その夢は、ずうっとぼくと共に在るようだった。沼の底に沈む夢だ。そこから浮上しようと思っても、幾つもの蝋燭のように白い腕がぼくに絡み、決してそこから出ることを許さない。
沢山の白い腕の持ち主は、沢山の白い屍で、ここはそういう場所なんだ、と言うことがぼんやりわかる。
白以外の色を持たない人々は、唯一その『色』を持つぼくを、絶対にここから出さないとでも言うように、しがみついて離れない。
沼の底なのに、息苦しさは何も無かった。ただ、白い腕にしがみつかれていると、凍えるほどの寒さを覚える。
それがいつもあたりまえで、だから、ぼくはいつも冷たかったし、寒かった。それが、辛いと言うこともわからなかった。
あの声を聞くまでは。
目覚めて最初に聞いたのは、元気の良い赤ん坊の産声だった。微睡みの中で見ていた、あの白い夢とは全く違う、明瞭(はっきり)と色付いた健やかな鳴き声だ。
ぼくは、ゆっくりと起き上がり、寝台から床の上に立つ。寝覚めのせいで少し覚束ないようだったが、なんとかドアを開けて、廊下へと出た。
赤ん坊の産声は大きくて、わんわんと頭の中に響くようだ。けれどそれは決して不快な物ではなく、白く靄のかかったような思考をはっきりと研ぎ澄ませてくれるような感じがした。
廊下に出たはいいのだが、しかし、どうしたら良いかわからない。ただ、呼ばれているような気がするだけだ。
廊下で長い間逡巡していると、やがてその産声も消えてしまった。どうしたのだろう、とぼんやり思っていると、不意に、廊下の突き当たりの部屋のドアが開く音がした。
中から出てきたのは、赤ん坊を抱いた若い男だ。なんだか酷く青ざめている。
男は、廊下に立ち尽くすぼくを見付けると、かなり驚いたようだった。赤ん坊を抱えたまま、少し小走りに駆け寄ってくる。
「……この子の声で、目覚めたのか」
問いかけられたと感じたぼくは、だまって一つ頷いた。まだ、巧く喋ることができないからというのもあったけれど、赤ん坊を起こすのが怖かったのもあるからだ。
「そうか……。義父の予想は正しかったのだな。この子は、やはり……」
頷くぼくを見て、何か考え込みながら、男は低く呟いた。そうして何か決意したような顔をすると、男は改めてぼくに向き直る。大事そうに、胸に抱いている赤ん坊を見せてくれた。
「さっき生まれたばかりの、私の子だよ。元気な女の子だ」
御包みの中にいるその子は、ぷうぷうと、小さな寝息を立てていた。なんだかふっくらやわらかそうで、うっかりとさわったら壊れそうなくらいに小さい。何故だかその子から目を離せずにいるぼくに、男が言った。
「私は、多分、あまり長生きできないだろうな。だから、君に頼みがある。私の代わりに、この子を守ってやってくれないか」
「まもる?」
はじめて喋ったぼくに、男はほんの少し、微笑んだようだった。御包みを抱え直し、きっぱりと言う。
「そうだ。『――我々が生まれ出ることになる、来るべき時代は総て、前時代以上に我々にとって危機を孕んでいるであろう』という言葉通り、新たな時代に生きる事になるこの子は、常に危険に脅かされている。君には、この子を守って欲しい。君にしか、出来ないことだ」
難しいことはわからないけれど、ただ、この子が危ない目に遭うのは嫌だった。ぼくにしか出来ない、というのなら、やらなくちゃ、と、自然に思った。
やってくれるね、と言う男に、ぼくは、はっきり頷いた。
それは、ぼくのはじめての意志だったと思う。請われたからだというよりも、むしろ、自分から、『この子を守りたい』とそう思った。
ぼくの返事に、男は安堵したようだった。
「ありがとう。この子を、頼む」
はじめて言われた感謝の言葉に、ぼくは、何と返したら良いかわからなかったが、男は笑うだけだった。
赤ん坊は、相変わらず、ぷうぷうと小さな寝息を立てている。よく寝る子だと、そう思った。
なんだか、はじめて、胸の奥に、ぽっと暖かな火が灯ったような、そんな気がした。
あれから三年が経った。僕は少しずついろんな事を学んでいって、大人達の会話の意味も、だんだんとわかるようになっていた。あの赤ん坊の母親は、産後の肥立ちが悪くて、半年もしないうちに亡くなったらしい。
僕は、三年間、彼女と共に育っていった。二つになる頃から、彼女は喋るようになり、回らぬ舌で、たどたどしく歌うようになっていた。その歌はリズムもてんでばらばらで、でたらめな節回しだったが、何故だか僕は、それがとても好きだった。その歌は、時折夢の中にも聞こえてきて、白いあの腕から、僕を解き放ってくれたりもした。そんなときに目覚めると、決まって彼女が傍に居て、寝起きでぼんやりしている僕の顔を見て、ころころと元気に笑っていたものだ。大人達は何故か、僕と彼女をなるべく一緒に置くようで、その意図はわからなかったが、でも、それが僕には嬉しかった。
三年前から、僕は、いろいろな実験をされていた。大体がそれは、痛かったり苦しかったりするものばかりで、だから僕は実験が好きではなかった。
大人達の言うことには、僕は感情がとても希薄なのだそうだ。しかし、唯一、痛みに対してだけは、普通の人間並に、というよりもかなり過剰に反応する質らしい。だからだろうか、僕は、彼等に毎日、痛みばかりを与えられていた。
僕は僕なりに、辛かったり、苦しかったり、悲しかったりしていたのだけれど、しかし、それを表に出す方法がわからなかった。だから、実験は、延々続いた。
それはひたすらに辛い日々で、僕はますます感情の使い方がわからなくなり、余計に空っぽになるようだった。
そんな僕を救ってくれたのは、もうじき三才になる彼女だった。彼女はよく笑い、よく泣き、そうしてよく食べて、よく眠って、健やかに育っていた。
彼女の祖父はここで一番偉い人間らしい。だから、彼女はここのお姫様のようなもので、それ故に、皆から愛され、とても大事にされていた。宝物、と言う者さえいたほどだ。
僕は、彼女が何より大事にされていることに、ひたすらに安堵していた。どんなに日々の実験が辛くても、彼女が笑っているだけで、それだけで耐えられた。
実験が終わった後、僕はよく、彼女と一緒に屋上の薔薇園へ一緒に行った。彼女は、薔薇園が気に入りで、赤ん坊の頃から、どんなに憤っていても、そこへ連れて行くだけで、上機嫌になったものだ。
ある日のこと、いつもと同じく、僕らは二人で屋上の薔薇園へと遊びに出かけた。直前の実験で、痛覚を二時間もぶっ続けで電極で刺激される、という碌でもない目に遭わされていた僕は、それから解放されても続く痛みに悩まされていた。
表情には一切出ないが、どうやら動作にそれは出ていたらしい。足を引きずる僕に、彼女が言った。
「どうしたの? あんよ、いたいの?」
眉をハの字型にして、とても心配そうな顔だった。ちいさな手が、気遣うように僕の足にそっと触れる。僕は嘘をつく、と言うことをまだ知らなくて、だから、正直に言ってしまった。
「痛いけど、我慢できるよ」
すると、彼女はもの凄く心配そうな顔をした。大きな翠の目が近づいて、僕の目を覗き込むようにして言う。
「いたい? ころんだの? ころぶのいたいよね」
そういえば、彼女は活発な子でよく動くから、その分、あちこちでよく転んでいた。心からの思いやりがこもったその声に、僕は何も言えなくなって、ただ、黙って頷いた。
彼女は、暫く何か考えていたようだったが、すぐに、好いことを思いついた、と言わんばかりに、ぱっと顔を輝かせて言う。
「そうだ、おうた、うたってあげる。いたいのがどっかにとんでいくように、って」
「……歌?」
それに何の意味があるかわからず、首を傾げる僕に、彼女は言った。
「あのね、おとうさまがね、おしえてくれたの。いたいのがなくなるように、っておいのりしながらうたうとね、いたいのがほんとうになくなるんだって」
正直、僕はそんなことを全く信じていなかった。僕が幾ら未成熟だとはいえ、そんなものが現実ではないくらいは知っていたからだ。しかし、彼女があまりに名案を思いついたような顔をしているので、無下にも出来ず、僕は黙って頷いた。彼女はすぐに歌い出す。
その歌は、今までの彼女の歌とは全く違った。
たった三才の少女の声では到底無かった。澄み切った声が幼い声帯を揺らし、周囲の空気を震わせる。
調子っぱずれでもなく、たどたどしい節回しでもなく、ただ完璧な音階がそこにはあった。僕は、生まれて初めて、歌に聴き惚れる、という事を体験する。
じくじくと残っていた痛みの感覚が消えていくのを、ぼんやり感じた。胸の奥が暖かく、何か、氷の塊が溶けていくような気になった。
ふと気がつくと、視界が歪み、頬が濡れる気がする。自分が泣いている、と理解したのは、それから暫く後のことだ。
僕は泣くことも出来るんだと、初めて知った。この涙は一体何処から出てきたのかもわからない。けれど、僕の涙だと言うことだけは確かなことだ。
彼女のその綺麗で優しい歌声は、ずうっと僕の、耳に残った。
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