蟻の這い出る隙間もないほど完璧な包囲陣を見て、紳士が至極愉快そうに言った。
「あらららら。随分と物々しいね。ひい、ふう、みい……。キミの言うとおり、ちゃんと十二人居るね。しかも笑っちゃうくらいに正統派のごろつきで無頼っぽい。米国や濠太剌利にだって、こんな古典的な連中はいないよ。ギャングとかマフィアはやっぱり格好いいんだねぇ。うん、さすがは大英帝国だ。彼等はやっぱり私達を狙ってるのかな?」
楽しくて仕方がない様子の紳士へ、青年がうんざりしたように言う。
「夜中にそんな金持ち丸出しの格好でこんな場所をうろついていたら、襲ってくれと言っているようなものだろう。全くあんたは何もかもわかっていて、そうしてこれからどうなるかも理解した上で、そう言うんだ。付き合わされる俺の身にもなってみろ」
青年の発する心底嫌そうな言葉を聞いて、さも心外そうに紳士が答える。
「いやいやいや、それはね、誤解ってもんだよ。今回に限っては、私は普通に荷物の確認の為だけにここに来たんだ。まぁ、こういうこともあるだろうな~って今、一瞬だけ思ったのは否めないけどさ、わざとじゃないよ」
「今回に限っては、か」
目深に被ったケンブリッジ・ハットの下で、青年が呆れたように呟いた。紳士は相変わらずの上機嫌で、包囲を狭めるごろつき共を畏れもせず、寧ろ嬉しそうに見つめている。
「しかし、幸先が良いね。墓掘り人夫の手配をどうしようかって思ってたけど、向こうから来てくれた。役に立ちそうなのは何人くらいいるかな? 日本で手に入れた例の技術を試せる良い機会だ」
青年は黙りこくって何も答えない。すっかりと会話に倦んだようで、答える気さえないようだ。
そうこうしているうちに、完全に周囲を包囲したごろつきの輪から、下卑た笑みを浮かべた男が歩み出た。この集団の頭のようだ。ナイフをちらつかせるようにして言った。
「おやおや、迷子にでもなりましたかな、旦那様。こんな所、あんたみたいな紳士が来るような場所じゃアありやせんぜ。こんな人目につかない路地裏で、うっかり足でも滑らせて海に落っこっちたって、誰も探しにゃ来ませんからな」
水夫らしい、濠太剌利訛りの強い英語だ。冗談めいた台詞には殺意がはっきりと表れていて、完全に鼠が猫をいたぶるような悪趣味さが滲んでいる。さっさと襲って殺してしまえば良いものを、こうして被害者の恐怖を煽って楽しんでいるのだ。上流階級に対する労働者階級の鬱屈は、こんな所にも現れる。
しかし、紳士には、そんな不穏な気配にも一向に物怖じする気配がない。にこにこしながら陽気に言った。
「ああ、ご忠告痛み入るよ。別に迷子ってわけでもないんだけど、そう見えちゃうなら仕方ないなぁ。私は泳ぎは苦手だから、海に近づくのは止めておこうか」
脅えの色さえも見せず、いけしゃあしゃあと言ってのける紳士に送られたのはごろつきどもの嘲笑だ。精一杯の虚勢を張っているというよりも、心底脳天気な愚か者だと思われたようだ。頭らしい男がにやつきながら言った。
「その重そうな荷物と、高級そうなステッキを置いていけば、まぁ泳ぎやすくはなるんじゃないですかい? 寒中水泳は体に良いそうですぜ、旦那。手伝いますから、試してみては?」
男の合図で包囲の輪が一気に狭まる。ナイフを持った男が進み出て、紳士に向かってナイフを振りかぶった。暴漢の手が躰にかかる寸前であっても、紳士は顔色一つ変えることなく、ただ陽気に笑うのみだ。
振りかぶられたナイフが、真っ直ぐその胸に突き立てられる寸前になって、漸く青年が動いた。旅行鞄から片手を離すと、まるで猫の子にするように紳士の首根っこをひっつかみ、ひょいと後ろに放り投げる。ナイフが突き刺さるぎりぎりで、紳士の躰は一応の安全圏に移動した。
ナイフを持った男は蹈鞴を踏んで、危うくバランスを崩しかける。どっと周囲から嘲笑が上がった。
「この野郎、ふざけやがって……!」
仲間の前で恥を搔かされたと思ったのか、男は今度は青年に向かってナイフを振り上げる。手慣れているのか、殺人に何の躊躇もない動作だ。
青年は確かに長身ではあったが、しかし、雲を突くような大男でも、ヘラクレスのような筋骨隆々の体つきでもない。若者らしいすらっとした体躯で、余程ごろつき達の方が体格が良いだろう。誰しも次の瞬間には、刺されて血を撒き散らす彼の姿を想像する。
しかし、血は一滴も出なかった。
青年は最小限の動きでナイフを避けると、男の目の前に、指を鳴らす直前の形を取った右手を向ける。
パキン、と小気味良い音が鳴った瞬間、見えない何かに突き飛ばされたように、ナイフの男が吹き飛んだ。
ゴッと鈍い音がして、男の後頭部が石畳に激突する音がする。周囲にいた男達がざわめいた。
ナイフの男の鼻からは、大量の鼻血が吹き出している。びくびくと痙攣し、明らかに尋常な様子ではない。
青年は、男の体には指一本触れていない筈だった。単に目の前で指を鳴らしただけなのに、それなのに、男はこの有様だ。背筋の凍るような空気が流れる。
戦慄する空気を破ったのは、妙に場違いな、あの紳士の陽気な声だ。
「あ~あ、勿体ない。ほんとにキミは変なところでお人好しだねぇ。折角の部品がぐちゃぐちゃだ、これじゃあもう、燃料くらいにしか使えやしない。まったく、私としたことが、キミの性格を、すっかり失念していたよ」
陽気ながらも子供のように膨れてみせる紳士に、青年は何も言わなかった。それとは真逆に、紳士が芝居がかった様子で言う。
「次からは、殺しちゃだめだよ? 達磨は良いけど、頭はちゃあんと綺麗に残しておくようにね。これはねぇ、命令だ」
冗談のように告げられた物騒な言葉にも、青年は何も答えない。代わりにごろつき共に言う。
「……そういうわけだ。生きながら地獄に堕ちたくなかったら、今のうちに疾く去れ」
不機嫌極まりない声だったが、そこには紛れもない忠告の色が滲んでいた。しかし、ごろつき共は、それに気付かない。仲間が死んだことにより、頭に血が上ってしまっているからだ。面子を傷つけられたという思いもある。
妙な技で、一人があっけなく殺されたとしても、それは対一でのことだ。残りの十一人で一斉に遅いかかれば、あっという間に事は終わる。いつものようにすればいいのだ。
青年の忠告を無視し、今度は一斉に襲いかかるごろつき達の群れに、紳士は心底嬉しそうに笑みを浮かべた。ラテン語の句を小さく呟く。
「――我等は危害を加える力を持っている(Ad nocendum potentes sumus.)。そして地獄は地獄を呼ぶ(Abyssus abyssum invocat.)」
とても優しい声だった。先刻の上機嫌な声でもなく、また猫なで声ともまた違う、日だまりのような声。それは、紛れもなく慈愛に満ちた声である。
青年が、改めて不機嫌な溜息をつくのと、彼が地面に置いていた旅行鞄が『内側から』開くのとは、ほぼ同時だった。そこから飛び出したものに、ごろつき達は気づけただろうか。
妙に禍々しい絃管の音が響くのと、魂消るような絶叫が倉庫群の壁に木霊したのは、それから一瞬後の事だった。
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