「……僕に数学を教えてくれたのは、ギルバート・ジズ氏、君の父上だ」
その言葉に、メアリは少なからず驚いた。父が教授に師事していたことは教えて貰っていたが、ウィリアムもまた、父に師事していたとは想像もしていなかったからだ。
「ウィリアムさんも、父のことを知っているんですか?」
恐る恐る尋ねるメアリに、ウィリアムが静かに頷く。ほんの少し、遠くを見るような目をして言った。
「ああ。先生には僕がまだ幼かった頃に色々な事を教えて貰った。僕が教授の助手になったのも先生のおかげだ」
見たところ、ウィリアムは二十代の前半くらいだ。仮に年齢より若く見える質だとしても、絶対に三十は過ぎていないはずだった。であるのなら、言葉の通り、彼は子供の頃に父を師と仰いでいたのだろう。
ウィリアムには、メアリの知らない父の記憶がある。それを羨ましいと思う反面、自分以外に父のことを知る人に会えて嬉しいとも思う。だから、思わず訊いてしまった。
「あの、ウィリアムさんはどういう縁で、父と知り合いだったんですか?」
その問いに、ウィリアムは、少しだけ考えたようだった。瞬きを一つすると、まったく変わらない銀の声でぽつりと言う。
「僕のいた、施設の中で。先生は、そこの責任者だったから」
彼の声、銀を纏う数字には、僅かなブレさえ何もなかった。混じりっけの無い真実を言っている声だ。
フロックコートやモーニングではなく、大衆着のディットーズを着ていることから、そこまで彼の身分が高くないのは解っていた。施設にいたということは、つまり、メアリと同じ孤児だったということだろう。ほんの少し考えるようにしたというのは、自分の出身をあまり言いたくなかったからに違いない。
悪いことを訊いてしまったような気がして、メアリは思わず話題を変える。
「あの……お父さま……、いえ、父はどんな人だったんですか?」
「先生はとても優しい人だったよ。専門は数学だという話だけれど、僕は数学の他に物理学も少しだけ教えて貰った。あとは読書の楽しみを」
メアリの問いに、特に気を悪くした様子もなく、ウィリアムが静かな声で答えてくれた。この青年は、訊いたことは何でもきちんと答えてくれるし、驚くほどに嘘がない。
「数学と物理学、ですか」
幼い子供に教えるにしては、随分と高度な学問だ。それくらいウィリアムは優秀な子供だったのだろうか。そう訊くと、ウィリアムは静かに首を振って見せた。
「僕は優秀でも何でもない。優秀だったのは先生だ。先生は本気で人を救おうとしていた」
この時代、底辺にいる者が這い上がるには、学問しかない。だから、父は幼い子供にもあえて難しい学問を教えたのだろうか。確かに男性であるのなら、計算が出来れば商売が出来るし、ウィリアムのように、大学教授の助手にもなれる。
ウィリアムは小さく続けた。
「先生と共に居た時間は三年にも満たなかったけれど、あの頃が僕にとっては一番幸せな時間だったと思う。――先生が亡くなったのを知った時は、本当に哀しいと感じたし、だから、あの時、君を助けられて本当に良かった」
何らかの感情が、初めてその蒼の瞳に揺らめいたようにメアリには思えた。それが何かはわからない。迂闊に触れてはいけないような、そんな脆くて綺麗なものだ。自分の好奇心のために、おそらくは触れられたくないはずの出生のことまで話さざるを得なかったウィリアムの内心を考えたら、その綺麗なものに踏み込んではいけないと、そう思う。だからメアリは、さりげなく話題を変えた。
「あの時は本当にありがとうございました。手当てまでしていただいて……。ハンカチも汚してしまって申し訳なかったです」
「ハンカチのことよりも、君が無事で本当に良かった。この薬は良く効くから、毎日きちんと手当てをすれば、傷が残ることもない」
ウィリアムの言葉は字面こそ素っ気ないが、しかし、口調は不思議と優しかった。無感情には変わりないのだが、先刻までのものとは、纏う数字が柔らかいのだ。
父のことを話してくれたおかげで、ある種の垣根が外れたような、そんな気がする。気を許すとか、打ち解ける、というのはこういうことをいうのだろうかとメアリは思った。
ふと、ウィリアムが思い出したように言った。
「少し遅いが、下に降りて朝食にしよう。教授も待っている」
その言葉にメアリは喫驚してしまう。
「皆さん、私が起きるまで朝食を待っていてくださったんですか?」
慌てて訊くと、ウィリアムが静かに頷く。
「初めての朝食くらいは、皆で顔を合わせて食べるべきだと言っていた。尤も、教授も僕も、昨晩は帰りが遅かったから、起きたのも君と大差ないくらいの時間だったし、問題は無い」
その言葉に嘘がないことだけが幸いだった。自分のせいで皆が空腹に耐えていたのなら、申し訳なくていたたまれない。
ウィリアムの後ろについて部屋を出て行くのと入れ違いに、二人のメイドが掃除道具と換えのシーツを持って入っていく。二人とも衣擦れの音以外、無駄口は勿論、足音一つたてないようだ。昨夜、メアリの世話をしてくれたメイドもそうだったが、躾の行き届いた家の使用人というのは、これほどまでに静かなものか。
そういえば、前を行くウィリアムもとても静かだ。足跡一つたてていない。一方で、どこか湿った土の上を歩いたものか、靴底に泥が付いているのがちらっと見えた。廊下に僅かに土が残る。それを踏まないように自分の足下を見た途端、メアリは自分が靴を履かず、スリッパのままで廊下を歩いていることに初めて気がつく。
「あ……」
スリッパで廊下を歩き回ってはいけないという決まりはないが、不作法なのには変わりない。部屋に戻ろうにも、メイド達の掃除の邪魔をするのは悪いし、そもそもあそこに、自分の靴はあっただろうか。
戸惑うメアリに気がついたウィリアムが振り返る。
「どうかした?」
「いえ、その……、靴に履き替えるのを忘れてしまって……」
申し訳なく告げるメアリに、ウィリアムが事も無げに言う。
「気にしなくてもいい。君の靴はまだ無いから」
「え?」
目を瞬かせるメアリに、ウィリアムは相変わらずの銀の声で静かに言った。
「君が着ていた服や靴は、血や泥で汚れていたため処分した。今日、昼過ぎに、仕立屋と靴屋が来て、採寸する手筈になっている」
「採寸……?」
予想外の言葉に、メアリは更に目をぱちくりとさせる。今着ている服だって、十分に体に合って快適だ。オーダーメイドで服や靴まで作ってもらえるなんて信じられない。教授の気遣いには戸惑うばかりだ。
「あの、どうして教授は、そんなに私に良くしてくださるんですか? 教え子の娘というだけなのに……」
「教授の心尽くしと思ってくれれば良い。ジズ先生と教授はとても親交が深かったんだ。教授が君を引き取ったのも、他でもない、ジズ先生のご息女だからだ。教授は、君には絶対に不自由な思いはさせまいとお考えらしい」
メアリの問いに、ウィリアムが淡々と答える。嘘も無ければ、迷いもない。どうしたって真実だ。
教授と父は、そんなにも親しかったのだろうか。そんなにも親しいのなら、もしかしたら、自分は教授と会ったことがあるのかも知れない。しかし、記憶を探ろうにも、メアリには、五歳以前の記憶が殆ど無かった。あの列車事故の衝撃で一気に吹き飛んでしまった、という方が正しいだろうか。幼い頃の記憶なんて、往々にして頼りないし、明瞭とは覚えていないのが当たり前なのだろうけれど、しかし、メアリには、自分が何処か空っぽになってしまっているような、そんな思いが強くある。
――私は、何か大事なことを忘れているのかも知れない。
ふっと気泡のように、メアリの心にそんな想いがわき上がる。突然黙ってしまったメアリに、ウィリアムは何も言わなかった。そのまま静かに歩き始める。
その後を付いていきながら、メアリはその『大事なこと』が何なのかをずっと考え続けていた。
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