四
倫敦の上空には低気圧が居座っていて、数日前から雪がちらつく。
ミューディーズの事件から十日後。メアリは電信技術解析機関へ向かう馬車に乗っていた。教授とウィリアムも一緒である。
電信技術解析機関の研究所は郊外にあるという。そのため、少し早めの外出である。
教授の隣に座るウィリアムの足下には、例のトランクが置いてあった。あの中に饒舌で陽気な銃が入っているというのが面白い。
一時間ほど馬車に揺られていると、不意に大きなカントリー・ハウスが見えてきた。カントリー・ハウスとは、貴族の本邸のことだ。大抵の貴族は十六世紀に建てられた城や大修道院を受け継ぎ、それをカントリー・ハウスとして使っている。
美しい白亜の外観は、十六世紀のものではなく、もう少し後に作られたものだろう。いったい何処の貴族の城だろうと思っていると、馬車はまっすぐそこへ向かっていく。
「え、こちらがその電信技術解析機関、なんですか?」
驚いて尋ねると、教授がこともなげに答える。
「ああ、そうだ。意外な建物だろう?」
「ええ……」
門をくぐっても、その城まではかなり遠い。目視でも、玄関まではおおよそ三百碼はある。庭には薔薇の迷路まであった。
ぽかんとして辺りを見回すメアリに、教授が補足をしてくれる。
「ここは元々ソーウェル子爵家の領地だったのだが、先代のソーウェル子爵アントニー・スタッドリー卿は生涯独身を貫いて亡くなられたのだ。故にソーウェル子爵の称号は消えてしまい、この城も受け継ぐ者がいなくなったのを、ここのスポンサーが買い取ったのだよ」
英国の支配階級は、君主と王室を頂点とするピラミッド構造になっている。その三角形が破綻しないよう――つまり、最上層の貴族階級が過剰に増えないよう、爵位の継承はかなり厳しく複雑な物になっていた。
例えば、爵位の保持は当主一人に限定されること、爵位継承は最も近い血筋の年長の男子が行うことに限定されている場合が多い。血縁でないものを養子に迎えて爵位や所領を行うことは許されないのだ。
英国では、跡継ぎがいなくなった爵位と所領は消滅する。だから、先祖代々守ってきた土地であっても、誰かが買うことも可能なのだろう。
古き血が途絶えた古城を引き継いだのが、科学の最先端である電信技術の研究所というのは、なんとなく皮肉に思える。
メアリは迫り来る白亜の城を複雑な気分で見つめていた。
敷地内を進む馬車の中で、教授が警告するように、ふと言った。
「さて、この建物が電信技術解析機関であるのだがな。何というか、内部を見ても驚かないで……いや、呆れないでくれたまえ」
「呆れる?」
きょとんとするメアリに教授が苦々しげに答える。
「一般に想像される『研究所』とは、大きく異なる造りになっている、と言うことだ。スポンサーの趣味のせいで、まぁなんだ、大仰で大袈裟で、まさに奇人変人の城のようになっている。しかも、勤め人の大半が変わり者だ」
冗談めかしてはいるが、どこか忠告を含んだような声だった。それがどういうことか訊く前に、馬車は古めかしい大きな門の前へと止まる。ブレーキの音が微かに届いた。
馬車の窓から見る電信技術解析機関は、ずしりと重厚で、華美なゴシック建築とは違う、質素な石造りの無骨な城だ。教授の言うとおり、確かに『研究所』の建物にはまったく見えない。その無骨さとの対比のように、手入れされた庭は美しく、噴水まであるようだった。
ウェストミンスター寺院が楚々とした貴婦人ならば、この城は、歴戦の老王のようだ。古い歳月が壁に刻んだものの偉大さが、我からは決して主張すること無く、ただ静かに伝わってくる。
圧倒されたように城を見つめるメアリを尻目に、馭者によって外からドアが開けられる。まず真っ先にウィリアムが、次いで教授が馬車を降りた。
「さ、ジズ嬢」
教授の呼びかけに、メアリも急いで後に続く。馬車のステップは意外に高いが、教授が手を取ってくれたおかげで、バランスを崩すこと無く着地する。ほっと安堵するメアリに、聞き覚えのある快活な声がかかる。
「やぁ、メアリ嬢! 久しぶりだね」
声の主がフォッグ二世だというのは直ぐにわかった。声の方向に目を向けると、大きな玄関の扉の前でポケットに手を突っ込んだフォッグ二世が立っていた。なんというか、相変わらずの格好だ。
「え……」
ぽかんとするメアリに、教授がさらりと言った。
「言い忘れていたが、この城を買ったスポンサーが彼なのだよ。尤も、オーナーでは無くスポンサーと自称するだけあって、彼がここの研究所に口を出す事はないから安心したまえ」
「はぁ……」
困惑したままウィリアムを見上げると、彼はいつもと寸分変わらぬ表情で、茫としている。その姿に、なんとはなしにメアリは落ち着く。
目の前では、フォッグ二世と教授が何やら会話をしていた。
「しかし、今日は何故ここへ? 君はスポンサーではあるが、研究には一切何の関わりもないだろう」
「それは勿論、メアリ嬢の仕事ぶりを見学したいと思いまして」
「フォッグ卿、君も大概懲りない男だな」
呆れたように呟く教授に、フォッグ二世が胸を張る。
「諦めないことが私の信条なのでね。さて、今日は私がメアリ嬢を案内しますよ。ここは私の傘下の研究所だし、それくらいの特権はある筈ですから」
そう言うと、フォッグ二世はメアリをエスコートするよう横に立った。教授は呆れたように何も言わない。
ドアを開けながら、フォッグ二世がやや得意げに説明をする。
「ここは地下が一階、地上は三階建ての構造になっていてね。試作品は地下室に、事務室が一階、そして二階が研究所になっているんだ。中を見て驚かないでくれたまえよ」
フォッグ二世に導かれ、どう見ても研究所と言うより古城としか言いようのない建造物の中へ足を踏み入れたメアリを出迎えたのは、優美な絵画が飾られた、豪華そのもののロング・ギャラリーだった。
数々の調度品は一見して高そうだ。一番目立つ場所に飾ってある、たっぷりとしたししおきが特徴の女性の絵は、教会でも見たことがある。確かルーベンスという作家の絵だ。
ロング・ギャラリーの端には、赤い絨毯の敷かれた大きな階段が誂えてある。ぴかぴかに磨かれた幅広の手すりが、更にこのホールの威厳を強調するようだ。この辺りもまた古城の趣を保っているようで、壁に取り付けられた掲示板に乱雑に貼られた何かのメモやポスターと、内側の壁に縦横無尽に走る気送管のパイプがなかったら、どこかの王の館に迷い込んだと錯覚してしまうだろう。
フォッグ二世に導かれるまま、メアリはその大きな階段を一歩一歩上っていった。ごくごく普通の階段なのに、なんだか別の世界に続くような気がするのは何故だろう。まさか、この階段がヤコブの梯子でもあるまいし、考えすぎだとメアリは思う。
階段を上った先にある、城ならば大広間にあたるだろう巨大な扉の前に立つと、フォッグ二世はノックもせずにその重いドアを開け放った。
「人類の夢を奏でる聖域へようこそ、お嬢さん」
その言葉に期待するのは、多分、妙なる音を奏でる楽器の並ぶ、音楽堂のような光景だろう。
しかし、メアリの目に飛び込んできた光景はまったく想像と異なるものだ。
たった一枚の扉を隔てた向こう側には、先ほどまで居た古めかしく荘厳なホールの様子とは一変し、タイプライターや電信のリズミカルな音や、また、様々な計器が唸りを上げる、まるで科学の都のような光景が広がっていた。どれくらいの広さかまったく想像もできない。部屋の隅が霞んで見える。
まず真っ先に目に入ったのは、数字や方程式のびっしり書き込まれた巨大な黒板だった。何の方程式かは知らないが、黒板に飽き足らず、壁や床にまで数字や記号が並んでいる。常に電信だの、電話だのがひっきりなしにベルを鳴らし、応対する技師達が右往左往していた。
符丁のような短い言葉を交わして何か議論している者がいるかと思えば、一方で、計算尺を使って何かの計算を黙々としている者もいる。何の模型を作る者もいれば、雲形定規で何本もの曲線を方眼用紙に書き連ねている者まで様々だ。
外観にはない蒸気パイプが壁一面に張り巡らされ、あちこちでバルブを開けるプシュッという音がする。
誰一人、入り口に突っ立っているフォッグ二世とメアリに目もくれず、己の仕事をこなしているらしい。フォッグ二世は、その様子を得意げな様子で眺めると、メアリにそっと耳打ちをした。
「凄いだろう。ここには総勢四十人もの数学者や言語学者、そして有能な技師達が集まっているんだ」
「技師?」
通信に用いる新言語を数字で作るのだから、数学者や言語学者がいるのは分かる。しかし、技師は一体何のために要るのだろう。
不思議そうなメアリを、フォッグ二世は隣の部屋へと導いた。金色の声は言う。
「これが君の仕事場だよ、メアリ嬢」
ドアが空いた瞬間、メアリは思わず目を見開いた。
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