能力が必要だ。つまりはこの圧縮言語の研究には、一流の計算手の協力が不可欠なのだよ」
「計算……」
「計算式はすべて研究所の数学者が用意する。君はただ、計算をするだけでいい。難しいことではないだろう?」
戸惑うメアリに、教授は諭すように優しく言った。闇色の声の数値は普段とあまり変わらない。ブレのなさは、彼の言葉が真実だということだろう。つまり、本当に自分の能力が研究に役立つのなら、断る理由もないということだ。
自分の出来ることならば、メアリは常にそれを選択する。
「わかりました。私でお役に立つのなら……」
素直に告げるメアリに、教授は満足げに頷いた。
「引き受けてくれて助かるよ。護衛としてウィリアムをつけるから、外にいるときは決して彼から離れないようにしたまえ」
唐突に出てきた物騒な話に、メアリは目を白黒させる。
「護衛……ですか? 一体どうして……」
「計算手は特別な存在なのだよ。欲しがる者は引く手あまただ。それこそ、どんな手段を使っても手に入れたいと思う者もね」
意味ありげな教授の言葉に、メアリはおずおず訊いてみる。
「あの、どうして計算手は特別なんですか? 例えば私は、結局の所、ただの計算しか出来ない存在です。常人よりも解を出すのが早いか遅いかの違いしかないと思うんですけれど……。そんなに欲しがられるような存在だとは思えません」
計算手の価値に首を傾げるメアリに、教授がゆっくり頭を振る。少し呆れているようだ。まるで教師が生徒に言い聞かせるような口調で云った。
「まったく、計算手というのは、本当に己の価値を自覚せんな。だからこそ、護衛が必要になるのだよ」
「だからこそ?」
メアリの言葉に、教授が幾分しかつめらしい口調で言った。ますます教師のようになる。
「いいかね、ジズ嬢。計算手は、頭の中ですべてを暗算できるのだ。膨大な数の計算を瞬時にこなせると言うことは、確かにそれが当たり前の者にとっては大したことのないように思えるのかも知れない。しかし、それは違うのだ。計算手は、この世界を直に操る力がある。君は、昨日のミューディーズでも、ウィリアムが火を消すところを見ているのだろう?」
「は、はい」
妙な迫力のある教授の声に、メアリは思わず素直に頷く。それを確認し、教授は徐に口を開いた。
「ウィリアムのやったこと、あれは、低周波を作り出す為の数式や、その強さや当てる角度など、様々な代数方程式に現実の数値があってこそだ。彼単体では、燃えさかるフロア一つ分を音だけで消火する事など出来はしない。君がいたからこその力だよ」
教授の言葉に、ウィリアムが深く頷く。釈然としない様子のメアリに言った。
「……僕に出来ることは、命じられたことをこなすことだけだから。それは技術の領域だよ。勿論、向き不向きはあるけれど、訓練すればある程度の人間には十分に習得が可能な技術だ。けれど、計算手の能力は違う。訓練だけでは到達できない、天性の才能が必要だ」
あんな凄いことが出来るウィリアムが、こんなに計算手の能力を褒めるのだから、もしかしたらこれは本当に凄いことなのだろうか。思わず、ごくっと喉を鳴らすメアリに、教授が続ける。
「例えば方程式自体は既に存在するものであるから、誰でも知ることが出来る。それに当てはまる数字もまた、書物や資料によって調べることは容易だろう。しかし、計算だけは違うのだ。知るのでは無く、自らが導き出さねばならないものとなる。確かに時間をかければ、凡人であっても百桁同士の計算とて、理屈の上では可能だろう。しかし、一つの計算に一ヶ月以上もかかっては、正直何の役にも立たん。状況は刻一刻と変わるのだからな。その場合、どんなに優れた技術に関わる方程式であっても、計算できねばただの落書きと化してしまう。そこが、現実と理論を隔てる最大の壁でもあるのだよ」
どんな優れた数式も、計算して答を出さなければ無意味だと、つまりはそういうことであろうか。メアリが黙って聞いていると、教授は更に続けた。
「しかし、逆に、その計算さえクリアできれば、方程式は途端に現実に力を持つ現実の力となる。詩的に言えば、数学者や物理学者は本来ならば神の力であったそれを、数式という呪文によって分解し、人が掴めるものとした。神を切り取り分解するのが数式ならば、それを神の力へと還元するのは計算の力なのだ。つまりは机上の理論を現実に引き出すための力が計算であり、それを実行して初めて理論は現実へと戻るわけだ。それを一瞬で可能にできる力を持つのが計算手、という者なのだ」
最初に会ったとき、教授は確か、神は死んだと言っていた。人間が殺したのだ、とも。つまり神様は、数式によって分解されてしまったのだろうか。
「計算が、ただの数式を神の力へ還元する……ということなんですか?」
メアリの問いに、教授がひとつ頷いた。教え子を諭すように言う。
「そうだ。君達計算手は、ごく希に、未来を垣間見ることがあるらしいな」
「はい……」
昨日のミューディーズのあれを思い出しながら、メアリが頷く。教授はほんの僅かに目を細め、メアリに言った。
「計算手の未来予知とは、無意識下の計算の果てに繰り返された、一番確率が高い未来のヴィジョンだという話だが、それもまた、計算手の能力の一つだ。大昔なら、神の力だと呼ばれたそれも、今や人の力に成り下がった。それ故に、計算手は狙われるのだ」
未来予測というのは計算手の特徴というか、業のようなものである。命の危険が迫ったときや、あるいは何かの発作のように出てくるものであって、自分の意志で行えるようなものではない。その事を理解している者は良いが、しかし、自分に都合の良いことしか見ない者は何処にでもいるのだと、教授は言った。
「計算手を私利私欲のために欲する者は殊の外多い。失われし神の力を還元できる者だからだ。予知能力一つとっても、様々な事に使えるだろう。一年先の未来を予測することは不可能だとしも、たとえ一日、いや一時間後であっても未来がわかるというのなら、巨万の富を動かすこともまた容易になる。そんな不逞の輩に計算手は常に狙われているのだ。だが、当の計算手はどうも皆、自分の価値をとても低く見積もりがちだ。だからこそ、そんな無自覚な者を守るための存在が必要となるのだよ」
教授の言葉は淀みなく、また、メアリにも納得できる内容だった。
確かにメアリは、自分の価値というものがよくわからない。自分の代わりなんかいくらでもいると思ってしまうし、実際その通りだと思っている。神の力の還元とはいえ、まずはそれを引き出すための方程式があり、且つ、それを実行できる者があっての事だ。還元出来ることと、それを神の力として使えることはまた違うとそう思う。
けれど、その事を言えば、きっと怒られるのも理解していた。だからこそ、メアリは静かに頷くしかない。しかし、どうしても心配なことが一つあった。
「でも……、ウィリアムさんのご都合はどうなんですか? お忙しいのではないでしょうか……」
ウィリアムにとっては、数学助手とメアリのお守りの両立は大変なのではないだろうか。あまり彼に迷惑をかけたくはない。その事を告げると、教授とウィリアムが続けて言った。
「数学助手の仕事との二足のわらじになってしまうが、その分給金は上げるからな。それに、君も計算手として私の手伝いをしてくれているし、ウィリアムの負担にはならないだろう」
「僕はそれで構わない。寧ろ、君が少し窮屈な思いをするのではないかと、そちらの方が心配だ」
ウィリアムの言葉に、メアリが慌てて首を振る。
「そんなことはないです、大丈夫です!」
「だったら何も問題は無いだろう。ウィリアム、よろしく頼む」
教授の言葉に、ウィリアムが静かに頷く。それを確認し、改めて教授はメアリに言った。
「そういうわけだ。暫くは窮屈だろうが、ウィリアムと行動を共にしてくれ。彼ならば、必ず君を守るだろう」
やっぱり教授の声には何一つ嘘がない。だから信頼できるはずなのに、何故か少し違和感がある。
――何故、教授は私が必ず危険な目にあうと予想しているのかしら……?
そんなメアリの本心を知ってか知らずか、ウィリアムが静かに言う。
「何があっても、僕は君を守るから。だから、怖がることは無い」
特に抑揚のない声だったが、しかし、それには盤石の力があった。メアリは改めてウィリアムに頭を下げる。
「わかりました。よろしくお願いします」
必ず守る、という言葉はともすれば大袈裟なものだったが、しかし、この青年が口にすると、何故だか絶対の力があった。彼は、すると言ったことは必ずするに違いない。
安心感と不安の狭間で、メアリは彼を信じるとそう決めた。初めて会ったあの時も、昨日のミューディーズの事件の中でも、彼は、自分を守ってくれたのだから。
不意に、教授が柱時計を見て呟く。
「おや、もうこんな時間か。本当に君と話しているとあっという間に時が過ぎるな。しかし、あまり夜更かしをしてもいけない。そろそろお開きにしよう」
教授の言う通り、時計の針は九時半を指していた。教授が席を立つ前に、メアリは慌てて尋ねた。
「あの、研究所のお手伝いは、いつからすればよいんですか?」
「先方の都合もあるだろうから、あとで電信を送って訊いてみよう。多分、諸々のしたくもあるから、来週からになるとは思うが」
その言葉に、メアリは少しほっとする。ミューディーズの事件は昨日のことだ。記憶がまだ生々しすぎて、外出が少し怖い。だから、落ち着くのに多少の時間が欲しかった。
――ウィリアムさんには、あんなに偉そうなことを言っておいて、本当に私は駄目な子だわ……。
内心では悄気るメアリだったが、しかし、それを表に出すことはしなかった。誰も心配させたくなかったからだ。
そんなメアリを妙に冴えた眼で教授が見つめる。しかし、物思いに耽るメアリはその事に気付かなかった。
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