この間教授に言われたとおり、メアリは倫敦・ブック・ソサイエティ部門の会員の申し込みを行う。ほんの一週間前までは、二ギニーの金を捻出するためにどれだけ苦労せねばならなかったことか。少なくとも二ヶ月は食費を切り詰めねばならなかっただろう。それを思えば、今がどれほど恵まれている事か。
綺麗な服に、ふかふかのベッド。毎日お腹いっぱい食べられて、さらに自由になるお金まであるのだ。本当に恵まれすぎている。
そんなことを考えながら登録を終えたメアリに、手続きをしてくれた事務員が優しく微笑んだ。
「今日から三冊の貸し出しが可能です。借りたい本がございましたら、こちらまで持ってきてください。手続きを致します」
その言葉に、思わずメアリは大きく頷いた。三冊も新しい本が借りられるのはとても嬉しい。出来たばかりの会員証を財布にしまうと、メアリは早速本棚を巡る作業に入る。
「本を探し終わったら、僕を呼んでくれ。僕はこの辺りにいるから、時間を気にしないでゆっくり選ぶと良い」
そう言うとウィリアムは、トランクをぶら下げて、静かにメアリの側から離れていった。本棚を見られるのはその人の人格を見られるのと同じだという言葉の通り、選ぶ本を見られるのも、自分の一部を見られるようなものだから、そう言う意味で気を遣ってくれたに違いない。
ミューディーズは別名教養文庫と呼ばれ、悪書の類いは一切無い。だから、何を借りても羞じることは無いのであるが、ウィリアムの気遣いは嬉しかった。なんというか、一人の人間として認めてくれていると解るからだ。
ウィリアムと別れたメアリは、早速今日の目的である旅行記を探しはじめる。ミューディーズの分類は、きちんとジャンルに別れているのが便利だった。メアリはすぐに旅行記の棚を見つける。
どれを借りようかと背表紙を見つめていたメアリは、そこで『中央アジアの神の地』というタイトルに目をとめた。中央アジアと言えば、十数年前、亜富汗斯坦との戦争があった地域の筈だ。英国の勝利に終わったのは知っているが、以降この地がどうなったかはよくわからない。
なんとなく気になって、メアリはその本に手を伸ばす。
メアリが本に触れるのと、誰かの手が同じ本を掴むのはほぼ同時だった。背後から手を伸ばしていたらしい。
「あ、ごめんなさい」
咄嗟に短く謝罪すると、メアリは本から手を離す。直後に、老人の声がした。赤みがかった、褐色の声だ。
「いやいや、こちらこそ失礼をした。この本に触れたのは君の方が先だった。だから謝らなくてもいいのだよ」
威厳のある、けれども優しい声だった。メアリは思わず声の主を振り返る。そこには、恐ろしいほど上質の外套とトップハットを身につけた、人品卑しからぬ老紳士が立っていた。笑顔こそ柔和だが、身に纏う雰囲気は、なんだかとても強かそうだ。袖口のインクの付いた釦を見れば、書き物を良くするのがよくわかる。胸を張るような喋り方は、何らかの彼が組織の上に立つ人物だと言うことを示していた。その目からは、自分の信念は曲げないかわり、他者にどう思われても良いようだ。敬虔な英蘭国教会の信者のようで、教会にも足繁く通うというのは、アルバートの端に付いた十字架で解る。
彼の隣には、フロックコート姿の東洋人の老紳士が立っていた。東洋人は背が低いと思っていたのに、その老紳士の背はかなり高い。六呎は越えている。その東洋人は、少しカーブを描いた白木の杖を携えて、無言でメアリを見つめていた。この人の目付きも鋭く、なんだかすべてを見透かされそうな気さえする。なんだか一分の隙も無くて、用心棒のようだと思った。歩き方は勿論、呼吸にさえも隙が無いのだ。
件の老紳士はびっくりするほど慇懃に、本棚から手にした本をメアリに差し出す。
「すまない、手を伸ばしている淑女に気付かず、うっかりしていた。この本は、君が先に手に取ったのだから、君が先に借りるべきだよ」
「どうもありがとうございます」
メアリは素直に本を受け取り、丁寧にお礼を言う。すると、紳士はひらひらと片手を振ってにこやかに微笑んだ。
「礼には及ばんよ。ところで、君は中央アジアに興味があるのかね?」
「いえ、私は英国以外の国のことを何も知らなくて……。タイトルが変わっていると思ったものですから、つい手に取ってしまいました」
メアリの答えに、紳士は大仰に頷いた。
「そうだな、確かに変わったタイトルだ。しかし、かつての中央アジアはとても美しい場所で、神の地と呼ばれるに十分値する場所だったのだよ。女性達は美しい刺繍のされた布を纏い、男性もまた逞しく強い。馬を駆り、禽獣を使って狩りをする者もあれば、遊牧をする民もいる。かつてはエデンの園と並び称された地でもあった」
「……あった?」
何故、過去形なのだろう。不思議そうに訊くメアリに、老紳士はほんの僅かに首を振る。
「あの地は、アフガン戦争ですっかりいろいろなものが失われてしまっている。きっかけは露西亜の南下政策だとしても、直接手を下したのは我等英国人だ。人々が静かに穏やかに暮らしていた彼の地の美しい寺院や風土、そして文化さえ、今はもう消えてしまった」
悔恨がはっきりわかる声だった。数字の変化は、彼が羞じている事も示している。この人は軍人だったのだろうか。しかし、それにしては彼の体つきは、一度も肉体労働をしたことのない人種のそれだ。仮に将校だったとしても、行軍くらいはする筈だから、彼が軍人というのはあり得ない。
一方で、東洋人の紳士は見事な体をしていた。がっしりとしていて頑健そのもの、動作も身のこなしもすべて機敏だ。頭に白い物こそ混じっているが、ただの老人では到底無かった。こちらの東洋人の紳士こそが軍人で、西洋人の老紳士はその雇い主か何かなのかも知れない。
老人達のことよりも、紳士が話した内容の方に興味を惹かれたメアリは、思わず訊き返してしまう。
「文化って、消えるんですか?」
「消えると言うより、殺される、と言うべきだろうな。そう、戦争は文化を殺すのだ。失われたものは、二度と戻らない。帝国主義は所詮帝国主義だ。カーナーヴォン伯爵の言うところの『平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義』などまやかしだ。そんなまやかしのせいで、印度や阿弗利加、中央アジアや濠太剌利の文化が幾つ消えていったか解らない。私はそれを悔やむし、そして羞じる」
メアリの問いに答える老紳士の声は、静かな怒りを讃えていた。帝国の臣民であるメアリには、その怒りの理由がよくわからない。ただ、彼が帝国主義を好きではなく、また、その結果も苦々しく思っていることだけはよくわかる。
だから彼は、東洋人の老紳士と連んでいるのかもしれない。非白人種に対する英国人の差別意識は米国ほどの露骨さはないにしろ、かなりのものだ。同じ英国人であっても、身分の差で徹底した差別をするのがこの国なのだ、況んや異邦人など、というわけである。そんな英国人の彼が異邦人と親しくするのは、反骨精神の表れかも知れなかった。
「人と土地、両方が揃ってこそ文化は継承され、後世に受け継がれる。人が滅んだ場合は勿論だが、戦火で土地を追われた場合、別の土地で代々継承された文化を守るのは難しいのだ。現に彼の国は、私達の余計なお節介のせいで、かつての文化は死にかけているのだそうだよ。サムライダマシイ、と言う思想と共にね。彼は日本のサムライなのだが、今は故あって、私の護衛をしてくれている」
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