Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

15

公開日時: 2020年9月21日(月) 18:00
文字数:2,234

 階段を降り、玄関ホールを横切ると、立派な樫の扉があった。ウィリアムが恐ろしいほど正確な間隔でノックをすると、執事らしい老人が、中から扉を開いてくれる。


「おはようございます、お嬢様」


「はい、あの……、おはようございます」


 礼儀正しく述べられた挨拶に、メアリは少し慌ててしまう。こんな立派な大人にお嬢様と呼ばれることなど、今までの人生で一度もなかったからだ。


 教授の家は大きいし、数名の使用人もいるらしい。馬車を所有出来るということは、それだけで最低でも七百五十磅ポンド以上の年収があることを意味している。中流階級の年収はおおよそ三百磅であるから、馬車を持てるのは、上流階級か一部の上層中流階級アッパー・ミドルではないと不可能だ。馬車もそうだが、家を見ても、教授は相当裕福らしい。


 そんな家に引き取られたら、確かに貧民街育ちの孤児でも一晩で『お嬢様』になってしまう。なんだか後ろめたいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになるのは、メアリが自分は淑女ではないと、はっきり知っているからだ。


 居間の中央には、綺麗なクロスの敷かれたテーブルが置いてある。そこには既に教授が着席しており、新聞を読んでいた。どうやら高級紙であるタイムズ紙のようだ。メアリに気付くと、教授は読んでいた新聞をテーブルの上に置き、静かに言った。


「おはよう、ジズ嬢。よく眠れたかね?」


「おはようございます。おかげでぐっすり休めました」


 丁寧にメアリが挨拶をすると、教授が僅かに目を細めて頷いた。闇色の声のまま、それでも優しい風に言う。


「とりあえず着席したまえ。堅苦しい挨拶は不要だ。朝食にしよう」


 教授の言葉に従ってテーブルに着くメアリへ、ウィリアムが椅子を引いてくれた。淑女のような扱いをされたのは初めてなので、メアリは少し緊張してしまう。


 完璧な深さと距離で座れるように引かれた椅子に腰を下ろすと、テーブルに置かれた新聞に赤いインクで丸が描かれているのが見えた。メアリは反射的にその記事を読んでしまう。


 記事には、ソーホーのセイント・アンズで殺人事件が起こったと記されている。軽く流し読みをした限りでは、中流階級の多く住む比較的治安の良いセイント・アンズにて、猟奇的な殺人事件が起こったこと、遺体からは内臓が抜かれていたため、怪しい儀式に使われたのか、或いは医学的知識ある者の犯行に違いない事などが書かれていた。一方で、切り裂きジャックの帰還と称する文もある。余程死体が陰惨な有様だったに違いない。


 凄惨な内容に思わず眉を顰めたメアリに気がついて、ウィリアムが新聞を片付ける。教授が相変わらずの無感情な声で言った。

「最近は物騒な事件が続いていてな。セイント・アンズのように治安の良い地域でも、そういった犯罪が起きている。フィッツロヴィアの治安のよさは折り紙付きだが、しかし、犯人が捕まるまでは、決して一人で出かけてはならん。必ず誰かと一緒に行動したまえ」


 無感情な声ではあるが、それでもメアリのことを案じてくれているのだろう。メアリが素直に頷くと、教授も一つ頷いた。


 暫くして、メイドが朝のお茶を運んでくる。少し濃いめなのは、朝用の為だろう。添えられたミルクもたっぷりだ。


 メイドは相も変わらず、足音を立てることなく、静かに無言で仕事を行う。年齢は若いようなのに、不思議なほどに落ち着いていて、作業もまた完璧だった。台所からも私語を話す声も聞こえないし、倫敦の洗練された家の使用人というのは、こういうものであるのかと感心する。


 メアリが感心している間にも朝食の準備は進んでいく。


 各々の前に置かれたトースト立てには、ママレードとバターの壺と一緒に、紙のように薄く、かつ半分に切られた食パンが四切れ乗っている。完璧な薄さ、という奴だ。


 メインの皿にはカリカリに焼かれたベーコンと少しの蒸し野菜、そしてふわふわのスクランブル・エッグが乗っていて、出来たてのように湯気を立てていた。絵に描いたようなイングリッシュ・ブレックファーストというやつである。


 この家では食前の神への祈りはないらしい。教授もウィリアムも、静かに朝食を口に運んでいる。


 メアリもそれに習い、トーストを手に取った。


 バターを塗ったトーストに、ママレードをたっぷりと山のように盛る。


 カラントケーキやポリッジではない朝食なんて、一体どれくらいぶりだろう。英国では、朝食のパンは主食ではない。強いて言うなら、ジャムを載せて食べる台だった。だから、紙のように薄いのだし、且つ、口の幅と同じサイズに切ってある。


 一口食べて、驚いた。バターはしっかりバターだし、ママレードも酸味と甘みのバランスが上品だ。安物のマーガリンさえ殆ど口には出来なかったメアリは、本物のバターの味に感動さえしてしまう。

 英国の食事は概ね、味が濃いか、全くないか、の二つに一つだ。中間は、ほぼない。添えられた野菜も、蒸しすぎて食感テクスチャーが全くないのが普通なのに、この家では全く異なる。


 普通のベーコンはまずからすぎるし、スクランブル・エッグには卵の味以外は一切しない筈なのに、ここでは完璧な味付けだった。鹹くないベーコン、味付けのされたスクランブル・エッグというものがこんなに美味しいとは知らなかったし、更に、ママレードとバターのパンとの相性も抜群だ。


 教授やウィリアムは特に表情も変えずに食べているが、こんなに美味しい食事を取っても無表情でいられるというのは凄いと思う。メアリなど、一口食べるごとになんだか不思議な笑いが浮かんで仕方が無かった。

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