Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

16

公開日時: 2020年9月22日(火) 18:00
文字数:4,988

 教授が口を開いたのは、食事の終盤になってからだ。


 食後のお茶を飲みながら、静かに言う。


「しかし、昨日は災難だったな、ジズ嬢。君の服や靴は血や泥で汚れていたので一旦処分させて貰った。今日の午後に仕立屋と靴屋が来るように手配をしたから、申し訳ないが、しばらくは家の中で過ごして欲しい」


 先ほどウィリアムから聞いた内容とほぼ同じだ。あらかじめ聞いていたおかげで、さほど驚かずに済んだのだが、しかし、たまらず訊いてしまう。


「あの……、どうして教授はこんなに私に良くしてくださるんですか? 昨日のことも何も訊かれませんし、その……怪しいとは思わないんですか?」


 夜の夜中に五人の男に命を狙われた娘など、普通は厄介ごとに巻きこまれるのを怖れて関わり合いにさえならないだろう。降りかかる火の粉を避けるため、一時的に助けてくれはしても、普通はその場限りで縁を切る。


 しかし、教授は事も無げにメアリに告げた。


「君については、ギルバート・ジズ氏の娘であるという一点だけが真実ならば、それでもう十分だ。君が何に巻きこまれていようが、もう終わったことだしな。あの五人はもう『戻らん』し、後は警察の仕事だ」


 戻らない、と口にしたときだけ、教授はちらっとウィリアムを見たようだ。しかし、当のウィリアムは茫とした目のまま、表情一つ変えることはない。


「終わったって……」


 これから警察に話を聞かれることもあるだろうし、そうなれば、教授やウィリアムにも迷惑がかかるだろう。しかし、二人は素知らぬ顔だ。


「まぁ、確かにしばらくはイーストエンドには近寄らない方が良いだろうな。君が住んでいた家についてはこちらで巧く処分しよう。何か必要なものがあれば取りに行かせる。誰が君を狙っていたのかは知らんが、イーストエンドの占い師がまさかフィッツロヴィアの数学教授宅に身を寄せているとはおもわんだろう。気になるなら、暫くは旅行でもして倫敦を離れてもいい。瑞西スイス以外の国なら、どこでもお勧めだ。この時期なら、北欧へ極光でも見に行くかね? 濠太剌利オーストラリアで暖かいクリスマスを過ごすのもいいな」


 教授は次々に異国の名前を告げていく。英国から出たことのないメアリには想像も出来ない国もある。あっけにとられるメアリに、教授は更に話を続ける。


「私の知己は世界各国にいる。だから心配する必要は何もない。そうだな、いっそ今年のクリスマスは海外で迎える事にしようか。まずは君の旅券の手配をしなくてはならないな……」


 なんだか、教授の中では、既に年末の海外旅行が決定事項になってしまっているようだ。メアリはあわてて首を振る。


「あの、そんな贅沢、大丈夫ですから……。本当に、どうしてこんなに教授は私にこんなに親切なんですか? 私が教え子の娘だから、というのは聞いていますが、でも、それにしては随分と厚遇ではないでしょうか……」


 困惑するメアリの問いにに教授はしばし考えた後、徐に口を開く。


「それはやはり、君がギルバート・ジズの娘であるからだ、としか言い様がないな。後は一つ、君に対する負い目だろうか」


「負い目?」


 教授が自分に何の負い目を感じることがあるのだろうか。メアリは思わず首を傾げる。教授が静かに口を開いた。


「私は、君と君の父上の埋葬の時、その場に居たのだ。参列者と共に墓穴に土を掬い入れ、墓掘り人夫が完全に埋め立てるのに立ち会った。君がまだ、生きていると言うことにも気付かずにな……」


 親族以外にも、恩師や同僚が埋葬に立ち会うのはよくあることだ。教授もそうして、父の埋葬に立ち会ってくれたのだろう。彼もまた、父や自分の棺桶の中に薔薇を入れ、最後の別れをしてくれたひとりだったのか、とメアリはすこし嬉しくなった。しかし、一方で、その事が教授の悔いになっているらしい。


「私は君達が完全に亡くなっていると信じ、手を触れもしなかった。まったく、もし、君の棺がフランツ・ヴェスターの『安全棺』でなかったら、と思うとぞっとする。ギルバートからの手紙を受け取って、警察から話を聞いたときに思ったことは、私は危うく、君も殺す所だったという事だった」


 教授の声が深く沈んだ。闇色の数字もほんの僅かに低くなる。悔恨の時、人の声は低くなるから、きっとこの変化もそうなのだろう。

 

 しかし、自分が埋葬されたのは、教授の責任では決してない。責任があるとすれば、事故を起こした鉄道会社であるし、更に言えば死亡診断を下した医者の筈だ。教授が気に病むことでは無い。だから、メアリは慌てて否定する。


「でも、私は今、こうして生きています。それに、教授が気付かなかったのは無理もないです。お医者様だって気付かなかったわけですし……」


 メアリの言葉に、教授は静かに首を振る。何故だか、ぞっとするような絶望感が何処かにあった。


「生きていてくれたのは本当に幸いだった。だが、そのせいで君は孤児となって、貧民街で惨めな暮らしをし、その結果、昨晩のように殺されかけた。私があの時気付いてさえいれば、少なくともこんな事にはならなかっただろう」


「教授……」


 心の底から悔いている教授に、メアリは何も言うことが出来なかった。確かに普通の人間にとって、自分が誰かを殺しかけたと言うことはショックなことに違いない。しかし、教え子の娘とは言え、赤の他人の為にそうまで悔いるだろうか、という疑問も残る。だが、教授の言葉には何一つ嘘がなかった。であれば、きっと彼は本当に親切な人で、だからこそ、仮死状態のメアリの埋葬に気付かなかったことを後悔しているのであろう。


「ギルバートの娘である君を引き取ったのは、そういうわけだ。償いにもならないが、失われた十二年間のために、せめて君には何不自由ない生活をして欲しい。勿論、これは私のただの独善だということは十分に承知している。その上で、君には出来るだけのことをしてやりたいのだ」


 こんな事を言われてしまっては、納得するほか何もない。メアリは静かに頷いた。


「わかりました……。それで、少しでも教授の心の痛みが去るのであれば、喜んで御世話になります。私こそ、助けていただき、本当にありがとうございました。これから、どうぞよろしくお願いします」


 深々と、心を込めてお辞儀をすると、教授が微かに笑ったようだ。


「そう言ってくれると助かるよ、ジズ嬢」


 声にある悔恨の色が和らぐのを見て、メアリは心の中で安堵した。自分のものではない罪で、人が苦しむのはおかしいと思うからだ。ただ、そんな烏滸おこがましい事を言うことは出来ないので黙っている。


 ふと、話題を変えるように、教授が言った。


「そういえば、ジズ嬢、君は何か好きなものはあるかね? この近くのオックスフォード・ストリートには女性が好みそうな店がたくさんある。靴と服が出来上がったら、是非足を運んでみるといい」


 好きなものを聞かれたメアリは、真っ先に本を思い浮かべる。


 メアリは読書が好きだ。物語は勿論、旅行記や、化学や物理の専門書までとにかく読む。居ながらにして別世界に連れて行ってくれる本は、孤児であったメアリの心を、だいぶん晴らしてくれた。


 しかし、一方で、本というのはとても高価だ。三巻セットのスリー・デッカーズを新品で買った場合、一冊が半ギニーもする。メアリの一週間の稼ぎより高いのだ。流石に大英博物館の中の図書館は無料で読めるが、貸し出しはしていない。イーストエンドからブルームズベリーは遠いので、毎日通っていたら仕事が出来ず、生活が出来ない。そんなわけで、メアリは今まで、思うさま読書をすることが出来なかった。だから、どうしても行きたい場所があったのだ。


「ありがとうございます。私は本が好きなんです。ですから、ミューディーズの本店には是非一度、行ってみたいと思っているんです。確か、この辺りの通りでしたよね?」


 弾んだ声で告げられたその言葉に、教授が感心したように言う。


「読書が趣味とは、血は争えんな。君の父君も読書家だった。ミューディーズの本店があるのは、オックスフォード・ストリートではなく、その先のニュー・オックスフォード・ストリートだったかな」


 そこで一旦言葉を切ると、教授は、まるで講義するような顔で続けた。

「ミューディーズの会員になるのなら、通常会員よりも、ブック・ソサイエティ部門の会員になるほうがいいだろう。配達サービスの範囲内だし、とても便利だ」


 ミューディーズというのは、倫敦を中心に展開する貸本屋の名前である。一ギニーの年会費さえ払えば、一度に一冊、年間に何回でも本を借り出すことが出来た。ちなみにブック・ソサイエティ部門の年会費は倍の二ギニーであるが、週三冊まで本が借りられるようになる上に、倫敦の半径二十哩マイル以内に住む会員ならば、リストを送付するだけで、三時間程度で専用馬車による書籍の配達サービスが受けられる仕組みになっている。


 教授の話に、メアリがほんのりと頬を紅潮させて訊く。


「はい、そうします。ニュー・オックスフォード・ストリートは教授の家と近いんでしょうか?」


「近いな。徒歩でも十分行ける距離だ。ミューディーズに限らず、本のことならばウィリアムが詳しい。あとで案内させるとしよう」


 そう言うと、教授は傍らで沈黙したっきりのウィリアムを顧みた。ウィリアムは無言だったが、期待に満ちたメアリの視線に気がつくと、ほんの僅かに頷いたようだ。メアリはにこにこしながら「よろしくお願いします」と頭を下げる。それを見たウィリアムが、一瞬何か表情を動かしたようだが、あまりに微かで、それが何かを表すものかはわからなかった。


 しかし、不快な感情を表したわけではないらしい。その証拠に、ウィリアムは少し考えるようにして言った。


「隣のブルームズベリーのチャリングクロス・ロードは古書店街だ。掘り出し物も多いから、今度、時間が出来たら案内しよう」


「はい、是非ともよろしくお願いします」


 メアリが声を弾ませて返事をすると、ウィリアムがまた、ほんの少し頷いた。二人の様子を眺めていた教授が、思い出したように言う。


「この家にも、一応は書庫がある。大半は数学や物理学の専門書だが、文学も少しばかりは置いてある。よかったら活用したまえ」


「ありがとうございます!」


 書庫の使用許可を貰ったメアリは、嬉しくてつい弾んだ声を上げてしまう。教授はその様子にほんの僅かに目を細めた。


 三人でそんな会話をしていると、執事が慇懃な様子で教授の側にやってくる。一礼し、几帳面そうな声で言う。


「旦那様、馬車の支度が調いました。そろそろお出かけの時間です」

 その言葉に、教授が壁掛け時計を見た。時計の針は、十時二十五分を指している。


「おや、もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だ。ジズ嬢。私は一旦席を外させてもらうよ。ウィリアム、彼女を書庫まで案内してやってくれ」


 教授の言葉に、ウィリアムが静かに頷く。


「わかりました」


 それを確認し、教授と執事は玄関ホールを抜けて、家の奥へ行ってしまう。後に残されたメアリに、ウィリアムがまったく変わることのない声で言った。


「では、書庫へ案内しよう。書庫は北側の部屋になる」


 その言葉に頷くと、メアリはウィリアムの後に付き共に居間を後にした。玄関ホールを抜けて、北側に進む。廊下には時折絵画やタペストリーが貼ってあり、なんだか屋敷と言うより修道院アビーのような趣がある。


「この屋敷は広いんですね……。迷子になってしまいそうです」


 自分が住んでいた一間しかない下宿とはまったく異なる作りに、メアリが戸惑うように呟いた。ウィリアムがふと立ち止まり、メアリを見ると、表情を変えずに言う。


「万が一迷子になったら、僕の名前を呼んでくれ。必ず君を見つけるから」


「はい、ありがとうございます。何かあったら、必ずウィリアムさんを呼びますね」


 丁寧にお礼を言うと、ほんの少しだけウィリアムが目を細める。うっかりすると見逃してしまうかもしれないくらいの、本当にささやかな変化だ。


 実際、瞬きする間にウィリアムの表情が、元通りの茫とした目にすぐに変わる。


 彼の後ろに付いていきながら、メアリはどこかで教授の言葉が引っかかっていた。教授の言葉に嘘は無い。でも、たった一言、何か違和感のある事を言ったのだ。しかし、それが何かが思い出せない。


 考え事をしながら歩くせいだろうか。書庫へ向かう回廊は、なんだか別の場所へ繋がっている気がした。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート