魔女狩りというのは、十三世紀から十八世紀にかけて、欧羅巴の諸国家と教会が、魔女として告発された人間を宗教裁判にかけ、多くを火刑に処したことだ。魔女として密告された人間が無罪を得る可能性は零に等しく、更には冤罪が九割を締めていたという。医者でもないのに病気を治したからだとか、異邦人に親切にしたからだとか、そんな理由で処刑された者までいるほどだ。西洋の暗部というか恥部だろう。
「ジェイムズ一世は文人王として名高い。彼の著作には煙草排斥論や、王権神授説の本があるが、尤も影響力があったのは悪魔学の本だ」
「悪魔学……」
ウィリアムの言葉に、ほんの少しメアリが首を傾げた。悪魔についての本が何故そんな影響力があるのだろう。ウィリアムは相変わらずの銀色の声で完璧に解説をしてくれる。
「当時の国王の権力は、今の英国を遙かに上回る。そんな人物の書いた本だ、誰も異議を唱えることなど出来はしない。彼は著作で、悪魔や魔女がどんな悪事を働いているかを列挙し、魔女狩りの重要性を説いた。魔女取締法を厳罰化し、以前は終身刑で命を取られることまではなかった魔女を、すべて死刑にするとしたんだ。魔女狩りによって失われた叡智は計り知れない。実際、彼によって魔女の疑いをかけられた村は、一晩で皆殺しにされたそうだよ。キリスト教ではなく、村独自の古い信仰を持っていた、それだけの理由で彼等は老若男女すべてが殺されてしまったらしい。そのせいで、今の僕らは、その村が持っていた神話やそれに基づく生活がどんなものだったかを知ることは二度と出来ない。土着の神の名前や、伝承も何もかも失われてしまった」
貸し出しカウンターの列が前へ移動するのに付いていきながら、メアリはウィリアムの話を黙って聞く。
「文化を殺すのは常に時の権力者だ。理解できないから、気に入らないから、従わないから、或いはただの気まぐれで、彼等は異分子を排除する。そのせいで失われた技術は計り知れない。古代中国では、皇帝が学問・思想弾圧の手段と焚書坑儒を行ったし、欧羅巴でも法王や教皇が異端と称して、聖書の内容に反する真実をすべて排斥した。その中には様々な病の治療法があったそうだし、伝承が本物ならば、土から生み出されたゴーレムだとか、生まれながらにこの世のすべての知識を持つ瓶の中の小人、更には空を行く船もあったそうだ。しかし、それらはすべて失われた知識だ。有史以来、どれだけのものがこの世界から失われてしまったか計り知れない。失われたものは永遠に戻らない。それを知っているのに、指をくわえて見ていなければならないのは、きっととても辛いことなのだろう」
淡々と語るウィリアムではあるが、しかし、その説明はなんだかとても腑に落ちた。かつて素晴らしい技術を持ち、平和な生活を営んでいた者達が、理不尽な暴力ですべてを失い、そうして消えていく。彼等の名残は何処にもない。魔法と思われたその素晴らしい技術も途絶えてしまった。
ガイ・フォークス達は、その理不尽な暴力に対抗しようとして、処刑台の露と消えたのだろうか。特に深く考えたことはなかったが、そう思えば彼の人形を引きずり回して燃やす祭りは、なんだか胸に迫るものがある。
「あの方は、そういったことを悔やんでいたのでしょうか」
先ほどの老紳士の言葉を思い出しながら呟くメアリに、ウィリアムが静かに言った。
「それは僕にはわからない。人の悔いは様々だから」
相変わらずの銀の声は、しかし、何処か物思いに耽るようでもある。この青年にも何か悔いがあるのだろうかとふと思ったが、そもそも悔いの無い人間なんているわけがない。
メアリは自分の考えに苦笑して、列の移動に付いていく。
ようやく自分の番が回ってきたときには、並び始めてから五分以上が経っていた。カウンターに本を置き、手続きをして貰う。ウィリアムは、メアリがどんな本を借りようが全く興味が無いようで、カウンターに置かれた新しく入荷した本のリストを手にとって眺めている。先ほどの口ぶりでは、ウィリアムも本をよく読むらしい。この人は、どんな本が好きなのだろうかと、ぼんやり思った。
貸し出し手続きが終わるまで、メアリは少し辺りを見回す。こんなにたくさんの本をメアリは見たことが無い。すべて読み切るには、何年くらいかかるのだろうか。
ふと、メアリは、足下から奇妙な色を纏った数字が、ふわっと浮いてくるのを目撃する。暗い虹のような、定まらない色だ。数字は九三、一一四。教会の鐘の音よりももっと低い。何か細かい振動が、足の裏から伝わるようだ。
これは一体何だろうと、床へ目を凝らした瞬間である。いきなりウィリアムがメアリを攫うように抱き上げて、鋭く言った。
「耳を塞いで、口を開けて」
銀の声が鋭く瞬き、数字もかなり跳ね上がる。横抱きにされたメアリは、思わず彼の言うとおりにしてしまう。どうしたのかと、訊く事も出来なかった。ウィリアムはメアリを抱き上げたまま、トランクを二階の方へ蹴り上げて、そのまま自身も壁を一気に駆け上がる。
唖然としたのは一瞬だった。
床下で、ちかっと光が瞬いた。一拍おいて、いきなり床が爆発する。先刻までメアリがいた場所よりは遠かったが、しかし、部屋の中央から火柱が上がり、床板が吹き飛んだ。トランクの落ちた中二階の本棚用の回廊に着地したウィリアムが、メアリを庇うように覆い被さる。
一瞬後、轟という凄まじい爆風が押し寄せた。
凄まじい爆音だった。耳を塞いでいたにもかかわらず、きーんと耳鳴りがするほどだ。
爆音とほぼ同時に、何か大きい物が凄い勢いで吹き飛んでくるが、ウィリアムに庇われているおかげで、メアリには何一つぶつからなかった。爆風のすさまじさに思わず目を閉じてしまったせいで、周囲を確認することさえ出来ない。ただ、空気に、潮の香りと、燐寸の臭いを酷く濃くしたような臭気が混じっているのはよくわかった。
一階にいた人々の悲鳴が聞こえる。思わずそちらを見てしまったメアリは、あまりの惨状に息を呑む。床下にぽっかりと穴が空き、そこからは紅蓮の炎が上がっている。何人かが落下したらしく、床下から凄まじい悲鳴が上がった。聖書で読んだ煉獄のようだ。
地下には閉架書庫があるはずだった。つまりはそこで火事か何かがあったのだろうか。そこまで考え、メアリは先刻のガイ・フォークスの話を連想する。
火事ではない、爆発だ。これはきっと地下書庫に、爆発物が何かが仕掛けられていたに違いないと、何故かメアリはそう『確信』する。
丁度中央に炎を吹き上げる巨大な穴が空いたせいで、真ん中より奥にいた人間は逃げ場がないようだった。吹き上がる炎に本が燃やされ、高音の中を右往左往している。
しかし、それだけでは終わらなかった。今度は、書籍販売部の方から爆音がして、火の手が上がる。書籍販売コーナーにいる人間は、ここの比ではない。あちこちで沢山の悲鳴が聞こえてくる。
ウィリアム越しに、西側の本棚が烈しく燃えているのが見えた。オレンジ色の火は、本棚を舐めるようにどんどん燃え広がっていく。爆発に巻きこまれた人々が倒れている床にまで火は燃え移っていくようだ。気送管が壊れ、大量の圧縮空気が漏れて風のような音がする。それに煽られ、火は見る間に燃え広がっていくようだった。
「何、何なの? 火事?」
「消火器は!? 早く火を消せ、水を持ってこい!」
「熱い、痛い……!! 助けて……!」
従業員や客達の、悲鳴のような声が聞こえる。メアリのいる場所にも、紙や木が燃える焦臭い臭いが漂ってきていた。炎こそまだ届かないが、吹き上げる熱風に息が詰まりそうになる。
「ウィリアムさん、これは一体……」
冷静に考えれば、ウィリアムに訊いたところで、詳細がわかるわけがないのだが、それでも思わず訊いてしまう。案の定、ウィリアムも静かに首を横に振る。
「わからない。ただ、ここにいたら、君が危ない。ここから出よう」
そう言うと、ウィリアムは外套を脱いで、メアリに頭から被せた。背の高いウィリアムの外套は、小柄なメアリをすっぽり覆う。ウィリアムはそのまま、メアリの体を右手だけで抱き上げた。蹴り上げたトランクを左手で掴むと、周囲を見回す。
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