Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

47

公開日時: 2020年11月3日(火) 18:00
文字数:2,453

 そこにあったのは、巨大な金属の塊だった。壁には様々な計器のついた箱があちこちにはめ込まれ、床はうねうねとした蛇のような太いケーブルで覆われ、足の踏み場もない。


 しかし、メアリが注目したのは、そんな些細なものではなかった。


 部屋の中央は、巨大な立方体が鎮座していた。一辺が二十呎はあるだろうか。表面は確かに漆黒であるのだが、光の加減では虹色にも見える不思議な金属板で出来ている。継ぎ目もなにも見当たらない。


「これが私の……仕事場、ですか?」


 きょとんとするメアリに、フォッグ二世が笑ってみせる。初めて背後を振り返り、そこに立っているウィリアムに声をかけた。

「そういう訳だ、ウィル。メアリ嬢に、この機関の中身を見せてやってくれ」


 ウィリアムは静かに頷くと、メアリの真横を通ってその立方体の側に行く。ちょうどメアリ達から見えない場所で何かをしているらしい。メアリの目には、微かな音が青い光となって見えた。


 瞬間。


 その青い光が、今度は誰の目にも見える光となって、立方体に幾何学模様を刻んでいく。チリっと赤い光が聞こえた後で、その模様から立方体が、まるで花が咲くように四方へ開いた。どういう仕組みか、一拍おいて蒸気の圧縮音が聞こえてくる。


「これは……」


 大小の歯車が複雑に組み合ったその機械の花は、中央に椅子がひとつだけあった。椅子の左右は、妙にぽっかりとした空間が空いている。一方で椅子の足下にはパイプオルガンの足用鍵盤のようなパーツが並んでいた。


「さ、開いた。ちょっと中を見てみようか」


 フォッグ二世に促され、メアリはおずおずと機械の花の側に歩いて行った。この機械の花は、蓮の花に何処か似ている。

「座って見るかい? この機械の本体は地下にあって、これはただの操作卓コンソールなんだ。地下へ送られてくる、数字に分解された情報を、ここで計算して言語へと翻訳する……ものらしいけど、私は専門家じゃないからよく分からないんだ。まぁ、実際に起動実験が始まったら、誰かがわかりやすく説明してくれるから心配しないでいいよ、メアリ嬢」


 軽い口調でいい加減な説明をするフォッグ二世の言葉を、メアリはほとんど聞いていなかった。他のことに気を取られていたからである。


 何かに導かれるように、メアリは静かに椅子に座った。ペダルを踏み、二、三の音を奏でる。途端に燐光が周囲の機器を巡り、動作音が低く響く。


「メアリ嬢?」


 急に機械を起動させたメアリに、フォッグ二世が驚いたように声を上げた。しかし、メアリは流れるような動作でその他の機能をも起動させていく。


 足元のペダルで一小節、短調のメロディーを奏でると、椅子の左右にある空間から、避雷針にも似た銀色の棒が数本映えた。


 メアリがまるで空間を摘まむような手つきをした途端――。まるで星の囁きのような可憐な音が周囲に響いた。


「この音は……?」


「……空間に満ちるただの雑音ノイズだ。空間に存在する微弱な電波をあつめ、それをコイルを巻いた水晶で増幅することにより、何もない空間であっても音を発する事が出来る」


 フォッグ二世の問いに答えたのは、今までずっと黙ってメアリを見守っていたウィリアムだった。


「なるほど、鉱石ラジオか。確か、今、軍でやっている無線実験に使っている機械だったね。電源も要らないし、楽器としてもなかなかいい音だ」


 感心するフォッグ二世とは異なって、メアリは少し困惑気味にその楽器を奏でている。


 澄んだ不思議な音は、グラスハーモニカに似ているが、それよりもっと細く鋭い感覚だ。まるで両手で指揮するように空間を撫で、透明な音を奏でるメアリがぽつんと呟く。


「どうして……私は、これの使い方を知っているの?」


 その問いに、ウィリアムが静かに答えた。


「……これは、元々はジズ先生が設計した計算機関だ。だから君も、幼い頃に見たことがあるのかもしれない。使い方も、その時に覚えたのではないだろうか」


「お父様が……」


 列車事故の影響で、メアリは五歳以前からの記憶がほとんどない。繰り返し夢に見るため、あの日のことははっきりと覚えているのだが、それ以外はおぼろげだ。


 けれど、染みついた習慣は、記憶を失っても忘れることはなかった。メアリは未だに父の躾通り、朝七時には目を覚まし、顔を洗い、身支度を調える。


 十年ぶりに父に再会したような気分になって、メアリは少し目を潤ませた。驚いたことに、それらの音はすべて純粋な正数だ。少しのズレもなく、正確な数値で音階が刻まれている、そうメアリの目には映る。


――お父様も私と同じく共感覚を持っていたのかしら


 音をほんの僅かにずらして発生させることで、文字を書くよりもずっと早く計算の答えを出力することが出来る仕組みのようだった。

 メアリは気付かなかったが、それは先日のミューディーズで、炎を消すための計算を行った時の出力方法……あの歌と全く同じだ。

 無意識に曲を奏でるメアリの手を止めたのは、赤銅色のバリトンボイスだ。


「ほう、地下の通信機関と収拾機関が急に作動したから、何かと思ってきてみれば……。中央処理機関のオペレーターが見付かったのかね?」


 思わず演奏の手を止めたメアリに、赤銅色の声の主は笑って言った。


「いやいや、計算を止める必要はないよ。君が、新しい計算手かね?」


 声の主は、壮年の紳士だった。ウィリアムより三吋は背が高い。とても学者には見えない、がっしりした体つきの男性だ。とはいえフォークス司祭のような筋肉隆々というわけではなく、しっかりした骨格に均一に筋肉がついた、ギリシャ彫刻のような雰囲気である。上着は着ておらず、黒のウェストコートにアスコットタイをして、シャツを腕まくりしている風体だ。


 とても生還で野性的なハンサムだった。綺麗に整えられたカイゼル髭を生やすことで、その野性味を薄めようとしているのかもしれない。


「ラーゼス技師だよ、メアリ嬢。これを作った人物だね。ラーゼス技師、こちらがメアリ・ジズ嬢。新しい計算手だよ」


 フォッグ二世がさりげなく、二人に互いを紹介をする。ラーゼスが一瞬怪訝な顔をして訊ねた。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート