第二章
新しい服と靴が出来上がったのは、採寸から丁度一週間後のことだった。靴を待つ間、メアリは家から一歩も出ないままに十二月を迎える。
一週間家に籠もりきりだった割に、退屈は一切なかった。教授の家にはひっきりなしに来客があったからだ。
教授を尋ねてくる人間は学者仲間かと思いきや、実際は軍人や警官が殆どだった。教授は軍は勿論、警察にも協力しているのだそうだ。彼等は難しい暗号の解読や、あるいは困難な事件があると、教授のもとに資料を持ち込み、意見を聞きに来るという。
特に暗号の解読には数学の知識が必要で、軍にも専門の数学者がいるのだけれど、彼等の手に負えないものが出てきたときは、教授に依頼をするらしい。
自分が世話になっている人が、そういう世の中のためになることを行っているというのは誇らしいとメアリは思う。ジェーンもまた、占いの力で人を救っていた。誰かを助けられることは、本当に良いことだ。
だから、ごくたまに、距離や時間などの立証で複雑な計算が必要なときなどは、メアリもそれを手伝った。数式を問われるだけで、一瞬でそれを回答するメアリの能力は警官にも驚きらしく、偽金の立証の為の金属の割合を計算したときなどは、フィックスと名乗る警部から握手を求められたほどだ。
フィックス警部は切れ者なのに行動力のある善意の警部で、自分の名誉や手柄よりも真剣に被害者のことを思う人間だった。だからメアリは彼がとても好きだ。彼の話ではイーストエンドは相変わらず物騒で、つい三日前にも、身元不明の若い女性の死体がテムズ川に浮いたという。顔も潰され、身元もわからないそうだ。これを受け、数日前から警官による警邏も増やしているそうだが、貧民街はそういう事件が後を絶たない。それこそいたちごっこというやつだろう。けれど、彼は必ず犯人を捜してみせると言っていた。そうでなくては被害者が浮かばれないからだ。イーストエンドでいつも理不尽な暴力に怯えていたメアリにとって、彼の正義感は本当に頼もしかった。彼の力になれたらと、そう思う。
警官以外では、フィリアス・フォッグ二世と名乗る青年が二日と開けず通ってくる。こちらは教授の教え子だそうで、旅行代理店の経営をしているそうだ。クリスマスは本当に海外で過ごす予定になったらしく、その為の手続きに来ているらしい。
フォッグ二世はとても面白い青年だった。明るくて快活で社交的で、いるだけでぱあっとその場が明るくなるような人物だ。声は獅子毛のような金色で、纏う数字は六近辺をうろうろしている。数字が定まらないのは、彼が冗談ばかり言うせいだろう。陽気なほら吹きと言ったところか。フォッグ二世は、パンフレットを山のように持ってきては、いろいろな国の話をしてくれた。
フォッグ二世は、山登りや冒険が趣味で、世界中の山を渡り歩いていたという。教授と知りあったのも、アルバート・スミスのモンブラン登攀にあこがれて瑞西に滞在していた時らしい。
パンフレットを開きながら、フォッグ二世は世界各国の話をたくさんしてくれる。
――三十年ほど前に開国した、東の果ての小さな国の、エキゾチックな町並みのこと。
――北の果てで見られる、緑の極光のこと。
――南にある、モザイク模様で飾られた、ドームが美しい異教の教会のこと。
――赤道付近の、動物園よりもたくさんの種類の動物が住む、暖かい常夏の島国のこと。
――南の果ての、夜が明けない白き常冬の大陸のこと。
それは、聞くだにわくわくするような話ばかりだ。見たことのない世界の聞いたこともない話に、メアリはうっとり聞き惚れた。メアリが望めば、世界中、何処にでも連れて行ってくれると教授はいう。それは本当に魅力的な誘いだった。
何処に行くにしても、英国から一歩も出たことのないメアリには未知の場所には違いない。
行く先は、十二月半ばまでに決めてくれれば良いという話なので、メアリは毎晩のようにパンフレットを眺めては、そんな未知の世界に思いを馳せる。
教授の家には旅行記や地理の本の類いがあまりなかった。倫敦や巴里、紐育や羅馬などの、世界の主要都市の地図はある。けれど、地図だけでは、やっぱり詳しいことは解らない。
新しい靴が出来て最初に何処へ行きたいかと尋ねられたとき、真っ先にミューディーズを上げたのは、そう言う理由からだった。クリスマス休暇のためにも、まずはいろんな人の旅行記が読んでみたいと思ったからだ。
メアリの答えに、教授は相変わらずの闇色の声で言った。
「私は今日中に済ませてしまわないといけない仕事がある。だから、ウィリアムを供に付けよう。気象台は、明日辺りから雪になると言っていた。何か欲しいものがあれば、今のうちに買っておきなさい」
そういって、教授は小遣いまで渡してくれる。メアリはありがたく受け取った。最初は何もかも遠慮をしていたが、遠慮する方が失礼に当たると言われ、今ではすべての好意を素直に受け取るようにしている。この恩はいつか必ず返そうとその度に心に誓う。
出来たての服と外套、そして真新しい靴は、びっくりするほど体に馴染んだ。今まで着ていた服も相当着心地が良かったのに、オーダーメイドの服は細部までしっくりくる。靴も柔らかくて、痛いところが何もない。
帽子も可愛らしくて、軽かった。
着るものが上等のものになるだけで、貧民街のやせっぽちが、たちまちのうちに良いところのお嬢さんへと変身する。鏡に映る自分の姿に、馬子にも衣装というのはこのことかと、メアリは他人事のように感心した。
メイドの手で髪も綺麗に整えてもらい、出発の準備が整うと、メアリはすぐにウィリアムの待つ玄関ホールへと向かった。
玄関ホールには、爽やかな林檎の香りが満ちている。玄関ホールの隅に、青い林檎の詰まった木箱が置いてあるからだ。コックス・オレンジ・ピピンという、英国でよく見る種類のこの林檎は、散歩をしながら食べるのに丁度良い大きさで、喉の渇きを簡単に癒やせるくらいに瑞々しくて、甘酸っぱいのがとても好い。林檎の木がある家では、落ちた林檎を拾い集め、こうして玄関に置いておく。これらの林檎は、来客や家の者が勝手に食べて良いことになっている。林檎はメアリの好物なので、とても嬉しい。
元から英国では、庭や街路のあちこちに林檎の木が生えていて、自然に熟して落ちた実は誰でも勝手に食べて良い、という暗黙の了解がある。この家の庭にも林檎の木が数本生えていて、植物の手入れはウィリアムの趣味なのだという。確かにメアリも、この一週間の間、時折ウィリアムがウェストコート姿で木の手入れをしているのを見かけた。
そんな林檎の香りの中では、既に長身の青年が黒い外套とボウラーハットを手にして立っている。足下に小さなトランクが置いてあるのが見えた。
「お待たせしました」
慌てて彼の元に駆け寄るメアリに、ウィリアムが静かに頷く。
「大丈夫。僕も今、来たばかりだから」
相変わらず無感情な声だったが、しかし、やっぱり何処か優しいようだ。メアリが赤ん坊の頃も、彼はこんな感じだったのだろうかとふと思う。
ウィリアムはボウラーハットを目深に被り、足下のトランクを持ち上げると、メアリを促し玄関を出る。
玄関を出て望む空は、確かに雲がいっぱいで、天気が下り坂になる気配があった。アスファルト舗装の道は、土の道より雪が凍りやすい。教授が今のうちにミューディーズ行きを勧めるのも当然だとメアリは思う
徒歩でも十分行ける距離であるので、今回は馬車は使わなかった。一週間も家に閉じこもっていたので、外の空気を吸いたいと思ったのである。メアリは運動こそ苦手だが、散歩はむしろ大好きだ。
久しぶりの外は空気が冷たいが気持ちよかった。二人で肩を並べて歩いていると、やがて大きな店がいっぱいの通りに出る。
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