Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

9

公開日時: 2020年9月15日(火) 18:00
文字数:4,879

 フォークス司祭が戻ってきたのは、メアリが教会に駆け込んでから、おおよそ一時間が経った頃だ。


 メアリは頬と手足の傷をお湯で綺麗に洗ってもらい、手当てを受けた後だった。手当てをしてくれたのは教授ではなく、ウィリアムだ。若い男性に、手や頬の傷は兎も角、足の傷を手当てして貰うのはとても恥ずかしかったが、そんな贅沢を言える状況でもない。


 手当てを受けて、渡されたお茶を飲み、漸く人心地が付いた頃、礼拝堂の向こうが俄に騒がしくなった。ドカドカと、聖域に相応しくない大きな足音が近づいてくる。その足音には『見覚え』があった。


「戻りました、ジェイムズ教授。お探しの娘ですが……」


 屈託のない大声と同時に、勢いよく礼拝堂の扉が開く。そこには、黒の僧衣スータンを纏ったカトリックの神父の姿があった。体の厚みや大きさが凄まじく、盛り上がった筋肉が僧衣の上からでも確認できる。それは、メアリの良く知る人物――聖ジョーゼフ教会の神父、フレデリック・フォークスだった。


 フォークス司祭は、身の丈六呎半、体重に至っては二百十封度ポンドを優に超える大男だ。正確な年齢を聞いたことはないのだが、見た目では、五十前後だ思われる。性格は見たままで豪放磊落、司祭というには些か明け透けなところがあるが、弱い者にはとにかく親切で、ジェーンの葬儀を執り行ってくれたのもこの人だった。


 司祭になる前は軍人だったそうで、そのせいか腕っぷしが半端なく強い人だ。金目のものがあると踏んで教会を襲った十数人のごろつきを、あっという間に叩きのめしてしまった事もある。追われるメアリが、とにかく教会に行けば助かると信じたのもそのためだ。


 礼拝堂に入った途端、司祭はあからさまに怪訝な顔をした。壁や床に突き刺さるクロスボウの矢や、縛られたまま床に転がる曲者達を見れば誰でもそういう反応になるだろう。


「これは……」


 些か憮然としながら辺りを見回していた司祭が、メアリに気付いた。大股でこちらに近づき、無遠慮に言う。


「なんだ、メアリ。ここに居たのか、随分と探したんだぞ?」


「私を、探す?」


「そうだ。こちらのジェイムズ教授に頼まれてな。しかしどうしたんだ、メアリ。随分酷い有様だ」


 頬に貼られた絆創膏を見て、司祭が、呆れたような声を上げる。彼の声は濃い栗色で、おまけに数字も大きいので、メアリは叱られた子供のように、思わず肩を竦めてしまう。


「ごめんなさい……」


 小さく謝るメアリを見て、司祭は呆れたように言った。


「別に俺に謝るこっちゃあないが……。お前は相変わらず、変なことにばかり巻きこまれるなぁ。占い師には向かないんじゃないのか」


 司祭の言葉に、メアリは少し俯いた。占い師の素質がないのは、自分が一番知っている。けれど、それ以外で金を稼ぐ方法をメアリは知らないのだ。向き不向きの問題では無いと思う。


「お前は占い師というよりも、そもそも下町ここで生きること、そのものに向かんのだろうな。だから丁度良かったな」


「丁度良かった?」


 不思議そうに訊き返すメアリに、事も無げに司祭が言った。


「ここに居られるジェイムズ教授だが、お前を引き取りに来たんだよ。お前、やっぱり良いところのお嬢さんだったんだなぁ」


 寝耳に水というよりも、驚天動地の事柄を、司祭はあっさりメアリに告げた。メアリは思わず訊き返す。


「引き取る、って、どういう……。私はこの方とは初対面です。そんな方が如何どうして私を……」


 訊き返すというよりも、なんだか尋問のような物言いだ。何故、この老紳士はメアリを引き取るのだろう。そもそも、メアリを引き取る為にイーストエンドを訪れていたとして、普通はこんな深夜に迎えに来るものだろうか。メアリに命の危険が訪れた、この日、この時、この場所で邂逅するのは出来過ぎだった。警戒してしまうのも無理はないだろう。


 メアリの言葉に、司祭はあっさり頷いた。


「そりゃあそうだろうな。普通はそうなる。だが、事情を知れば、お前も納得するだろう」


 そう言うと、司祭はポケットから二通の手紙を取り出した。


「これは、かつて俺が所属していた英国陸軍の大佐からの紹介状と、もう一通はベアリング兄弟銀行の貸金庫の記録だ」


 その手紙の片方は確かに英国陸軍の公用便箋であり、もう一通は銀行印の押された正式書類だった。


「これを持ってきたのは、他ならぬそこの教授だ。大佐からの紹介状は教授の身分を保障する物であり、ベアリング銀行の書類は、お前の資産に関する重要な内容が記載されている」


「資産?」


 孤児のメアリに資産など在るわけもない。なけなしの二十五磅ポンドはあの夫婦にだまし取られてしまったし、その日暮らしの占い師には、銀行に預けられるほどの貯蓄もない。


 不審そうなメアリに向かい、司祭はゆっくり事情を説明してくれた。


 その内容は、メアリには想像もつかないものだった。


 今から丁度、十日ほど前の話だ。ジェイムズと名乗る教授が、顔なじみの警官と共にこの教会へやってきた。こんな貧民街の教会だ。碌でもない用件で警察の訪問を受ける事は珍しくもなかったが、しかし、今回は少々勝手が違っていた。


 警官は、七年前にイーストエンドに捨てられた少女を探していると言った。何でもひと月ほど前に、チェスターで一組の夫婦が捕まったのだという。その夫婦は悪辣な犯罪者で、身寄りの無い子供を引き取っては、その子が持つ僅かばかりの財産を奪っては殺すという、身の毛もよだつような犯行を繰り返していた。彼等の犠牲になった子供達は十五人を優に超えるらしい。


 こんな悪魔どもが長い間野放しになっていたのには、犠牲者が身寄りの無い孤児であるために、事件の発覚が遅れたというのもあるが、最大の理由は、肝心の遺体が見つからなかったせいだった。彼等は殺した子供の遺体を大学の研究者に解剖用に高値で売りつけ、証拠隠滅と共に更に小金まで儲けていたのである。凄まじい強欲振りだ。悪魔だってもう少し遠慮をするだろう。


 警察が殺された子供達の素性を調べるうちに、一番最初に彼等夫婦に引き取られた少女だけ、貧民街に置き去りにされ、直接手を下されていないことに行き当たった。可能性は零に近いが、しかし、その少女はまだ生きているのかも知れないと、捜査に当たった刑事達は、彼女の行方を必死で追った。


 その少女は中流階級の出であり、預けられた孤児院も、救貧院とは異なって書類管理がしっかりしていたため、名前などの情報が残っていたのである。彼女のことを調べるうちに、少女の父親がベアリング兄弟銀行に貸金庫を借りていた事を知った。警察が貸金庫の中身を確認したところ、中には、彼が娘の後見人となるべき人間に当てた手紙と、二千磅の小切手が入っていた。本来ならば十二年前にそれが開けられているはずだったことが判明したのだ。


 ベアリング兄弟銀行の名誉のために言っておけば、その貸金庫が開けられなかったのは、銀行側の落ち度ではない。単純に確認を怠った、役所側の人為的ミスである。


 手紙は即座に後見人に指名された人物の元へ届けられた。それこそが、警察と同行しているアルフレド・ジェイムズ教授だ。


 彼はイーストエンドの事なら、葬儀を引き受ける教会の司祭が一番詳しいのではないかと判断し、ここ、聖ジョーゼフ教会を尋ねることを提案したのだという。


 その話を聞いた司祭は、一応は納得をした。彼と共にいる警官は顔見知りの人間だ。メアリ・ジズという少女も確かに司祭は知っている。


 しかし、納得はしたが、教授を素直に信用はしなかった。何せ彼とは初対面だ。言うことをそのまま鵜呑みにするわけにも行かなかった。


 大金には、人を悪に走らせる魔力がある。この教授が、あの里親のように、遺産の二千磅をそのまま着服するために、メアリを殺害する可能性もあるからだ。


 そこで司祭は、教授がどんな人物か、紹介状を書いたかつての上司に確認したり、彼の経済状況などを細かく調べた。


 教授は一時期、陸軍士官学校受験予備校の教師をしていて、大佐とはその縁で知り合ったらしい。経済的にもかなり裕福で、地位も名誉もある。フィッツロヴィアに屋敷を構え、上層中流階級の紳士として悠々自適な生活を送っていた。金に困っている気配もなく、それどころか、得意の数学で軍や警察に協力し、様々な暗号を解く手助けまでしているらしい。申し分ない名士だった。


 調査には十日近くかかってしまったが、漸くこの教授は信用できると判断した司祭は、今晩、仕事帰りのメアリをつれて、彼と引き合わせる約束をしていたのだという。


「しかし、いざいつもの場所へ行ってみれば、お前はもう帰った後で、家まで行っても誰も居ない。色々探し回り、まさかと思って教会へ帰ってみれば、こんな事になっているとはなぁ……。本当に無事で良かった」


 散々調べたという割りに、司祭はまだ何処かで教授を疑っていたらしい。しかし、今回の件で完全に疑惑は無くなったようである。この司祭は豪放磊落で単純そうに見えて、実は凄まじく慎重で疑り深いのだ。そうでなければ生きていけないような戦場に長くいたという話だが、真偽の程は不明である。


 そんな人物が何故、軍人を退役した後で教会の司祭になったかはわからない。ただ、彼は、子供や老人など、無力な人間には本当に親切だった。メアリは一度、彼が罪滅ぼしだと嘯いたのを聞いたことがある。しかし、彼がどんな罪を背負っているかはわからない。


 そういうわけで、メアリは司祭を信用していた。彼が教授を信用できると判断したなら、そうなのだろう。今回のことは、本当に偶然であり、それはメアリにとって本当に幸いだったのだ。


 漸く警戒を解いたメアリに、教授が言った。


「まぁ、そういうことだ。司祭から説明して貰うように言った理由もわかっただろう?」


 確かにそうだ。教授の口から聞くだけでは、心の底からの信用は出来なかったとそう思う。


 嘘の気配が見当たらないあの闇色の声で、教授は静かにメアリに言った。


「私は、君を迎えに来たのだよ、メアリ・ジズ嬢。これはおそらく、君の最初の選択となるだろう」


「最初の選択……」


 先刻からの唐突な展開に、気の抜けたような声でメアリが問う。安堵のためか、緊張の糸が切れてしまい、頭の整理が追いつかないのだ。そんな彼女に、教授は言う。


「私は法的には君の身元引受人ということになる。君の父親、ギルバート・ジズ氏からの依頼でね、君を引き取ることになったのだ」


 教授の言葉は何処までも整然とした声で語られる。教授は内ポケットを探りながら言った。


「先ほども話があったが、これが、君の父君が、十二年前、亡くなる直前に書いた手紙だ。ベアリング兄弟銀行の貸金庫に預けられていたものだが、本来なら彼の死の直後に送られてくるはずだった。しかし、何の手違いか、私の元に届いたのは今頃だった」


 教授が内ポケットから取り出したのは、古びた手紙だ。差し出されたそれを受け取り、メアリは思わず瞠目した。


 確かにその手紙の差出人は、もうこの世にいない人――、十二年前ダラムで起きた列車事故に巻きこまれて命を落とした、メアリの父その人だ。見覚えのある父の字が、黄ばんだ紙に褪せたインクで記されている。驚いて、メアリは手紙の中身を改めることなく訊いてしまう。


「確かにこれは、お父様の字……。でも、どうして父は、この手紙を貴方に送ったのですか?」


「彼の意志までは、流石に私にはわからんよ。ただ、君のお父上は、私の教え子であった。おそらくはそれが理由なのだろう」


 手紙を送った相手が恩師であるというのは、確かに納得がいく答だった。教授の声は何処までも冷静で、嘘の気配がまるで無い。初めて合点が行った顔をしたメアリに向かい、教授が言った。


「メアリ・ジズ嬢。私達は君を迎えに来たのだよ。君の父君の願いと同時に、君にすべてを選ばせる為に」


 そう言うと、教授は真っ直ぐにメアリへと手を差し伸べる。真っ白な手袋に包まれたその手は、まるで何かの誘いのようだ。


「この手を取るか、取らないか。最初の選択はここからだ。君は、どちらを選ぶかね?」


 その問いは、明らかに何かを試す問いだった。

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