Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

18

公開日時: 2020年9月24日(木) 18:00
文字数:3,160

「あれはね、もう売ってしまいましたよ。なんというか、牧歌的な絵は応接室にはあまり合わない。そうなると飾る絵も特になくなってしまったので、こうして羊歯を飾っているのです。最近流行の観相学に逆らった印象派の絵はぼやぼやしてるし、ドラローシュは趣味じゃない。いっそカバネルでも飾りますかね?」


 勧められるままソファーに座り、教授はひとつ鼻を鳴らした。


「君はそうやって、常に道化に徹しようとする部分がいかんな。カサノヴァを模倣するより、余計者アウトサイダーを気取る方が、まだ十九世紀的であろうに」


 そう言うと、教授はポケットからシガーケースを取り出した。紙巻き煙草を取り出すと、口に咥える。それをちらっと一瞥し、フォッグ二世は大仰に肩を竦めた。


「私は浪漫主義が好きなんです。ゲーテよりもバイロンを愛する類いの人種なので、最近流行の自然主義やデカダンはどうにも肌に合わない。露西亜ロシア文学は猶更、ね」


「惜しむにも、ホラティウス(時間)より、ロバート・ヘリック(薔薇)を好む質か。であるのなら、君は最後までその化けの皮を被り続けたまえよ。詩人から批評家へ鞍替えするには、ひどい痛みを伴うものだ」


 無感情な声でそう言うと、教授は燐寸マッチを擦り、紙巻き煙草に火を付けた。土耳古トルコ煙草の強い匂いが辺りに漂う。揺蕩う紫煙を面白そうに目で追う青年へ、教授がどこか言い訳のようなことを呟いた。


「百害あって一利なし、と呼ばれる煙草だが、唯一利がある。それは、脳に閃きを与えることだ。紙巻きは不味いが、パイプや葉巻よりも手軽なのが良い。君も吸うかね?」


 差し出されたシガーケースを眺め、フォッグ二世が申し訳なさそうに首を振る。テーブルに置かれたクリスタルガラス製の灰皿を、教授の方に押しやった。


「喜んで、と言いたいですがね。今、禁煙中なもので」


「また、二年前の御乱行の後遺症が出てきたのかね? 難儀なものだ。あれはなかなか治らんからな」


 灰皿を更に手元に引き寄せて、教授は燐寸の燃止もえさしを投げ入れる。火が消えて猶、硫黄の匂いは健在だ。


「ま、それなりに覚悟はしていましたけれどね。しかし、今思えば確かに若気の至り、でしたねぇ」


 宙に躍る煙を目で追うのを止めぬまま、フォッグ二世が楽しげに言った。教授が微かに、笑みの形に口許を歪める。


「まだ十分に君は若いだろう。今年二十二才だったかね?」


「いえ、二十一才です。ま、いずれにせよ、あの胃痙攣いけいれんに耐えるのは、もう二度と御免ですから」


 にこやかに語る青年に、教授は紫煙を燻らせながら、懐かしむよう、皮肉に呟く。


「まぁ、それはそうだろうな。三年前、瑞西スイスではじめて会ったときの君は実に酷い有様だった。あれに比べたら、良く立ち直ったと褒めるべきかも知れん。まったく、君にとって、フィリアス・フォッグの存在は、それほどまでに重かったのかね? フォッグ卿」


 フォッグ二世が、ほんの少し目を細めた。彼の周囲が、何処か張り詰めた空気に変わる。その目の光は、少しばかり剣呑だ。それを見て、教授が更に唇の端を吊り上げた。


「父親と比べられた途端に本性を出す癖はなおらんな。無理に治せとは言わないが、その癖のことは常に念頭に置くことだ。君が目指す世界では、些細なことでも命取りになる」


「……肝に銘じておきますよ」


 飽くまでも軽口を叩くフォッグ二世を一瞥すると、教授は一口深く煙草を吸い、ふぅ、と一気に吐き出した。


「まぁ、今日は説教をしにきたわけではないからな。『忠告』はこれくらいにしておこう」


 そう呟くと、教授はまるで自室にいるかのようなゆったりとした風情で煙草を吹かし、灰を落とす。ウォーディアン・ケースの中にあるオレンジ色の羊歯を横目に静かに言った。


「以前に話した少女だが、ようやく今朝、手元に引き取れた。君に色々手を尽くしてもらったおかげだ。裏から手を回すより、合法的な手段の方がばれにくい。改めて礼を言う」


 頭を下げる気配はないが、十分に感謝は伝わる物言いだ。フォッグ二世が、興味津々という風情で訊いた。


「いえいえ、教授には色々御世話になってますし、お安い御用ですよ。ところで、どんな少女でしたか、彼女は。十七才と言うことでしたが、可愛らしいお嬢さんですかね?」


「顔立ちは愛らしかったが、おそらく君の趣味では無かろう。十七世紀の西班牙スペインであれば、賞賛の嵐だったろうが」


 十七世紀の西班牙では、女性の胸は薄ければ薄いほど美しいとされていた。つまりはそういうことなのだろう。とはいえそれはメアリに対する侮辱では無く、教授の声には、牽制の色が多分に濃い。


「酷いなぁ、まるで私が女性の魅力に対し、まるで胸が第一等だと思っているようにおっしゃる」


 年相応の態度を止めて、まるで子供のように口を尖らせるフォッグ二世を、教授は冷ややかな目で見る。皮肉交じりの声で言う。


「君の今までの女性遍歴を見るに付け、その傾向は否めまいよ。件の少女に会うときは気をつけたまえ。あれは共感覚の化け物だ。下手な言い訳なぞ、あっという間に見破られるぞ」


「共感覚の、化け物?」


 化け物という単語に、フォッグ二世が怪訝そうな顔をした。教授は紫煙を燻らし、低く告げる。


「あの娘は共感覚を使って、他人の嘘が見抜けるらしい。一種の計算手特性だろうな。まったく、ギルバートが手紙で忠告をしておいてくれなかったら、彼女を信用させ、引き取ることなど出来なかったろう」


「嘘を見抜く少女、ですか……。それはなんというか、私や教授の天敵ですね」


 やや眉を顰めるフォッグ二世に対し、教授は態度を一切変えない。妙なふてぶてしさと威厳があった。


「私の場合、自身の発する言葉すべてが嘘だと解っているからな、そこまでの問題はない。最初から嘘しか言わねば、嘘こそが真実だと信じるだろう。しかし、君のような、真実と嘘が入り交じったタイプの嘘つきは大変だな」


「まったく、これでは対面する前から嫌われること確定ではないですか。可愛らしいお嬢さんに嫌われるのは嫌だなぁ……。ところで、共感覚って何ですか? 聞き慣れない言葉です」


 大袈裟に嘆いて見せながら、フォッグ二世が素直に訊いた。教授は事も無げに説明をする。


「ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる知覚現象だな。平たく言えば音に色を感じたり、文字に味を感じたりというあれだ。詩人のボードレールなども、文字に色を感じていたらしいぞ」


 ボードレールが『交感』という詩の中で、音と色の結びつきを表現しているのは有名な話だ。その他にも音楽家のフランツ・リストも共感覚があったと伝えられていた。


「ああ、聞いたことがあります。あと、記憶術師は文字に色が見えるから、それで膨大な記憶を暗記するとかしないとか……」


 幼い頃、執事に連れて行って貰ったエジプシャン・ホールでの記憶術師の興行を思い出しつつ、フォッグ二世が呟くと、教授は軽く頷き話を続ける。


「左様。共感覚は使い方によっては、かなりの可能性を秘めた能力であるらしい。人の名前を覚えたり、暗算に利用することもできるそうだ。虚数を用いて脳の中に数字を重ねておけるからと言う話だ」


「重ねる、ですか。よくわからない感覚ですね」


「人間は嬰児の頃はまだ五感が未分化であるらしいな。嬰児の頃は当たり前に皆共感覚を持っていても、しかし、普通は成長による脳の結合の変化によって、こうしたものは失われていくとされる。成長してもなお共感覚を保持している人間は、成長の過程で何らかの理由で脳の異なる部位への結合が保たれ、これらの複合した知覚もまた、そのまま保たれているのだそうだ。ま、ある種『神経疾患』の一種だろうな。しかし、彼等は日常生活を送るに辺り特に不自由は無いことから、あまり問題視されることは無い。それどころか、前述の理由から、神からの贈り物だという向きもある」

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