三
いつものように身支度を済ませ、一階の食堂へと降りていくと、既に教授はテーブルについて新聞を読んでいた。
昨晩は教授の帰りが遅すぎて、顔を合わすのは結局今朝になってしまった。既にウィリアムが報告を済ませていてくれている筈だが、心配をかけてしまったのは心苦しい。
「おはようございます、教授」
結局いつもと同じく朝の挨拶をすると、教授も同じく挨拶を返してくれた。
「ああ、おはよう、ジズ嬢」
挨拶を交わしていると、ウェストコート姿のウィリアムが無造作に食堂へ入ってくる。どうやら庭木の手入れをしていたようで、その靴には新しい泥が付いていた。
「おはようございます、ウィリアムさん。林檎の木のお手入れですか?」
「……おはよう。今日の昼には初雪が降るそうだ。だから、木々が雪に耐えられるよう、色々と準備をしていた」
メアリの挨拶に答えると、ウィリアムは教授にも挨拶をする。教授は読み終えた新聞を畳みながら言った。
「昨日は本当に災難だったな、ジズ嬢。ミューディーズを狙ったテロルに巻きこまれるとは」
「そうですね。ウィリアムさんのおかげで無事に避難できて本当に良かったです」
椅子に腰掛けて沁々と告げるメアリに、教授が新聞を脇に置き、出された紅茶を啜りながら言う。
「ウィリアムは機転が利くからな。君について行かせて良かった。彼に聞いたが、計算手として大活躍だったそうではないか。やはり君には素晴らしい才能がある」
教授から褒められて、メアリは少し嬉しくなった。ぽっと頬を染めるメアリへ、教授は続ける。
「そう言えば、年会費は後ほどミューディーズの方から払い戻されると言う話だ。今日のタイムズ紙に、社長のアーサー・ミューディ卿が、あの場にいた客すべてに、お詫びの品や見舞金を支払うという声明が乗っていたからな」
年会費が戻ってくるのは有り難かった。労働者階級の二週間の賃金がおおよそ一ギニーと少しなのだ。幾らお金に困らない身分になったとはいえ、メアリにとってはかなりの大金である。払い損はやっぱり嫌だ。
安堵する反面、しかし、一つの疑問が浮かぶ。
「どうしてあの場にいたお客の名前がお店側にわかるんですか?」
不思議そうに訊くメアリに、教授が一つ頷いた。
「貸し出しカウンターの帳簿があるからな。あれは、時刻まで書き込んで、誰が何を借りたかという記載を行うものだ。だから、焼け残ったそれを見ればおおよそはわかるのだろう。かなりの広範囲が燃えたそうだが、登録カウンターは焼け残ったそうだしな」
貸本屋の帳簿のシステムは、質屋のそれより細かいのだと、相変わらずの冷静さで教授が言った。メアリも良く質屋を使ったので、その細かさはよくわかる。
ヴィクトリア朝を通じて、庶民は実に質屋を多用した。月曜日の朝に一張羅である日曜日の晴れ着を質に入れ、その週の生活費や営業資金を捻出し、土曜日に支払われる賃金や利益でもって質草を請け出す、といった生活がパターン化している。庶民にとって質屋は銀行の代わりであり、また、一張羅を預かってくれる安全な貸金庫でもあった。
ミューディーズの場合、金ではないが、本を貸し出すために、余計にその辺りはきっちりとしているのだそうだ。
「ミューディーズも大損害を蒙った上、株価も少し下がったそうだが、しかし、その対応の素早さで、致命傷には至らなかったらしい。店の方もクリスマス前には再開する予定だと言うことだし、まぁ、すぐに元通りになるだろう」
教授の言葉に、メアリは、ほっと胸をなで下ろした。別に気に病む必要はないのだが、あの騒ぎに多少なりとも関わった者としては、事件の行方が少しばかり――いや、かなり気になっていたからだ。
「しかし、昨日は立て続けに事件が起きたな。ミューディーズのテロもそうだが、またソーホーのセイント・アンズで殺人事件が起こったそうだ。一ヶ月に五件ともなると、かの切り裂きジャックを越えている。もうじきクリスマスだというのに物騒なことだ。君も外出するときは、絶対に一人では出かけないようにしたまえ」
安堵したような顔のメアリに、まるで釘を刺すかのように教授が言った。
切り裂きジャックは、今から六年前の一八八八年八月三十一日から十一月九日の約二ヶ月間に、ロンドンのイーストエンドとホワイトチャペルで少なくとも五人の売春婦をバラバラに切り裂き殺した犯罪者の名だ。六年経っても猶、犯人は逮捕されず、未だに手がかり一つ無い。メアリがイーストエンドに暮らすようになって一年も経たない頃の事件だったから、あの時の騒動は良く覚えている。
流石にメアリが疑われることはなかったが、知り合いの大道芸人や日雇い労働者達がしつこく取り調べを受け、商売あがったりだと愚痴を零していたのを思い出す。幼いとはいえ少女だったメアリは、被害者にならないよう、ジェーンによって半年以上外に出して貰えなかった。教授の物言いは、その時のジェーンに似ていた。心配してくれているという感覚に、胸の奥が暖かくなり、メアリは素直に返事を返す。
「はい、わかりました。決して一人では出歩かないようにします。でも、教授達も気をつけて下さいね」
心配そうなメアリの言葉に、教授が大きく頷いた。
「ああ、解っている。折角君を引き取ったのに、また一人にしてしまっては、ギルバートに申し訳が立たないからな」
闇色の声に嘘は無い。メアリは少し安心した。
食事の後、メアリは真っ直ぐ書庫へと向かう。それが最近の習慣だった。多分メアリは、自室よりも書庫にいる時間の方が長い。この数日間、メアリは外国語の本こそ読めなかったが、英語で書かれた本は、手当たり次第に読んでいた。ふかふかのソファーのおかげで、長時間座っていても体が痛くならないのがいい。
今日手にしたのは、フューリーの『英国史』である。昨日、ウィリアムから聞いたガイ・フォークスの話が気になっていたからだ。
ジェイムズ一世は確かに暴君とも言える王だった。母であるメアリ・スチュアートをエリザベス女王に処刑された。そうしてその詫びのように、エリザベス女王は次期英国王にジェイムズ一世を指名している。一方でメアリ・スチュアートは母ではあるが、ジェイムズ一世が物心つく前に彼を捨て、新しい愛人と一緒になるべく夫を殺したという噂もあった。王族というのは常にそう言う悍ましい暗部を抱えているのかも知れないが、だからこそ、ジェイムズ一世はあまり人を信用せず、悪魔の存在を確信してしまったものらしい。
いうなれば、ジェイムズ一世は、生まれたときからそうなるように『教育』されていたとも言える。
理不尽な暴力をふるった王はその報いを特には受けず、代わりにそれを背負わされたのは、息子であるチャールズ一世だった。クロムウェルの清教徒革命の果て、大罪者として処刑されたチャールズ一世に、メアリはほんの少し同情をしてしまう。本来なら王になるはずもなかった芸術を愛する人間が、兄の死により王座に就き、そうして父親が振りまいた憎悪の矛先がむけられ、そして最後は処刑される。
失策もあったかもしれないが、でも、殺されるほどではなかったかもしれない。それとも、父親の罪はやはり自分の罪になるのだろうか。
ポール・ドラローシュという仏蘭西の画家が、『チャールズ一世の遺体を見るクロムウェル』という絵を描いているらしいが、どんな絵かメアリは知らない。王を処刑したクロムウェルは、それを誇ったのか、それとも悔いていたのだろうか。
何故だかメアリは、ジェイムズ一世よりもチャールズ一世の方が気になってしまう。自分の物ではない罪を背負うというのは、きっととても恐ろしく、そうして理不尽であるからだ。この理不尽に、チャールズ一世は何を思ったのだろう。
本を読み始めて二時間ほど経った折、不意にドアがノックされた。正確無比な間隔は、間違いなくウィリアムのものである。
「どうぞ」
何かあったのだろうかと、メアリは本を置いてドアを開ける。そこには、大きめのマグカップと焼き菓子の乗った盆を持ったウィリアムが立っていた。テーブルの上に盆を置き、静かに告げる。
「随分と根を詰めているようだけれど、一旦休憩した方がいい。あまり読書を続けると目が疲れるだろうから」
気がつけば十時半になっている。少し小腹が空いた頃だ。
昨日、ウィリアムとビリーの前で盛大にお腹を鳴らしてしまったことを思い出し、メアリは思わず赤面した。少し慌ててお礼を言うと、照れ隠しのように、マグカップをそっと手に取る。
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