巡回の警備員がそこを訪れたのは、夜明け前のことだった。高い倉庫に囲まれているせいで、ガス燈の明かりも朧である。
この辺りは物騒で、水夫崩れのごろつきが徒党を組んで倉庫を荒らしたり、荷物を取りにやってきた商人を襲ったりする事件が後を絶たない場所だった。そのため、巡回も早足でおざなりに行われるのが常である。警備員と言っても人間で、徒党を組んだ連中に襲われては一溜まりもないからだ。
最初の異変に気付いたのは、手にしたオイルランプのシャッターを大きく開いたその時だ。
黄色い明かりが届くぎりぎりの道の端に、何か平べったい、大きな敷布のような何かが数枚落ちているのが見えた。良くは見えないが、なんとなく、貴族の家にある猛獣の毛皮の敷布が連想される。
また倉庫を荒らされて、輸入品の毛皮を盗まれたのだろうか、と警備員はふと思った。だとしたら問題だ。直ぐに警察を呼ばねばならないし、そうなれば自分だって上司に叱責される。出来れば何事もなかったように隠蔽できないものかと足を急がせた警備員だったが、『それ』を見た途端、やはり警察を呼ばねばならぬと強く思いなおした。
辺りは血の海だった。潮の香りのせいで、余計に腐敗しかけた血の臭いが強調される。警備員が嘔吐しなかったのは、彼が剛胆だった訳でも、血を見慣れていた訳でもない。単に、目の前にある『もの』の方が余計に衝撃的だったからだ。
人間は衝撃の度合いが突き抜けると、吐く余裕も何もなくなる。ただ、立ち尽くすしか出来ない。
そこにあるのは毛皮などでは到底無い、もっと物騒な『もの』である。
血の海に浸かるようにして在る『それ』は、五つ分の、まるで魚のように三枚に下ろされた人間の残骸――、見事なまでに開かれた死体だった。
皮と骨以外、すべてが空っぽだった。内臓も肉も、目玉も何もかもがない。しかも、ありとあらゆる所が綺麗に開かれている。腕利きの外科医だって、ここまで鮮やかな解剖は出来ないだろう。残された頭蓋骨の数から数えて五体だと判断したが、それが正しいとは限らない。なにせ、綺麗に開かれているせいで、その皮の下に何があるかは一見してわからないのだから。
茫然と立ち尽くす警備員は気付かなかった。この死体は背割りであって、そこから真っ先に背骨が奪われているということに。正確には、脳と脊髄、そうしてそこから伸びる神経が綺麗に無い。内臓や肉や目玉が無いのは、ある意味でおまけのようなものだった。重要なのは、脳と脊髄と神経だけだ。
警備員は無意識に、その遺体に見惚れていた。完全な『もの』となった遺体には、レンブラントの絵画――『ヨアン・デイマン博士の解剖学講義』のような不思議な趣さえあるからだ。
美しい、というわけではない。さりとて、悍ましさの極地、という訳でもない。いっさいの人間性が失われた『それ』は、全く安心して見られる作り物に酷似していた。見世物小屋の暗闇に近いだろうか。
警備員が我に返って、裏声の悲鳴を上げたのは、それからおおよそ二十分後のことだ。
その死体こそが、今年の冬、ソーホーのセイント・アンズとセイント・ジェームズで連続して起こる猟奇殺人の最初の被害者だと知るものは、現時点では誰も居ない。
そして、彼等が何をされてしまったのかを知る者も――。
海だけが、恐ろしいほどに凪いでいた。
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