その言葉に、婦人の目が縋るような色に変わる。メアリは出来るだけ、彼女の心に響くような音程の声を選んでゆっくり言った。
「中心にあるのは塔のカード。これは良くない結果です。更に、その左右にある運命を表すカードは女教皇と吊られた男。これは、貴女が選択を迫られつつある事を表しています。一方で、その下にあるのは魔術師と力です。秘め事は明らかにすべきではない、ということを指していますね」
カードの位置やその説明は間違いではない。しかし、メアリはその内容をまったく信じていなかった。何せ、メアリの占いは当たったためしがないのである。
「それは、どういう意味なのかしら?」
切実そうな声の彼女に、メアリが言うべき事は一つだ。
「忘れることが一番です。貴女は、今、私に話したことを、誰にも言ってはいけません。彼を見たことも、その内容も、絶対に誰にも話すべきではない。魔術師のように沈黙を、『力』のように内側の好奇心という獣を抑えることで、災いは避けられます」
こういった事柄は、誰にも口外無用、見て見ぬふりをし、口を閉ざすのが一番だということを、今までの経験からメアリは良く知っている。正直は決して美徳ではない。罠にしろ何にしろ、口が軽い人間は災いを呼び起こす。
メアリの忠告に、婦人は僅かに困惑したようだった。
「胸に秘めたままでいろ、というのかしら」
おずおずと訊かれたその言葉に、メアリは大きく頷いた。
「そうです。書き物にしてもいけません。何もなかった、何も聞かなかったと思えば良い。それが貴女が災いを避ける事の出来る唯一の方法です」
「そう、占いに……出ているの?」
もう一度、おずおずと尋ねる彼女に、メアリは大きく頷いた。
「そうです。貴女が何も言わなければ、災いは避けられます。貴方にとっては苦しいことかも知れない。けれど、最後まで貴女が口を閉ざしていれば、本当に悪いことはおこらないでしょう」
メアリの言葉に、婦人は小さく頷いた。納得したように言う。
「わかったわ。あの話はなかったことにします。ありがとう」
その声は多少明るさを取り戻していたのだが、しかし、メアリはなんとはなしに不安を覚える。
ジョンという、その死者の名前をうっかりと話してしまったように、彼女はどうも詰めが甘い。他にも、ロジャー氏という人物の名前も漏らしている。苦労の無い良家のご婦人にはありがちな純粋さという名の幼稚さだが、その事がどうにも引っかかるのだ。だからメアリは、最後に一つだけ忠告をする。
「もう一度言います。忘れることです。忘却は神の慈悲なのですから」
婦人はその言葉に大きく頷き、見料の他に、一ポンドものチップをくれた。メアリの占いの結果を信じた結果だろう。
高齢だが無邪気そうな彼女が、今回の出来事を他言することはないだろうと、その時、メアリは信じたのだが――。
ミルクを溶かしたかのような濃厚な霧の中、メアリは真っ直ぐに街外れの教会を目指す。メアリは運動が苦手である。苦手というより、大嫌いだと言った方が正しいだろう。しかし、自分の生死がかかっていれば、流石に好き嫌いなど言っていられない。
意図的であろうが過失であろうが、しかし、あの婦人は、あれから一週間も経っていないのに、やはり秘密を漏らしてしまったようだった。ついでにメアリのことも喋ったと思われる。
今、追っ手の靴音は聞こえない。しかし、目を凝らせば、ソールが石畳を踏む微かな音が、光を纏った数字の煌めきとして夜の帳の向こうに『見』えた。その距離は確実に縮まってきているようだ。メアリは命の危険が迫ったり、酷く緊張したりして、神経が過敏になればなるほどに、本来は聞こえないはずの微かな音さえ『見』えてしまう。
教会までは、あと五百碼もない。その間に捕まらなければメアリの勝ちだ。
イーストエンドの外れにある、朽ちかけた聖ジョーゼフ教会にいる司祭は、少しばかり『特別』なのだ。彼の元に辿り着けば、絶対に何とかなる。そんな確信があった。だからメアリは生きるために、夜の街をひた走る。
まだ自分は『幸せ』になっていない。こんな所で殺されて、ジェーンとの約束を破るわけにはいかなかった。
教会まであと僅かというときである。視野の外に何か数字が閃くのがちらっと見えた。その延長線上に自分がいるのを察し、メアリは咄嗟に、無理矢理体を左側へ倒す。
その刹那、メアリの顔のすぐ横を、何か鋭いものが通り抜けた。ちかっとした痛みの後で、髪が一筋千切れて宙に舞う。一拍おいて、風を切る鋭い音が耳へと届いた。
それが何かを認識する前に、メアリはそのままバランスを崩し、アスファルトが剥がれた荒れた道へと滑るように倒れ込んだ。
何かが掠めた右頬が、ぴりぴり痛む。顔を上げたメアリの目に、教会の崩れた壁に突き刺さる、鉄製の矢が見えた。それは、銃声が聞こえないために殺しには便利だということで、最近のごろつきが好んで使うクロスボウの矢である。
ぞっとした。
威嚇も無しに直接狙ってきたということは、彼等は、メアリを確実に殺す気でいるということだ。
あの時、もし音が見えていなければ、あれはきっとメアリの後頭部に突き刺さっていたに違いない。思い切り手足を擦り剥いてしまったが、しかし、あれが突き刺さる事に比べれば些細なことだろう。
振り向くと、三十碼程の距離にまで追っ手が迫っているのが見える。一方で、教会まではあと五碼もない。
メアリは痛みを堪えて立ち上がると、振り向きもせずに教会へと一気に駆け込んだ。足を動かす度に膝小僧がずきずき痛むが、それどころではない。追っ手の足音はもう間近なのだ。
「司祭様、メアリです!」
大声で自分の名前を名乗ったのは、そうしなければ、ドアを開けたときに何をされるかわからないからである。
体当たりするように礼拝堂の扉を押し開けたメアリは、予想もしなかった眩い明かりに、一瞬だけ視界が失われてしまう。
ここの司祭は暗闇を好む質だから、まさか礼拝堂に明かりが灯されているとは思いも寄らなかったのだ。駆け込む勢いはそのままに、メアリは足がもつれて転びかける。またか、と、ちらっと思った。今日は何回転ぶのだろう。そう考えながら、顔面から床に突っ込みそうになったその時――。
不意に、体が誰かによって抱き止められた。
自分よりもずっと大きくてしっかりした二本の腕だ。これが、司祭の腕ではないというのはすぐにわかる。その腕の主が着ているものは、見慣れた司祭の僧衣ではなく、灰紺のディットーズだったからだ。
床にぶつかる予定だった顔面は、勢いをきちんと殺され、布に包まれた堅いものへ、ぽすんと当たる。痛みはなかった。それどころか、なんだか安心できるような感触だ。そこに接する右頬が、何故だか少し暖かい。
誰かの腕の中に居る感覚にぼうっとしていたメアリの耳へ、聞き覚えのない、銀色の数字を纏った青年の声が静かに響く。
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