マグカップの中身は、ミルクのたっぷり入ったココアだった。一口飲むと、ほどよい甘さと暖かさで、少し強張っていたらしい体が解れるようだ。焼き菓子も上品な甘さで、バターの香りがとても好い。それらに癒やされ、メアリは、ほっと安堵にも似た溜息をつく。
〈読書ってのは案外頭を使うからナァ。適度な休憩と息抜き、っちうのは必要さね〉
ウィリアムが持ち歩いていたトランクから、くぐもったビリーの声がする。メアリは見えないことは百も承知で、トランクに向かってにこっと笑った。
「ビリーさん。ずっと黙っていらっしゃるので、お休みかと思っていました」
〈俺だってTPOくらい弁えてるぜ? それに、あんまり悪戯が過ぎると、またウィルにコード五で停止させられる。それだけは御免だ〉
「コード五?」
〈この唐変木はな、俺の起動コードや終了コードに、マシュー・アーノルドの詩をぶっこんでるんだ。マシュー・アーノルドの詩は大体暗いが、コード五は特に暗い。そんなもんで眠らされたら、夢見が悪くてたまったもんじゃねぇや〉
メアリはマシュー・アーノルドの詩を良くは知らないが、そんなに暗かったろうかと思う。昨日、屋根の上でウィリアムが呟いていた詩は、ドーヴァー海岸の情景を語ったものだった。その事をビリーに告げると、銃は、トランクの中でせせら笑う。
〈『ドーヴァー海岸』かァ。そう聞こえるのは最初だけだよ。全部聞いたら、まぁ、そうは思わねェだろうさ〉
そもそも『真理は瀕死の人の唇から漏れる』なんて格言を残すような奴が明るいわけがねぇ、と続けると、ビリーはトランク越しにメアリに言った。
〈付き合うなら陽気な奴がいいけどよ、まぁ陽気な奴は嘘つきも多いからナァ。相棒にはまぁ向かないな。相棒ってのはな、暗いか、正直な奴かのどっちかがいい。陽気で嘘つきな野郎に自分の背中を預ける気には、少なくとも俺はならねぇ。心なら猶更だぜ?〉
「心?」
メアリの問いに、ビリーは嗤ったようだった。まるで教えを与えるように言う。
〈まァだ嬢ちゃんには早かったかな? まぁいいか、じゃあ、他の事を教えてやる。よーく覚えとけよ、嬢ちゃん〉
「はい」
〈これからな、どんなことがあろうとも、傍に決して裏切らねぇ奴がいる、ってだけで、それだけで人生はある程度救われちまうんだ。俺もウィルも、絶対に嬢ちゃんを裏切らねぇ。だから、それだけは信じていいぜ〉
珍しく真面目な口調でビリーは言った。メアリは神妙にその言葉を聞いている。ウィリアムは表情一つ変えることなく、メアリの向かいのソファーに座り、黙って二人の話を聞いているようだ。殊更にビリーに同調しない点で、余計に信用できる、と、そう思った。
ウィリアムが口を挟まないことに気を良くしたらしいビリーが、更に続ける。
〈ウィルは無愛想な唐変木で気が利かねえ朴念仁で、しかも頑固な分からず屋だ。だから、あんな詩が好きなんだけどよゥ。まったく嬢ちゃんも大変だなぁ、こんな奴に惚れら……〉
ビリーの言葉は、最後まで発せられることはなかった。ウィリアムが小声で何かを呟いたからである。
「……我々は今と同様に満たされず、渇望の苦しみを感じ、生の神髄を求める言語に絶した願望が永遠に挫かれるのを感じるだろう。而も依然として思考や精神は当て処の無い旅へと我々を急き立てるのだ」
それは、まるで詩のような言葉の連なりだと思った。その途端、トランクの中の銃は沈黙し、何も語ることはなくなってしまう。
「ビリーさん?」
心配そうにビリーを呼ぶメアリに、ウィリアムが淡々と無感情に言う。
「今のがコード五だ。『エトナ山上のエンペドクレス』の一節だよ」
なるほど、確かに陰鬱で辛そうな詩だと思った。ビリーが嫌うのもわかるのだが、しかし、何故、急にウィリアムがその詩を呟いたのだろう。その疑問を口にするより早く、ウィリアムが言った。
「昨日から、ビリーはだいぶん君に無礼だ。僕に悪態をつくのは構わないが、他者にまで馴れ馴れしいのはあまり良くない」
だから二時間ほど機能停止させた、という言葉は、普段より心なしか早口だった。とはいえ、銀の声とその数字は殆ど変わることはない。メアリはそれには全く気がつかなかったが、ただ、なんとなく違和感を覚える。
しかし、それを指摘することはしなかった。
ほんの少し困ったように、ウィリアムに言う。
「あの、あんまりビリーさんを叱らないであげて下さいね。きっと、私が退屈しないように、色々話し相手になって下さっているのですから……」
その言葉に、ウィリアムは特に表情を変えるでもなく頷いた。
気を悪くしたかも知れないと思ったが、その表情からは何も読み取れない。完全なポーカーフェイスだ。この青年は、さぞやトランプが巧いに違いない。メアリは話題を変えるべく、一つ尋ねる。
「さっきの詩……『エトナ山上のエンペドクレス』は、一体何を詠っているんですか? なんだか、すごく切実な感じがします」
ウィリアムの呟く詩は、昨日の『ドーヴァー海岸』もそうであるが、いずれも何処か切実な気がする。なんだか、世の中を達観して突き放しているようでありながらも、どこかで救いを欲しているような、そんな祈りにも似た詩に聞こえるのだ。
メアリの問いに、ウィリアムが無感情な声で言う。
「エンペドクレスは、古代希臘の哲学者であり、生理学者であり、そして宗教の教師であり、弁論術の創始者でもあった人間だ。エンペドクレスで最も有名なものは、四元素説だろう」
「四元素説? アリストテレスの唱えた、すべてのものは、火、風、水、地で構成される、という考え方でしょうか」
アリストテレスが唱えた元素説は、これに第五の元素、エーテルが加わると、確かこの間読んだ科学の本に書いてあった。それを思い出しながら尋ねると、ウィリアムが微かに首を振る。
「アリストテレスのものとは少し違うかな。エンペドクレスは、宇宙は複数の元素――ターレスの水、ヘラクレイトスの火、アナクシメネスの空気、クセノファネスの土で出来ているという考えに至り、更に、四元素を結合・分離させる二つの活動原理、愛と憎を考えた。愛は様々な物質中の元素を結合させる原理で、憎はその逆だ」
「愛と憎……」
それは、なんだか科学とは遠く離れた単語だとメアリは思う。エンペドクレスは古代希臘の宗教の教師という事だから、どうしてもそういう考えに辿り着くものなのかも知れない。
「伝承では、エンペドクレスは霊魂の再来を信じていて、自らを神聖なる存在だと主張した。それを証明するために、エトナ山の火口に身を投じたと言われた人物だ。マシュー・アーノルドの『エトナ山上のエンペドクレス』は、それに至る過程の詩だよ」
そう告げるウィリアムの口調は相変わらず淡々としている。しかし、メアリは、何か引っかかるようなものを感じて思わず言った。
「その人を謳う詩にしては、さっきの詩は、なんだか、とても、ひしひしとした、そういうものがあるように思えます」
何気無しのメアリの問いに、ウィリアムがほんの僅かに遠くを見るように言った。
「そうだろうね。マシュー・アーノルドは、この詩の中でエンペドクレスを『知性の追求の果てに感情を枯渇させてしまった思想の奴隷』として描いている。マシュー・アーノルドは詩人であった自分を捨てて、後に批評家に転身しているのだけれど、彼もまた、知的解放の代償として、神への信仰を失う事に苦悩していたそうだ。『ドーヴァー海岸』も、失われた信仰への哀惜の詩だという。知恵と神への信仰は相反するものだというから、だからこそ、マシュー・アーノルドは、後に『エトナ山上のエンペドクレス』を自分の詩集から削ったのだろう」
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