「わかった。では、やろう」
「何をすれば良いんですか?」
「計算を」
短く言うと、ウィリアムは自分のトランクの留め具を外す。流れるような動作で蓋を開けると、中には、銃身だけでも十二吋はあろうかという巨大な銃が一丁と、二吋程の大きさの銃弾が数発、綺麗に収められているのが見えた。
装飾の類いは一切無く、メーカーやブランド名さえ刻まれていないその銃は、青みを帯びた銀色をしている。四角いような銃身と、無骨なまでのリボルバーは、どこまでもシンプルだった。
「綺麗……」
思わずメアリが呟くと、ウィリアムが無感情な声で言う。
「護身用にと、念のために預かっていた物だけれど、まさか、使う機会があるとは思わなかった」
なんとなく、うんざりしたような雰囲気がある。使わずに済むならその方が良かったと、隠しもしない風だった。
「この銃で、どうやって火を消すんですか? こんな大火事なのに……」
機能美に満ちた銃だったが、消火器にはどうにも見えない。メアリが訊くと、ウィリアムはトランクから取り出した薬莢をシリンダーに押し込みながら、あっさりと告げた。
「音というのは、物の振動が空気などを伝わって、聴覚で感じられるものの事だ。だからその空気の振動で、これらの火を消す」
「そんなことが、出来るんですか!?」
メアリの問いに、ウィリアムは静かに頷いた。
「理論上はね。火というものはただ燃料と熱源があれば燃えるというものではない。更に空気中の酸素、それに空気が循環して燃料と酸素が良く混ざる事、この要素が必要となる。普通は水で直接火を消したり、二酸化炭素で酸素の供給を絶ったりという方法で火を消すんだけれど、音の場合は火が燃え続けるのに必要な部分に作用するんだ」
そういうと、ウィリアムは改めてメアリに視線を投げた。なんだか少し、躊躇うような風に思える。
「さっきも言ったとおり、音は空気の振動だ。だから強力な音で強力な空気の振動を発生させ、火全体を強く揺さぶることでこの流れを乱し、不安定にさせることで『燃え続けること』を邪魔して火を消す。これならば、これだけ広範囲の火事であっても消す事が可能だろう」
メアリも、それは知っている。見世物小屋でソプラノ歌手がグラスを割ったり、低音のバス歌手が蝋燭を立てたコップに向かって歌うことで火を消してみせる、という出し物があるが、その事だ。大道芸人のあの魔法のような芸当を思い出しながら、メアリが訊く。
「でも、音で火を消すって、確か、低い音で、それも長時間当て続けなければ、巧く空気の振動を止められない筈では……」
一瞬だけの銃声では、絶対に無理だと思う。果たしてウィリアムも頷いた。
「そうだね。銃声だけでは無理だろう。しかし、ここには幾本かの気送管のパイプがある。これを使えば、多分、僕と君なら、きっとなんとかできると思う」
そう言うと、ウィリアムは銃身で手近にあったパイプを軽く叩いた。唸るような低い音が周囲に満ちる。鋼特有の灰色を纏った数字は八九、九七六四。かなり低い音だった。
「君には何ヘルツの低周波を出せば良いかという事も含めて、それを炎にどういう距離とタイミングで当てるかという事を計算してもらいたい。共鳴させて低周波を発生させるためには、タイミングや着弾の位置は勿論、複数の弾丸を使うことになるだろうけれど、今の手持ちは、ここにある六発しかない。しかも、周囲には普通の鉄製パイプも張り巡らされているから、そこからの共鳴音も総て計算しなくてはならなくなる。タイミングに関しては、君から僕に伝達する時間の誤差も考慮しなくてはならないから、本当に桁違いの計算力が必要になるんだ」
確かに、同時に並行して幾つもの計算をこなさねばならない以上、この作戦に関しては計算手が必須であろう。
「でも、その答えを導くためにはどういう式で計算すれば良いんですか? 私は数学や物理学には明るくないので、方程式や公式も解らないんです」
戸惑うように尋ねるメアリに、ウィリアムはまったく動じた様子もなく言った。
「式は僕が君に伝える。君は僕の言葉を聞くだけでいい。そうすれば、勝手に君の脳は計算を開始する。計算手というのはそう言うものだ。選んだ未来へ辿り着く方法を無意識に探し当てる」
銀の声は真実しか告げていなかった。納得させるためと言うよりも、当たり前という気配が強い。
確かにメアリの場合、計算時に於ける思考は自分の思い通りにならない、ある意味で天啓のようなものである。だから、ウィリアムの言うこともなんとなくは理解できた。しかし、一方で、それが巧く発動するかの不安も強い。というよりも、何ヘルツの低周波を出せば良いのかの回答もないわけで、ある意味で途轍もない無理難題をふっかけられているような物だ。そもそもデータが少なすぎる。
しかしメアリは、その無理難題を提示してきたウィリアムへとはっきり頷いた。出来るかどうかを思い悩む時間も今は惜しい。ウィリアムが出来ると言うのなら、自分はそれを信じるだけだ。
「……わかりました。やります」
やってみます、ではなく、やりますと断言した。それは自信があるからだとか、そういうことでは全くない。やらねばならないのだから、やるしかないのだ。
メアリが計算せねばならない事柄は多岐に渡る。共鳴させる距離や角度もそうだが、音は摂氏十五度の空気中では毎秒約三百四十メートルで進むから、火事によって高温になっているこの場所では、低周波が伝わる速度さえ変わるだろう。
だが、今のメアリには、それらの数字がすべて見える。ウィリアムが式を伝えてくれるというのなら、特には問題ないはずだった。
唯一の問題は、それら総ての状況をどうやってウィリアムに伝えれば良いのだろうかということだ。ウィリアムも言っていたが、状況は刻一刻と変わっていく。それらを予測できるとして、精々が一分乃至二分先くらいだろう。計算の解を『喋って』伝えてしまっては、絶対に間に合わない。
微かに躊躇うメアリに、ウィリアムは低く告げる。
「君がどんな伝え方をしても、僕はそれを理解する。君の言葉は必ず僕に届くから、君も僕を信じて欲しい」
銀の声は、相も変わらず、ただ事実だけを真っ直ぐに伝えてくる。
まったく何の説明にもなっていないが、それでもメアリは頷いた。何故だかわからないが、自分はウィリアムが信じられると『知っている』。彼がそう言うのだから、自分はそれを信じるだけだ。
伝えるための方法だって、きっと自分は計算できる。
覚悟を決めたメアリに、ウィリアムが小さく囁く。
「ごめん、君に僕の式を正確に伝える為には、こうしなければならないんだ」
そういうと、ウィリアムはメアリを抱き寄せ、前髪を掻き上げた。露わになったメアリの額に優しく唇を寄せる。
そのまま額にキスをされた。
本来ならば仰天して然るべき事ではあるが、しかし、それより早く、メアリは頭の中に直接ウィリアムの声が響くのを感じる。
The Sea of Faith
Was once, too, at the full, and round earth's shore
Lay like the folds of a bright girdle furl'd.
But now I only hear
Its melancholy, long, withdrawing roar,
Retreating, to the breath
Of the night-wind, down the vast edges drear
And naked shingles of the world.
それは、何かの詩のような言葉だった。けれど、それが心に響いた途端、メアリの中に計算すべきイメージが勝手に組み上がっていくのがわかる。
そこでメアリは、ウィリアムの声が纏う数字こそが、計算すべき式なのだと初めて気付いた。声の僅かな変化でも、纏う数字は大きく変わる。なるほど、確かにこうしなければ、微妙な音は伝えられまい。メアリは必死になって彼の声を聞き続ける。一言も聞き漏らすまいと、そう思う。
ウィリアムの唇が額から離れるのと、メアリが断言するのとは、ほぼ同時の事だった。
「わかりました、大丈夫です! ウィリアムさんの言葉は、ちゃんと私に届きました」
その言葉に、ウィリアムも静かに頷く。抱き寄せていた手を解き、メアリの体を解放する。
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