Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

50

公開日時: 2020年11月24日(火) 18:00
更新日時: 2021年1月15日(金) 15:34
文字数:4,508

 一心に休みなく演奏を続けていたメアリだったが、その動きが不意に止まった。


「どうしたね、ジズ嬢」


 教授の問いに、メアリが少し困ったように言う。


「いえ、数値が送られてこなくなってしまって……」


 メアリの言うとおり、受信機からは何の音も聞こえてこない。付き添っていた教授が事も無げに言った。


「では、計算すべき問題がなくなったと言うことだろう。ご苦労だったな、ジズ嬢。おかげで良いデータが取れた」


 その言葉にあたりを見回すと、確かにウィリアムの姿がない。何処へ行ったのかとちらっと思ったが、ウィリアムも一人の人間であるから、自由に動くのは当たり前だろう。手にした書類を眺めながら、教授が僅かに感心したように言った。


「見事な計算速度と正確さだ。この機関も正確に起動したようだな。君は、腕の方は大丈夫かね?」


 教授の問いに、メアリが手首をさすって答える。


「少し疲れていますが、まだまだ平気です」


 計算の方は全く集中力が途切れることなく続けられるが、流石に体の方はそうも行かない。長時間演奏を続けた両腕には少々疲れが溜まっていたが、しかし、大した事ではなかった。少し休めば、すぐに回復するだろう。


「若いというのは素晴らしいことだな。私などは、机の上に座って読書をしているだけでも、すぐに肩が凝る。寄る年波には勝てん、ということだろう」


「若者だって疲れますよ。だから、ここらで一度休憩にでもしましょう」


 真顔でそういうと、フォッグ二世は素早くメモをしたためて、壁にある気送管で何処かに送る。


 暫くすると、燕尾服を着た給仕らしい姿の男が、人数分の紅茶とショートブレッドの皿を運んできた。


「お茶を持って参りました」


「ありがとう。そこに置いておいてくれ」


 教授の言葉に、給仕は一礼すると、余計なことは何も言わずに、すっとその場から消えた。実に洗練され、優雅な動きだ。感心するメアリに教授が言う。


「ここの給仕はしっかりと分を弁えている。余計なことは喋らず、また、妙なことに興味を持つこともない。こういう研究所では、産業スパイにも注意しなくてはならないが、その心配が無いというのも良いことだ」


 そういうと、教授はメアリにも茶を勧める。


「一旦休憩にしよう。喉も渇いているだろうし、だいぶ脳も疲れたろう」


 言われてみれば、喉はすっかりカラカラだ。集中しすぎて気付かなかったが、確かに、甘いものが欲しかった。


「砂糖は幾つだね?」


 教授の言葉に、メアリは、ほぼ無意識に言う。


「十個でお願いします」


「えっ」


 その言葉に、丁度傍を通りがかった研究者が驚いたようにメアリを見た。その視線に気がつき、メアリは少しばかり非常識なことを言ったのかと不安になる。


「……多いですか?」


 おずおずと訊いてみると、その研究者が、少し慌てたように言った。二十代半ばの、まだ学生っぽさを残した青年だ。


「まぁ、平均と比べたらね、少しはね。俺……いや、私が驚いたのはね、教授も同じように、お茶に砂糖を十個入れるんだよ。教授以外でそんな人を初めて見たものだから、つい、ね……」


「教授も同じなんですか?」


 メアリの問いに、教授が重々しく口を開いた。


「頭脳労働の後に脳が糖分を欲するのは当然のことだ。数学者と計算手なのだ、嗜好が似るのもあたりまえだろう」


 ですよね、と愛想笑いでそれを返すと、研究者は、そそくさとその場を去って行く。さぞや変わった子だと思われたろう。メアリは困ったように肩を落とす。


「頭脳労働者には珍しいことではない。あの所員は、まだまだ研究者として、真に頭を使ったことがないだけだ」


 気にする必要など無い、と言い、教授が自分とメアリのお茶に角砂糖を十個ずつ入れた。


「ありがとうございます」


 メアリはきちんとお礼を言って、スプーンでそれをかき混ぜる。飲むと、溶けきらない砂糖の甘みが舌に乗った。ジャリッとした感触ごと飲み下すと、それは全身に染み渡るようだ。砂糖の甘みは、本当に『滋味』という感じがする。なんというか、舌ではなく、体が美味しいというような、そういう感じだ。


 抓んだショートブレッドも、バターの香りが良く、ほんのり甘くて、サクサクして美味しいと思う。さほど意識しなくとも、計算はやっぱり頭を使うもので、脳もまた疲労するものなんだな、と実感する。


 皆で特に言葉を交わすことなく、砂糖が飽和しきっているお茶を飲んでいると、ふと、ドアが大きく開く気配がした。一瞬だけ、周囲がざわめく。そのざわめきを一瞥し、お茶を啜りつつ教授が言った。


「珍しいな、エイシェト博士だ」


 メアリがドアへと視線を向けると、そこには車椅子に乗った老女と、それを押すウィリアムの姿があった。車椅子は随分立派で、かなりの重量があるように思える。何か特別な仕掛けでもあるのか、歯車の音もした。


 エイシェト博士と呼ばれた女性は、どこか体の具合が悪いのか、すこし顔色が悪いようだ。ウィリアムに押され、その車椅子は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。


 メアリは慌てて立ち上がったが、教授は座ったままだった。そのまま、軽く老女に挨拶をする。


「やぁ、エイシェト博士。今日はお体の具合が良いようで何よりだ」


 エイシェトと呼ばれた老女は、穏やかに微笑んだ。美しくいままに年老いた、慈愛の女神のような顔だ。


「ありがとう、教授。おかげさまで、今日はとても具合がいいの。そのお嬢さんが、新しい計算手?」


「はじめまして。メアリ・ジズといいます。本日から、こちらで御世話になることになりました」


 急に話題を振られたメアリは、少し慌てて、軽く膝を折って挨拶をする。年を取ってもこんなに綺麗なのだから、若い頃はどれほど美しかったことだろう。思わずメアリは見惚れてしまった。


「こんにちは、メアリさん。私はレズリー・エイシェト。専門は分子構造の研究だけれど、ここでは情報収集の研究に携わっているわ」

 緊張気味に行われたメアリの挨拶に、微笑みながら博士が答える。教授が補足するように言った。


「紹介しよう。彼女はこの研究所の中でも最も重要な研究をされている一人だ。彼女の理論無くして、言語の数値分解などは不可能だった」


 その説明の間、博士はメアリをじっと見つめていた。教授のように値踏みするような視線ではなく、どこか暖かい、でも、何か苦しそうな目だと思う。しかし、その目もまた一瞬のことで、すぐに博士は優しい声で快活に言った。


「ふふ、実際はそんなご大層な者ではないけれどね。ところで、どう、この研究所は。仕事には慣れたかしら?」


 博士の問いに、メアリは大きく頷いた。


「はい、皆さんには、とても良くして頂いて……」


 にこにこと素直に答えるメアリを見て、博士が優しそうに微笑んだ。


「ウィルは貴方に良くしてくれるかしら? この子は、昔から無口で表情に乏しい子だから、少しわかりにくいかも知れないけれど、慣れれば案外色々わかるし、とても良い子よ」


「ウィリアムさんは、とても親切にしてくれます。色々と助けてくれて、本当に助かっているんです」


 メアリの言葉に、エイシェトが微笑んだ。車椅子の背後にいたウィリアムを振り向き言う。


「ですって。よかったわね、ウィル」


 その言葉にも、ウィリアムは一切表情を変えない。茫とした目で、微かに頷く。


 その様子を眺め、口許を笑みの形にすると、エイシェトはメアリに向き直って言う。


「申し訳ないけれど、メアリさん、研究のことで、少し皆さんと相談したいことがあるの。一時間ほど席を外して貰ってもいいかしら?」


 その言葉に、メアリは思わず教授を見る。教授は特に表情も変えずに言った。


「そうだな。丁度休憩中だったし、今日はこのまま終わりにしよう。ウィリアム、君はジズ嬢と一緒に家へ戻ってくれ」

「わかりました」


 教授の言葉に、一同から距離を置いて立っていたウィリアムが無造作に動いた。礼儀正しく教授に一礼してからメアリの方に向き直る。


「この時間だと道が混む。だから、帰りは馬車ではなくて地下鉄で良いだろうか?」


「はい、よろしくお願いします」


 短く告げられた言葉に、メアリは鉛筆を置いて机から離れた。博士と教授に会釈をしながら、帰ってきたら、芯を削らないといけないな、と少し思う。そんな思いを知ってか知らずか、ウィリアムは相変わらずの無表情でメアリを導く。


 遠ざかる二人の姿を眺め、教授が言った。


「……ラーゼス技師も呼ぶ方がいいかな? エイシェト博士」


「ええ、お願い。フィリアス坊やもいてくれたら有り難いのだけれど、貴方は大丈夫かしら?」


 博士の言葉に、フォッグ二世が恭しい態度で答える。


「ええ、ちっとも構いませんとも。むしろ、私が居てもよろしいのですか?」


 教授がメモを入れたカプセルを気送管にセットしながら答える。


「かまわんさ。オーナーあっての我々だから、気にせずともよい。フォッグ卿も愚鈍ではないし、バーティ殿下と同じく、親の言うなりにはならん男だ。そういう意味では、私も彼を信じている」


 二枚目のメモを書き始めた教授を見つめ、博士が酷く辛そうな表情で声を掛けた。


「……教授」


「なんだね?」


 悲愴な博士の言葉に対し、教授の態度は全く変わらない。博士が目を伏せて言う。


「私は、貴方に……、いえ、貴方達にどう償えばいいのかしら。私達の過ちのせいで、貴方のご子息は……」


 教授は、皆まで言わせなかった。


「あれの人生は、あれが勝手に選んで決めたことだ。我々は、かなり前から袂を分かっていたし、そうして二度と交わることもなかった筈なのだ。だから、誰かのせいでそうなった訳でもない。私と息子との問題だ」


 慰めると言うよりも、完全な拒絶に近い。しかし、それは頑迷な老爺が意固地になっているような、そんな単純なものではないことは、はっきりわかる。そこに触れるなと言うよりも、最早終わったことだという隔絶があった。


「貴女は何か誤解をしているようだが、私がわざわざあの男に『殺されてやった』理由は、息子の仇討ちであるとか、自らの罪を悔いたであるとか、そんな理由では決してない。そもそも『千夜鶏鳴結社』とやらは、六年も前に『解体』されているだろう。今更、復讐もなにもない」


「解体と言うよりも壊滅……いえ、自滅ね、あれは」


 その言葉に、エイシェトがほんの少し、苦いような反応をする。教授は全く態度を変えずに言った。


「一八八八年のあの時の事件が、終わりの始まりであったのだろうな。犯人は未だ見つからず、おそらくは永遠に真相は藪の中であろうが、それはそれで善きこと、だ。人は死んだら終わりであるのだ。終わったことをくだくだしく述べるのは非効率的だろう」


 教授の声は何処までも淡々としていた。冷徹な頭脳を持つもの特有の、無慈悲な、事実しか見ない目だ。博士は微かに溜息をつく。

「貴方は、私に罪を償うことさえも許さないのね」


「人には魂がなく、そして死ねば無だからな。死者に対する罪の償いなど、自己満足にもならん。であるのなら、その労力を生者のために使う方が余程生産的だ。我々に残された時間は少ないのだ、もっと効率的に使わねばな」


 普段よりも些か饒舌にそういうと、教授は書き終えたメモをカプセルに詰める。


 気送管の蒸気の音の後は、沈黙が、暫し続いた。

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