Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

51

公開日時: 2020年12月1日(火) 18:00
文字数:4,708

 終業時間にはまだ早いせいか、通路に人影は全くなかった。メアリはウィリアムの後を付いていきながら、改めて城の中をゆっくり見渡す。


 この城は、何処かどっしりとしすぎていて、元は貴族の住居だったという割に、華美な所は何もない。要塞のような、そんな雰囲気が妙に落ち着く。建てられた時代がいつ頃かはわからないが、かなり古い物であるのは確かだ。


 二人で階段を降りている最中、不意にウィリアムが足を止めた。ただウィリアムについていくことだけを考えていたメアリは、その背に思わずぶつかりかける。ウィリアムが、メアリを背後に隠すような位置に動いた。


 一体何が……と思い、そっとウィリアムの背後から前方を伺うと、赤毛の技師が階段を堂々と上がってくるのが見えた。ウィリアムを見上げると、表情こそ変わらないが、明らかに警戒している気配がよくよく伝わる。


 その気配を知ってか知らずか、二人に気付いたラーゼスが、片手を上げて近づいてきた。


「やぁ、メアリ嬢。こんな所で会うとは奇遇だな」


「こんにちは、ラーゼス技師」


 軽く膝を屈めて挨拶すると、ラーゼスが笑う。


「別に改まった挨拶は要らんよ。楽にしてくれたまえ」


 そうは言われても、ラーゼスはおそらくメアリの上司なのだ。あまり無礼な真似は出来ない。そう思っていると、ウィリアムがメアリの手を引いた。


「君がこれと話す必要は無い。行こう」


 相変わらずの無感情な声ではあるが、しかし、握られた手からは、はっきりとした憤りのようなものが伝わってくる。出会ってから、何度かウィリアムに触れたり触れられたりしているが、こうまであからさまな感情が伝わるのは初めてだった。


「つれないな、ウィル。診療台ベッドの外では途端にこれか」


 意味深なラーゼスの言葉に、ウィリアムは表情を変えぬまま、しかし言葉には露骨に嫌悪感をあらわにする。


「誤解を招くような言い方をしないでほしい。あれは、ただの検査だろう」


「確かに、なるべく痛くしないようにしてやったつもりだ。しかし初めての時の君は、随分と痛がっていた上に、終わった後も動けなかったな。あの時は随分と可愛げがあったが、しかし、真逆の今とて好ましい」


「……だから、そういう言い方は止めろ」


 表情も口調も変わらないが、確かに苛々としているように、ウィリアムがラーゼスに苦情を言う。


「誤解ってなんですか?」


 二人の会話を不思議そうに聞いていたメアリが首を傾げた。ウィリアムが、メアリの手を引いたまま言う。


「……なんでもない。行こう」


 そのまま、メアリの手を引いて、ウィリアムはラーゼスから離れた。


 すれ違い様にラーゼスが苦笑するのが聞こえる。ほんの少し、からかうような声で言った。


「全く、君の番犬は職務に些か過剰すぎるのが難だな。気をつけたまえよ、メアリ嬢。このハダリは、あのイヴとは真逆なのだ」


「ハダリ?」


 聞き覚えのない単語に首を傾げるメアリだが、ウィリアムに引っ張られて、皆まで問うことは出来なかった。ただ、ラーゼスに揶揄されたウィリアムの表情が、微かに強張っているのがわかる。


 表情は殆ど変わらないが、しかし、どこか彼が傷ついているような気がして、メアリは何も問うことが出来なかった。


 階段を降りきって、ラーゼスからある程度離れると、ウィリアムはメアリの手を漸く解放する。小さく言った。


「すまない。不躾な真似をした」


「いえ、大丈夫です」


 普段と変わらない淡々とした物言いなのに、それなのに、やっぱりウィリアムは何処か傷ついているようだった。


 心配そうに見上げるメアリに気付いたのか、ウィリアムは相変わらずの無感情な声で言う。


「……あれは、他者の劣等感をからかって遊ぶのが好きだ。だから、君から遠ざけなくてはならないと思う」


 そうは言いつつ、ウィリアムは、おそらくは自分が離れたかったのだろうとメアリは思った。この青年にも、やっぱり苦手は居るのだと言うことが、ほんの少し意外に感じる。


 確かにラーゼスはウィリアムに会う度に、なんだかからかうような節がある。ウィリアムの事を気に入っている、という証拠かも知れない。しかし、本人に悪気はないかも知れないが、からかわれる当人は嫌なものだとわかるので、メアリはこくりと頷いた。


 メアリは基本、計算しか能が無い。そういう意味で、劣等感だらけの存在でもあるが、しかし、そういうものだと割り切っているため、逆に劣等感など感じたことがないとも言える。だから、多分、ラーゼスに何を言われても平気か、あるいはそのまま気付かないかの二択だと思う。


 あの技師はウィリアムが言うほど悪趣味ではなさそうなのだが、しかし、このどこまでも平坦な青年がこんなに嫌うというのには、やはり理由があるのだろう。平坦そうに見えて、ウィリアムが案外繊細だというのは、ミューディーズの件ではっきり知れた。多分ウィリアムは、感情を表に出さないというよりも、出すのが異常に下手なだけだ。


 だから、メアリは、ラーゼスの言う「ハダリ」が何なのか、ウィリアムに訊くことも、自分で調べることもやめようとそう思う。知らずとも十七年間生きて来れたのだから、今後も知らなくたって生きていける。この青年を自分が傷つけるのは嫌だった。別に、この青年だけではない。メアリは、誰かを傷つけるのがとにかく嫌だ。自分の痛みは我慢できるが、他人の痛みは耐えられない。


 知というのは鋭利な刃物と一緒であって、必要だけれども使い方を間違えると必ず誰かを傷つける。中途半端な物知りよりも、無知の方が良いというのは、誰の言葉だったのか。


 そんなメアリの心情を知ってか知らずか、ウィリアムはただ黙って、導くように先を歩く。その背は大きくて、ちゃんとした大人のものなのだが、なんとなく幼いようにも時折感じる。


――何故、この人がこんなに気になるのかしら。


 その背中を眺め、メアリは密かに首を傾げた。


 ウィリアムは、せいぜい二十代の前半くらいだ。もしかしたら、十代かもしれない。けれども、ふとした仕草が、妙に老成ねびている。ミューディーズで見せた正確無比な射撃のことであるとか、冷静にメアリを守ってくれる様子は非情に頼りがいがあるものだった。しかし、あの技師に対する態度であるとか、時折漏らす本音のような呟きは、何とはなしに幼いようで、微笑ましいものがある。


 出会ってそれほど経っていないというのに、誰かのことが気になるなんて、自分でも珍しい。興味を惹かれるというよりも、なんだか違う感覚だ。忘れてはいけない事を忘れてしまったときの、あのもどかしい感覚にそれは似ていた。




 蓄音機の聞き取りにくい音声は、唐突に終わった。


 音声の内容は、先日交わされた図書室でのメアリとウィリアムの会話である。スイッチを切った後、教授が半ば瞑目するように呟いた。


「近い将来、人間は己の魂さえも分析し、そして解析してしまうだろう。そういう意味では、『神との縁』とやらも完全に断ち切られる定めだが、それでも未来を信じられるのが若者の特権だろうな」


 それを聞きとめたフォッグ二世が小さく笑った。


「盗み聞きとは、行儀が悪いですよ、教授」


「盗み聞きと言うよりも、私には、彼女の思想をすべて把握しておかねばならんという義務がある。それを罪というなら、この場に居合わせた者すべてが同罪ではないのかね?」


 特に表情ひとつ変えずに教授が言うと、その場に居た全員が苦笑した。すなわち、リチャード・ラーゼス、レズリー・エイシェト、フィリアス・フォッグ二世の三人である。


 彼等がいるのは、既に総合研究室ではない。三〇一号室、エイシェトの私室だ。ここでは、博士が横たわるベッドの脇に置かれた椅子に、各々が気ままに座っているようだ。


 ふっと、興味深そうにラーゼスが言う。


「彼女の林檎の半分は、黄金だと聞いてはいるが、それが精神に及ぼす影響というのはあるのかね?」


「さて、私は正直、貴公等とは全く違う多数派側の世界に生きているのでね。少数派のいうところの神秘の話はさっぱりわからん」


 そっけない教授の言葉に、ラーゼスが笑った。


「それはそうだ、失礼をした。しかし、我等が袂を分かったのは、たかだか五百年前なのに、最早互いに共通する常識が失われているというのも面倒なことだな」


 その言葉に、教授は僅かに目を細めたようだが、特に何も言わなかった。ラーゼスも特に気にした風もなく、話を続ける。


「今の会話を聞いた限り、あの少女は、実に科学者に向いている。神の領域を超えることを怖れない哲学と、更には知性の横暴に耐えうるくらいの感性の持ち主のようだ。計算手にしておくのは実に『惜しい』な」


「科学者に、感性なんてものが必要なんですか?」


 不思議そうに尋ねるフォッグ二世に答えたのは博士だった。


「そうね。感性が強くなければ、インスピレーションは訪れない。科学者は、皆、心像で思考する。言葉であったり、映像であったり、音階で思考する者もいるのよ。誤解されがちだけれど、科学者は肥大化した知性に感性を蝕まれた、荒廃した精神の持ち主では決してないわ。真の意味で科学の徒になるためには、豊穣な感性の大地から科学を芽吹かせ、そして育てる力が必要なのよ」


 そう断言する博士は実に美しかった。元からの美貌というよりも、内面から滲み出る、知的な感性から発せられると言った方が正しいだろうか。豊穣な感性は、美をも滲ませるものらしい。


「だから、科学者は何処までも純粋で、容易に理想の世界を夢見てしまう。しかし、メアリ嬢は純粋とも違う、奇妙な捻れがあるように私には思えるのだ。それが計算手であるが故の物なのか、彼女の中にある例の「もの」の仕業なのかはわからないが、どちらにしても、その捻れがある限りは、彼女は計算手のままなのだろう」


 それが不幸なことか、幸福かはさておき、と意味ありげに呟くラーゼスに、博士が少し俯いた。一瞬、なんとも言えない重苦しい空気が周囲に満ちる。


 ぽつりと、その流れを断ち切るように、無感情に教授が口を開いた。


「……彼女の場合は、生まれてくる以前に、計算手として生きて行かざるを得ないという運命を押しつけられてしまったからな。それについて責任を取れる者がこの世にいない以上、科学者の才能があったとて、それを惜しむのは傲慢に過ぎる。過去は変えられないのだから、我々は、未来に対して幾許かの対抗策をとらねばならん、ということだ」


 その言葉に博士がきつく唇を噛むが、それを無視して教授が続ける。


「さて、未来への対抗策の一つだが、少数派の君達に少し伺いたいことがある。人間の脳と内蔵を《生きたまま》保存しておく技術はあるのか、と言うことだ」


「ふむ。これはあくまでも仮定の話だから真に受けてもらっては困るが、もしも『ある』と言ったらどうするのかね?」


 ラーゼスの声は至極愉快そうだった。教授がうっすら笑って言った。


「壊れかけの蜘蛛の糸でも、獲物を捕らえることが出来る事の証明になる。そうなれば、私の推理すべてが正しいと立証されるだろう」


「立証してどうする? 自己満足かね?」


「そうだな。私は神を殺せる、という自己満足が得られる。確かに自己満足だ」


 意味ありげな教授の言葉に、ラーゼスが低く笑った。その唇からは、微かに鋭い牙が覗いている。


「君は多数派だということが間違いかもしれんな。少数派の世界に来るかね? 君ならば、歓迎しよう」


「私はそういうモノに興味が無くてな。多数派のまま、取り戻したい物があるのだ」


「取り戻す? 何をだね?」


 ゆっくりと首を振り、教授は静かに言い放つ。


「あり得たかも知れない私の人生、そのものだ」


 その言葉に、エイシェトがビクッと身体を震わせる。奇妙な空気が、周囲に流れた。


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