Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

23

公開日時: 2020年9月29日(火) 18:00
文字数:2,980

 オックスフォード・ストリートは、大きな店でいっぱいだった。ここに店を出せるというのは一流の証でもあるから、ショウウインドウは何処までも華やかでぴかぴかだ。外国からの観光客も多いようで、人通りも多かった。ウィリアムはメアリを歩道に寄せて、人混みから庇ってくれる。


 軒を連ねる店のショウウインドウが、雑貨や日用品に変わった辺りがニュー・オックスフォード・ストリートであるらしい。先ほどの華やかさと打って変わり、この通りは生活感に溢れていた。倫敦大学も近いせいか、学生と思しき若者の姿も多い。


 オックスフォード・ストリートでは浮き気味だった二人の姿も、ここでは巧く溶け込めているようだ。


 ミューディーズの本店は、以前に教授が言っていたように、ミュージアム・ストリートとニュー・オックスフォード・ストリートの角に位置していた。大英博物館とも近いようだが、この辺りは通ったことがない。


 本店だけあって、直ぐ脇には配達用の荷馬車が止まり、従業員達が本の積み卸しをしているのが見えた。


「今日の新聞広告に、明日入荷の本のリストが載っていた。あれは多分、出版社からの荷物だろう」


 ウィリアムの言葉に、メアリは感心してその本の山を見る。同じ本が何百冊も運ばれていくのは圧巻だった。さぞかし人気のある作家の本なのだろう。メアリの疑問は、すぐにウィリアムが解消してくれた。相変わらず、まったく色も数字もブレない声で言う。


「あれは、ジョン・H・ワトソン博士の新作だよ。彼の探偵が亡くなってからの最初の作品集だから、引っ張りだこになるのは当然だ。きっと予約も多いんだろう」


 世界一有名な諮問探偵がスイスで死亡したニュースは、イーストエンドに住んでいる頃に聞いたことがある。メアリの知り合いにも、彼の使いっ走りをしている連中がいたからだ。使いっ走りとはいえ、手に入れるのには随分危険な橋を渡らなくてはいけないような情報も多くあり、実際へまをした何人かは、翌日にはテムズ川に浮いていた。そこまでして得られる報酬は、僅か一シリングぽっちだ。


 彼の事件簿には、そんな彼等の境遇もきちんと描かれているのだろうか。書いていてくれていたら良いと思う。


 ぼんやりとそんな事を考えていると、ウィリアムが、少しばかり話題を変えるように呟いた。


「新刊で思い出したが、今年からミューディーズは三巻本スリー・デッカーズの入荷をやめて、安価な一巻本のみの入荷になるそうだ。あまり良くない傾向だと僕は思う」


「どうしてですか?」


 不思議そうにメアリが訊くと、ウィリアムがまったく表情を変えずに答えた。


「安価な本は自分でも買える。高価な本だからこそ、貸本屋を利用するんだ。ミューディーズは出版界に凄まじい影響力を持つ。これからは普通に売られる本もまた、安価な一巻本が増えるだろう。消費者的には良いことだけれど、文壇や貸本業界的にはあまり良いことではないのかも知れない、ということだよ」


 オーダーメイドと既製品の関係に似ている、と、メアリは思う。昔は靴も服もすべてオーダーメイドだった。それがミシンの発明で大量生産されるようになると、靴職人は激減し、今では上流階級専門の店が幾つか残るのみだ。良いものが安価に手に入る事は良いことだけれど、それで失われるものもあるのだと、沁々思う。


 硝子製の推し戸を一歩潜くぐると、そこは細長い玄関のような場所だった。質屋や貸本屋があえて狭い玄関を作るのには訳がある。強盗の侵入や、窃盗犯の逃走を足止めするためだ。客は確かに不便だが、金銭や品物の貸し出しをする店は何処もこうなる。


 玄関だというのに、華々しい装飾はあまりなく、僅かな隙間を気送管が縦横無尽に走っていた。入り口に取り付けられた案内板によれば、この建物は地上二階と地下一階の様式らしい。書籍販売部と貸し出しカウンターは一階で、二階は傷んだ本の修繕や、贈答品の部署と書いてある。ちなみに、地下はカタコンベと呼ばれる蔵書倉庫になっているのだが、この案内板には書かれていない。


「噂には聞いていましたが、ものすごく大きいんですね」


 書籍分類番号の検索も兼ねている案内板を見上げて、感心したようにメアリが呟く。そのまま天井を見て言った。


「それに、ガス燈ではなくて、電灯が照明代わりなのも凄いです」


 十五年ほど前にジョウゼフ・ウィルスン・スワンが発明した白熱電灯は、今や大量生産が出来るようになってはいたが、やはり高価な代物で、富裕階級の高級玩具といった認識でしかない。庶民の家にはやっぱりガス燈やオイルランプが主流であり、教授の家でさえ、書庫にしか白熱灯は設置されていなかった。そんな高価な電灯を全館に惜しみなく使えるというのは、ミューディーズがどれほどの盛況を誇っているかの証でもあろう。


 メアリの感動をどう捕らえたかは知らないが、相変わらずの調子でウィリアムが言った。


「本の天敵は、湿気と炎と日光だからね。ガス燈やオイルランプは勿論使えないし、窓だって、二階に上がる踊り場にひとつしかない」


 その言葉に、上の方を見上げると、確かにウィリアムの言うとおり、ここには窓がないようだった。二階に上がる階段の踊り場に、幅が三呎フィートにも満たない窓がひとつあるだけだ。


 それ以外の壁は、びっしりと、天上近くまで気送管や蒸気パイプで埋め尽くされているから、確かに窓を作る余裕もないだろう。

「湿気と炎はわかりますが、日光も本の天敵なんですか?」

「ああ。紙は紫外線に弱いからね」

「紫外線?」

 聞き慣れない言葉にメアリが訊き返すと、ウィリアムは少し考えるように言う。

「光を分光器で分解したときにできる色の帯があるだろう。あれは可視の光だけど、実際は目に見えない光もあるんだ。紫外線というのは、スペクトルが紫色の外側にあらわれる、目には見えない光線の事だ。波長は可視光線より短い。写真を感光させるのも、その光の作用だ」


 なんだか辞典を読み上げるような説明だった。その紫外線とやらは、写真を感光させる力で、紙を傷めてしまうのだろうか。


 ウィリアムは妙に博学で、訊いたことはすぐに答えてくれる。この青年に解らないことや苦手なことはあるのだろうかと、時々首を傾げるほどだ。


 他愛ないことを話しながら、二人は肩を並べて、吹き抜けになっている大ホールへと進む。


「わぁ……」


 ホールの戸を潜ると、まるでそこは本の王国だった。メアリは思わず感嘆の声を上げた。


 周囲の壁はすべて天井までの巨大な本棚で覆い尽くされ、枠の上を通信用の気送管が走っている。本棚にとりつけられた梯子を、従業員らしき人間が登ったり降りたりしているのが見えた。


「一階には、書籍販売部門もある。古くなったり、人気の衰えた本が格安で売られているから、いつでも満員だ」


 ウィリアムの言うとおり、ホールの向こうには、書籍販売部門と金文字で描かれたガラスの扉があった。大勢の人でごった返しているのが遠目からでもよくわかる。


 一階大ホールには巨大な半円型のカウンターがあり、それぞれA~E、F~K、L~R、S~Zの四つのセクションに分かれている。沢山の人がそれらのカウンターに列を為していた。


「会員の名前に応じて返却や貸し出し口が分かれている。先ずは会員登録をしてしまおう」


 ウィリアムが、メアリに短く説明する。そのまま、人を掻き分けるようにして、会員登録のカウンターまで連れて行ってくれた。

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