Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

第一章

1

公開日時: 2020年9月14日(月) 18:36
更新日時: 2020年10月14日(水) 08:53
文字数:6,344


 一八九四年十一月某日、大英帝国・倫敦。


 そもそもの始まりが何時だったかはわからない。しかし、終わりの始まりは確かにこの日、この時、この場所だ。


 少女は、濃い霧の中をひたすらに駆けている。クレープの喪服が風に舞う。


 ブルネットの長い髪が美しい、大きな翠の目をした少女だった。小柄で痩せぎすの体を見るに、年の頃は十四、五才か。幼さの残る、けれど聡明そうな顔立ちだ。


 時刻は深夜零時を過ぎていた。冬の夜気は、突き刺さるように肌に冷たい。吐く息は、霧よりも猶、白かった。


 こんな時間に出歩く人間は多くない。少女であれば猶更だ。こんな時間に出歩く女性など、精々が娼婦か、浮気相手との密会に赴く婦人くらいだろう。しかし、少女はそのどちらにも見えなかった。


 その少女は、明らかに何者かに追われているようだ。霧の向こうに、彼女を追う、幾つかの人影が見える。それはこの辺りを根城にしているごろつきのものでは決してなく、もっと洗練された一団だった。警察ではない。さりとて軍人でもない。強いていうなら、猟犬のような雰囲気だ。


 すなわち、少女は獲物であり、捕まったら即座に殺されるだろう、という予感があった。それほどまでに、冷酷な足音だ。


 少女は息を切らせて走りながらも、霧の向こうから聞こえてくる革靴の音を『見』ることで、追っ手との距離を測っていた。追っ手との距離はおおよそ五十ヤード程、人数は五人も居る。


 少女の武器は土地勘ともうひとつ、自分の直感だけだった。この先にある、古い教会に逃げ込めば必ず助かる。その確信があった。少女はそれだけを頼りに、必死になって夜の街をひた走る。


 少女の名は、メアリ・ジズ。イーストエンドに住む孤児だ。金もなければ力も無い、人畜無害で箸にも棒にも引っかからない、そんな取るに足らない存在だった。生きている価値もさほど無いが、殺されるような理由も特に無い。


――一体、どうしてこんな事に。


 メアリは追っ手から逃げながら、心の中で自問自答をする。

 思い当たることは一つだけ。一週間ほど前に見た、あの『客』だ。あの女性ひととの会話こそ、おそらくはすべての始まりだった。



 その日、メアリは、イーストエンドの路地裏で、今日も客を取っていた。


 客を取る、と言っても、メアリは別に娼婦というわけではない。立場的には娼婦とあまり大差はないが、メアリの仕事は辻占だ。なかなか当たると評判で、恋を成就させたい乙女は勿論、上流階級と思しき人々も、時々顔を隠して表れる。彼等は一様に気前が良くて、占いの料金の他にも、結構な額のチップをくれる。そのおかげで、何とか体を売らずとも生きていけるだけのあがりはあった。


 こう見えて、メアリは今年十七才だ。しかし、やせっぽちで、十四、五才にしか見えない為に、こうして仕事をするときは、クレープ地の喪服を着て、更に頭からすっぽりと黒いヴェールを被るようにしている。こうすれば十七才の少女が年齢不詳の未亡人のように見え、勝手に神秘的な雰囲気を醸し出してくれるのだ。人は見かけが九割なので、やせっぽちの少女では、まず客が寄りつかない。そのための苦肉の策だ。


 客が寄りつかないといえば、メアリが娼婦ではないというのも、そのあたりの事情が強い。育ての親の遺言で、決して体だけは売らないようにと厳命されていた事もあるが、そもそも買い手がつかないだろう。

 何故なら、メアリの体は、基本、あちこち傷だらけであるからだ。顔や手足に目立った痕はないが、服で見えない部分は、消えかけているとはいえども、切り傷や火傷の跡でいっぱいだった。

 そのなかでも特に目立つのは胸の痣だ。服を着ていればわからないが、しかし、その痣は酷く大きく、また皮肉なことに、白い肌によく目立つ、実に鮮やかな赤い色をしていた。


 ヴィクトリア朝時代の男達というのは案外繊細で、プロテスタントの土壌もあってか、とにかく女性に聖性を求める。娼婦でさえ、シミ一つない白い肌でないとなかなかに客が付かない。エドワード皇太子がデンマーク王女アレクサンドラと結婚した折、彼女の喉に大きな手術痕があった事から、初夜の晩になにもしなかったという例さえある。当時の男性にとって、情事の相手がすべすべの肌を持ち、傷一つないということがどれだけ大事であったかは、この一点でもわかるだろう。


 傷だらけの少女など、そもそも誰も愛さないし、娼婦になっても買い手が付かない。別に娼婦になりたいわけでは決してないが、しかし、誰からも愛されないのがわかってしまうのは、割合しんどい。


 その痣は、十二年前――、メアリが五歳の頃、列車事故に巻きこまれて出来たものだ。記録では、突風で停車中の機関車が動き出し、丁度付近を走っていたダラム行きの列車と正面衝突を起こしたという事になっている。この事故以来、停車中の列車には必ず車止めの設置が義務づけられたそうだが、そんなことはどうでもいい。


 問題なのは、事故のせいでメアリは唯一の肉親だった父を失った上、自身も一度、死んだと思われ、埋葬までされたことだ。


 仮死状態だったメアリは、生きたまま、父親と同じ墓穴に葬られた。実際、体中傷だらけで意識は混濁していたし、呼吸も殆どしていなかったそうだから無理もない。


 目覚めたときは真っ暗だった。何も見えず、自分が狭い場所に横たわっていることしかわからなかった。噎せ返るような薔薇の匂いだけが、ただ、そこにあった。


 とても怖かった。ここは真っ暗で、自分以外は誰も居ない。一人きりの、狭く閉ざされた世界には恐怖しかなかった。


 後に聞いた話では、メアリは葬儀の際にフランツ・ヴェスター考案の『安全棺』に葬られていたらしい。


 『安全棺』というのは、ベートスンの鐘楼の改良型の棺の事だ。


 ベートスンの鐘楼とは、早すぎる埋葬をされた者が外部に助けを求めるために作られた装置である。鉄製のベルが柩の蓋の上、丁度死者の顔の辺りに取り付けられており、柩の中にいる死者が万一蘇った折に、その鐘を鳴らせば生き返りを外部に知らせることが出来る仕組みだ。


 十九世紀の英国人は、『早すぎる埋葬』を異常に怖れた。一八五〇年代のコレラの猖獗で、大勢の人間が死んだのだが、その際、意識混濁や体温や血流が低下しただけの人間までもが『死者』と勘違いされて生きたまま埋葬される事例が相次いだのである。新聞は挙って納骨堂の隅で蹲って発見された死体であるとか、内側から掻き毟った痕のある柩の話であるとかを書きたてたし、また、教会の説教にもよく使われた。そのせいで、人々は自分が早すぎる埋葬される事を異様に畏れ、中には医者に、確実に死ぬように死亡を診断したら自分の首を切り落として欲しい、と頼み込む者までいたのである。


 そんな時代のニーズに合わせて誕生したこの柩は、予想以上によく売れた。発明者であるベートスンは、死者に対する奉仕の功を認められ、女王から大英帝国勲功章を貰っているほどだ。


 実際、メアリが助かったのは、その棺のおかげだろう。もし、安全棺でなかったらと思うと、今でも心底ぞっとする。


 しかし、当時五才のメアリにはそんな事はわからなかった。ただ怖くて怖くて、泣きながら、手に握らされていた紐を無我夢中で何度も引っ張る。それだけが、外の世界と自分を繋ぐ、唯一の物だった。遠くで鐘の音が鳴るのが聞こえたが、それだけが心の支えだったと思う。


 一時間もすると、何処からか土を掘り返す音がして、そうしてメアリは地下の世界から、現世へと戻ることが出来たのである。


 しかし、生き返ったはいいのだが、問題はその後の人生だ。身寄りのなかったメアリは孤児院に引き取られた。孤児院で五年間暮らした後で里親が見つかったのだが、まさにそれが問題だった。里親として名乗りを上げた人間は、実は借金を多く抱えており、子供を育てられるような経済状況では到底無かった。


 なのに何故、メアリを引き取ったのかと言えば、鉄道会社から支払われていた事故の慰謝料で目当てである。


 メアリには、父の分と会わせて五十ポンドばかりの慰謝料が払われていた。半分は孤児院への寄付という形で奪われていたが、しかし、残りの二十五ポンドはメアリの財産だったのだ。労働階級の週給が一ギニーという時代である。狙われるには十分な額だろう。


 メアリから全財産を奪い取った里親は、借金を払いもせず、そのまま行方をくらました。勿論メアリを置き去りにして、である。


 後に残された十歳のメアリは、頼る場所もなく、着の身着のままで路上みちっ子になることを余儀なくされた。


 路上っ子とは文字通り、路上で暮らす浮浪児のことだ。大体が捨て子か親無しで、当たり前だが人権など殆どない。ごろつきの使いっ走りか、ひったくりやかっぱらい等の犯罪者予備軍が大半で、犯罪に利用される事が多かった。下手をすると、『復活屋』と呼ばれる死体業者につかまって『商品』にされる場合もある。当時、新鮮な死体は、急速に発達する医学の進歩により、解剖用の死体を求める医学博士達によく売れた。


 『復活屋』は普通、墓暴きなどで死体を『確保』するのだが、墓地が整備され、番人が置かれるようになった昨今では、なかなかそれも難しい。そうなると『商品』を『生産』しようとする輩が現れるのも資本経済のなかでは当たり前のことで、身寄りのない孤児や娼婦など、社会的立場が弱い者を集めて殺すという犯罪さえ横行していた。流石にこれは極端な例だとはいえ、どのみち倫敦の浮浪児が、命の値段が一番安い類いの人種であることは間違いない。


 心の準備も経験も無しに、いきなりそんな場所に放り込まれたメアリは、本当に死にかけた。多分里親達は、本当にメアリを後腐れのないように殺すつもりで貧民街へ置き去りにしたのだろう。直接手を下すより、勝手に野垂れ死にされた方が良心の呵責は少ない筈だ。


 メアリは自分の系譜を知らないが、中流階級以上の出であることは、支払われた慰謝料の額や幼い頃の朧気な記憶、そして自分の言葉づかいからして間違いがない。孤児院でも、誰も訛りのある英語を喋る子供はいなかった。それ故、コックスと呼ばれる下町の言葉がさっぱり分からず、メアリは路上っ子達の仲間に入ることもできなかったし、手元に残された僅かばかりのお金も、あっという間に取られてしまった。


 それでもしぶとく二週間くらいは生きていたのだが、何の才覚があるわけでもない、十歳の孤児である。何日も水以外口にすることが出来ず、やがて動くことも出来なくなった。


 暗がりに蹲り、ああ、もうすぐ自分は死ぬんだな、と、その時メアリはぼんやり思っていた。アンデルセンのマッチ売りの少女のように、幻でも良いからもう一度お父様に会いたいと思ったが、生憎メアリの手元に燐寸はなかった。


 折角あの恐ろしい棺の中の暗闇からは助かったのに、またあの場所に戻るのだ。一体、何のために生き返ったのかもわからない。


 絶望よりも、虚無感の方が強かったと思う。手足の感覚が無くなり始め、いよいよかと諦めかけたその時だ。頭上から、不意に、嗄れた声が聞こえた。


「おやおや、確かに占い通りだ。あんた、まだ生きているかね?」


 伝法だが、しかし、暖かい声だった。


 目を開けることで、なんとかまだ『生きている』という意思表示を行ったメアリが見たものは、妙に色つやの良い一人の老婆の姿だ。古びた服だが、しかし貧民街にいるしては清潔な身なりである。


 老婆は動けないメアリを軽々と抱きかかえ、そうして彼女の塒へ連れて行ってくれた。彼女はメアリを一つしか無いベッドに寝かせて、そうして林檎のコンポートの上澄みを暖めて飲ませてくれた。甘くて良い匂いのする暖かいものがお腹の中に入った途端、現金にも生きる気力が湧いてきたのを、メアリは今でも覚えている。


 老婆のくせに煙草を吸うのか、ベッドからは煙の匂いがしたのだが、しかし、嫌な香りではなかった。メアリの父も煙草を吸う人だった。久しぶりに父を思い出し、そうして助けられたと思う安堵から、ベッドの中で、メアリは久しぶりに、少しだけ泣いた。


 老婆はジェーンと名乗った。元々は蘇格蘭スコットランドの人間で、まじないや占いで生計を立てている占い師だった。メアリを拾った理由は、同情や慈悲の心からではなく、占いの結果だと言っていた。どんな占いの結果だったかは終生教えてくれなかったが、代わりにジェーンは、メアリを助けっぱなしには決してせず、裕福な生活ではなかったが、きちんと責任を持って育ててくれた。彼女には本当に感謝してもしきれない。


 そんなジェーンは一昨年の冬に、病で亡くなってしまった。最期を看取ったのはメアリ一人だ。泣きながら手を握るメアリに、ジェーンは優しい目で「決して体だけは売るんじゃないよ。結局人は、自分が選んだものになるのだから」と告げた。メアリが何度も頷くと、最後に「あの子の償いのつもりで拾ったけれど、お前と暮らせて幸せだった。お前も幸せにおなり」と呟いて、笑顔で息を引き取った。


 メアリが今、一人きりでも生きていられるのは、みんなジェーンが教えてくれた占い師という職のおかげだ。


  その日の客は、おそらくはかなり身分の高い女性だった。五十を少し過ぎたばかりのようだが、顔立ちは美しく、まだまだ十分、水気もある。着ているものは色こそ地味だが、よく見ればかなり上等の服だ。羊毛の毛糸で編まれた美しい色の肩掛け一つとっても、かなりの手間がかかっている品だった。所作の一つ一つもとても優雅で、明らかに上流階級の出だろう。どことなく浮き世離れしている風に思えた。


 もとより女性は占い好きだ。不思議なことに、上流階級の女性であればあるほど奇妙に神秘主義にかぶれ、当たるという評判があれば、馬車を飛ばして、こんなイーストエンドくんだりまでやってくる。馭者付きの馬車から降りた女性は、机の前の椅子に座ると、躊躇いがちに小さく言った。


「あの……。ある方から『貴女の占いはとても当たる』って聞いたのだけれど、本当かしら」


 少し疑うような口ぶりであったが、しかし、それは『信じたい』という期待の表れだということをメアリはよく知っている。人は、信じたい物事を否定したがる難儀な生き物だ。それ故、メアリは出来るだけ大人のような声を出し、ヴェールの中で大きく頷く。


「私の言葉は、あくまでも占いの結果です。それが当たっているか当たっていないかは、すべて貴女が判断すること。では、試しに貴女の事を『占って』みることにいたしましょう。外れていると思えば、今すぐ立ち去ってくださってかまいません。その場合、お代は結構です」


 下町訛りの一切ない、完璧なメアリの発音に、女性はかなり驚いたようだった。倫敦では上流階級と下層階級の間では発音が異なる。言葉の訛り、というのはなかなか強制することが難しい。言葉や発音というものは、生まれ落ちた直後から、両親や周りの人間の言葉を聞き取って無意識のうちにすり込まれるものだからだ。故に英国では、階級の差を示す為のあきらかな発音差別があり、逆に言えば、完全な英語を喋るということは、その人間の身分が少なくとも下層階級の出ではない、ということを示す。


 メアリの武器の一つがこの発音だった。七年前、コックスが喋れなかった為に死にかけたメアリであったが、今では客を信用させる格好の手段だった。人は自分より弱い者、更に言えば身分の低い人間のいうことは信用しない。けれど、同等か、もしくは上の人間のいうことは盲目的に信じてしまう。


 メアリはヴェール越しに、その女性をじっと見た。タロットカードを並べ、ルーン文字の刻まれた石を適当に机の上に置いているが、これはただの形式的な物に過ぎない。十分に時間を空けてから、メアリはおもむろに口を開いた。

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