Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

32

公開日時: 2020年10月8日(木) 18:00
更新日時: 2021年2月6日(土) 02:28
文字数:3,396

「大丈夫ですか、ウィリアムさん!!」


 慌てて駆け寄ると、ウィリアムは眉間に皺を寄せ、苦痛に耐えるようにしていたが、微かに首肯したようだ。


「ああ、大丈夫だ」


「でも……」


 どう見ても全く大丈夫そうに見えない。でも、嘘ではないようで、銀の数字も変わらない。それでも、今まで殆ど表情を変えなかった青年が初めて見せた苦痛の表情は、メアリを狼狽えさせるのに十分だった。


「怪我をされたんですか? 大丈夫ですか?」


 おろおろするだけのメアリを窘めるように、足下から全く別の声が聞こえたのは、その時だ。


〈気にするなよ、嬢ちゃん。俺を六回も連続でブッ放すから、軽く肩をやっちまっただけだ。なァに、こいつァ無駄に丈夫だからよ、簡単に直るさ〉


 聞き覚えのない、酷く若い男の声だ。この場に全くそぐわない陽気さだった。太陽のようなオレンジがかった色を纏った数字は五。それ以外は解らない、不思議な声だ。


「え?」


 思わず声のする方に視線を投げて、メアリは更に驚いた。声がした場所にあったのは、ウィリアムの右手だったからだ。いや、正確には、彼の手に握られたままの、あの巨大な銃だ。


 銃は、先ほどメアリが見たものとは全く様相が変わっていた。滑らかでシンプルな姿は変わらないが、横面に、明らかに何かの目のような模様が浮かんでいる。


 その目はデフォルメされたイラストにしか見えないのに、くるくると『表情』を変えていくようだった。一体、どういう仕組みになっているのか、まるで見当も付かない。


 ウィリアムが、痛みに堪えつつ、苦々しい口調で言った。


「……ビリー。何故、出てきた」


 ビリーと呼ばれた銃は、まるで鼻で笑うように言う。


〈よゥ、久しぶりだなァ、ウィル。俺を起こしたのはお前だぜ。なのに、出てくるも出てこないもねェやなァ〉


 一人と一丁の会話に、メアリは、何が起こっているのかがさっぱりわからない。狐に抓まれたような顔で、銃とウィリアムを交互に見る。


 さっき起こった奇跡だけでも大概なのに、今度は喋る銃の出現だ。混乱しない方がおかしい。


 そんなメアリに、銃は更に馴れ馴れしく話し掛けるようだ。


〈嬢ちゃん、あんた、マジでやるなぁ! 良い計算だった! 久々に良い仕事が出来たぜェ!〉


「あ、はい、いえ、その、ウィリアムさんのおかげです……」


〈ハンッ、ウィルはただ方角を合わせてタイミング良く引き金を引いただけだ。弾丸の軌道や、振動の微調整は全部俺の仕事だよ〉


 メアリの言葉に、銃はむくれたような声で言う。


「あっ、すいません、ごめんなさい」


「すまない。ビリーは米国製だから、良く喋るし、喧しい。基本これは無礼だから、気にしないでくれ。だから僕は、これを使いたくなかったんだが……」


 あわてて銃へと謝るメアリに、今度はウィリアムが謝罪する。相変わらず痛そうなのは変わらないが、しかし、先刻よりはだいぶ具合は良くなっているようだ。


 ウィリアムの言葉に、あからさまに不機嫌に銃が吼える。


〈うるせえよ、この朴念仁が! こっちが無礼な米国製(Yankee)なら、てめぇは四角四面の独逸製(German)だろうが!〉


 銃の言葉によれば、ウィリアムはどうやら独逸人らしい。しかし、完全に雰囲気に飲まれているメアリには、何が何だかわからない。罵倒を終えた銃が、メアリを『見て』、得意げに言う。


〈俺はビリー。ウィルの相棒で、正式には自立式なんちゃら銃器支援なんちゃら、とかそういう名前があるらしいが、まぁ、長ったらしいからビリーでいいぜ。お嬢ちゃんは?〉


 銃には胸なんかないのに、まるで胸を張って威張るような物言いだ。

「メアリ・ジズと言います」


 ビリーの問いに、メアリは慌ててお辞儀をして自己紹介をした。こんな事をしている場合ではないと思うのだが、なんだか、そうしなければならないような気もしたからだ。


 そんなメアリを面白そうに眺めながら、ビリーが『目』を細めて言った。


〈ジズ……。どっかで聞いたことがあンなァ……〉


 暫く何かを思案するように、銃身に浮かぶ『目』が瞬きをする。何を聞いたことがあるのだろうと、思わずメアリが身構えた時――。


 その瞬間、ぐぅううう、と、何かが唸るような音があたりに響いた。


「!」


 その音は、メアリの下腹部からはっきり聞こえた。


 安堵のあまり、空腹の虫が目を覚ました物らしい。計算すると、どうしてもお腹が空くのだ。メアリは一瞬で真っ赤になる。


 その音を揶揄するように、ウィリアムの手の中でビリーが言った。


〈なんだ、すっげぇ音がしたな! 嬢ちゃんの腹の虫かァ?〉

 メアリは真っ赤になったまま、手を振って言う。


「ちが、違うんです! いや、違わないんですけど、あの、その……」


 必死になって銃に向かって弁明するメアリを、ウィリアムはきょとん、とした顔で見ていたが、やがて堪えきれないように、片手で顔を覆い、声を殺して笑い出す。鉄面皮かと思っていたが、案外こういう顔もするのだと思う。しかし、その表情を引き出したのが、よりにもよってメアリの腹の虫というのが問題だ。


「ウィリアムさん!!」


 顔を真っ赤にして抗議するメアリに、ウィリアムが必死に笑いを噛み殺すように言う。


「……ごめん、笑ってしまって悪かった。もう夕方だし、空腹になるのは仕方が無い。僕だって、確かに色々空っぽだ」


 笑いを必死で抑えながら、それでもウィリアムは気遣うようにそう言ってくれるのだが、あまりフォローになっていないとメアリは思う。


 しかし、メアリもだんだん可笑しくなって、こんな場所だというのに、同じように吹き出してしまった。先刻までの緊張が急に解けたせいでもあるらしい。一旦笑うともう駄目だった。メアリとウィリアムは、二人で声を潜めるように笑い合う。


 一頻ひとしきり二人で静かに笑った後で、ウィリアムがふっと戸惑ったようにぽつんと言った。どことなく、我に返った、と言うような風情である。

「……火も消えたことだし、ここから出よう。妙なことに巻きこまれたら厄介だ」


 そう言うと、ウィリアムは右腕を庇うようにして、音の衝撃でメアリの肩からずり落ちたものらしい、自らの外套を取った。軽くはたいて、ヴェールのように頭から、もう一度それをメアリに被せる。小さく言った。

「申し訳ないけれど、これを被って僕の傍へ」


 メアリが言うとおりにすると、ウィリアムは窓ガラスを銃を使って無造作に叩き割った。この青年は、何をするにも無造作だ。事前の気合いというものが全くない。代わりに銃の方は騒々しい。


〈おいおい、痛ってェな、ウィル! こっちは火薬を扱ってんだ、もちっと丁寧に扱いやがれ!!〉


「お前に痛覚はないはずだ」


〈心の痛みって奴だ、バァーカ!! 根暗なお前と違って、俺は結構繊細なんだよ!〉


「ビリー」


 余計なことを言うな、という顔で、ウィリアムがビリーを見た。そのまま、痛そうに右手を持ち上げると、ビリーを乱暴にトランクの中に放り込む。そのまま、がちゃんと蓋を閉めた。驚くほどビリーを完全に無視している行動だ。


 ウィリアムがメアリに向き直り、静かに言った。


「目を閉じて」


 言うとおりにすると同時に、トランクの中から、怒り狂ったビリーの声がする。


〈ウィル! お前、もちっと丁寧に扱え、目が回る!〉


「お前に三半規管はないだろう」


〈気分の問題だッつーの! ほんとにデリカシーがない野郎だな!〉


「お前にデリカシーの有無を問われるのは心外だ」


 ぎゃんぎゃん騒ぐビリーを淡々となしながら、ウィリアムはトランクを、無造作に屋外へと放り投げた。


〈テメェ、この……〉


 ビリーの悪態が遠くに去って行くのを、メアリは目を閉じた状態で聞いていた。その体がふっと浮き上がるのを感じる。ウィリアムが抱き上げたのだ。


「あの、肩の怪我は……」


「我慢できる。舌を噛むと行けないから、喋らないで」


 メアリの問いに、淡々としたふうに答えると、ウィリアムは窓から身を翻し、何処かへ飛び降りたようだった。ふわっとした浮遊感のすぐ後に、トン、というような軽い衝撃を感じる。その後は、暫く何処かを駆けているようで、風の音だけが耳元で鳴っていた。五分ほど過ぎた頃だろうか。メアリは、地面か何かの上に静かに下ろされた。何かというのは、足の裏から伝わる感覚が、アスファルトや土のものではなかったからだ。


「もう目を開けてもいいよ」


 ウィリアムの言葉に、メアリはそっと目を開けた。


 瞼を開けた瞬間、目の前に広がる光景に、メアリは思わず声を失う。


「……!」

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