ヴィクトリア駅の通りの前で馬車を降りると、教授は馭者に、三時間後に迎えに来るように命じた。馭者が馬に鞭をくれ、去って行くのを眺めてから、教授はW・H・スミスの売店を通り過ぎ、その前にある、一際大きな建物を目指す。倫敦でも珍しい、五階建ての大きなビルだ。
窓硝子に金文字で『Travel Agency』と書かれたその建物は、フォッグ社本店――八十日間で世界一周を果たした『誠実なる紳士』、フィリアス・フォッグの名を冠した、英国でも有数の旅行代理店である。
教授が中に入ると、店内は混雑していた。店の中に用意された五つばかりの窓口はすべて埋まり、何人かは順番待ちをしているほどだ。従業員が駆け回り、電信や電話のベルもひっきりなしに鳴っている。繁盛している証拠であろう。
フォッグ社は旅行代理店としては参入したばかりの企業ではあるが、その業績はうなぎ登りで、今や倫敦でも一、二を争う旅行会社として名を馳せている。
確かに『フィリアス・フォッグ』という名前の利もあるだろう。名誉のために自分の全財産を賭け、見事不可能かと思われた旅を成功させた彼の記録は大ベストセラーとなり、倫敦っ子なら知らぬ者がいないほどだ。しかし、名前だけで成功できるほど商売は甘くない。そもそも英国には、旅行代理店の始祖であるトマス・クック社という老舗がある。時刻表やパッケージ旅行、トラベラーズ・チェックなどを最初にはじめたのはこの会社だ。トマス・クック社の柔軟な思考、そしてきめ細やかなサービスと、長年にわたるノウハウに対抗するには、更に革新的なアイディアが必要だった。
フォッグ社が打ち出したサービスとは、通訳も兼ねた信用できるガイドを、国内は勿論、どんな旅行先にも無料で用意する、というものだ。仏蘭西や伊太利亜、独逸などの欧羅巴諸国ならともかく、阿弗利加や亜細亜の国で通訳を探すのは難しい。地理を熟知したガイドなら猶更だ。
そのアイディアは大当たりで、ガイドを希望する旅行者は引きも切らない。今日も今日とて、カウンターには申込者がやってくる。
教授はその喧噪を横目で眺め、受付嬢の前まで歩いて行った。名刺を差し出し、相変わらずの無感情な声で言う。
「すまんが、アルフレド・ジェイムズが来たと、オーナーに伝えてくれ」
受付嬢は躾の行き届いた洗練された仕草で名刺を受け取った。内容を確認し、静かに一礼する。
「畏まりました。少々お待ち下さい」
落ち着いた声でそう言うと、受付嬢はメモの上にペンを走らせた。
そのまま、机の上から何か筒状のカプセルを取り出すと、その中へ名刺とメモを入れる。そうして真後ろにある気送管の蓋を開け、中に筒状のカプセルを入れた。
気密蓋を閉めた婦人が気送管の脇のレバーを引くと、シュポン、という妙に軽やかな音がして、カプセルが凄い勢いで何処かへ送られていく。
それからきっかり五分後に、エレベーターの扉が開き、中から長身の年若い青年が現れた。年の頃は二十歳を少し過ぎた辺りか。濃いブロンドの髪と、切れ長の黒い瞳が特徴的で、年頃の淑女なら、思わずぽうっとなってしまうような、俗に言うハンサムな青年だ。ウィリアムも整った顔立ちだったが、些か陰気で茫洋とした雰囲気の彼とは違い、この青年には、居るだけでその場が明るくなるような、そんな天性の輝きがあった。
身につけているものも随分と上等の品のようで、仕立ての良い洒落たモーニングを身に纏い、まさに貴公子、といった言葉がしっくりくる。
青年は親愛の情を示すように、大きく手を広げて教授の前にやってきた。にこにこと、愛想良く、そうして親しげに挨拶をする。
「お待たせしました教授! 久しぶりですね、ようこそおいで下さいました」
にこやかに告げる青年の目にはいたずらっぽそうな光が讃えられていた。若者らしい陽気な光だ。
親しげな青年とは少し異なり、教授の態度は変わらない。相変わらず淡々とした声で言う。
「こちらこそ、先日はベアリング兄弟銀行の件で世話になったな。今日はその礼と、頼みたいことがあったので拠らせてもらった」
「いえいえ、教授の頼みなら、あんなことくらいはお安い御用です。さ、こちらへどうぞ」
教授をエレベーターへ招きながら、青年がにこやかに答える。二人してエレベーターに乗り込む前に、青年は受付嬢に声をかけた。
「ちょっと真面目な話をするから、悪いけど、仕事の話は余程のことが無い限りは副社長に回してくれ」
「畏まりました」
一礼する受付嬢へ器用に片目を瞑ってみせると、青年はエレベーターのドアを閉め、スイッチを押す。
エレベーターの中で、上機嫌そうに青年が言った。
「教授の知己のおかげで、中央アジアに新たな支店を作る為の目処がようやく付きましたよ。ガンダマク条約締結以降、あそこはどうにもデリケートな土地ですからね。戦争の傷を癒やせれば、観光地としてはなかなか良いと思うんですけど、なかなか申請が降りずに苦労しました」
このエレベーターは、ゴウン、ゴウンと機関の音がやけに響く。その理由を知っている二人は、多少声を張るようにして会話する。
「グレート・ゲームは未だ終わったわけではないからな。多分、そこの支店が黒字になることはないだろう。競争相手さえいない土地だ」
「いいんですよ。そっちの方は、あくまで私の趣味ですから」
青年が笑うと同時に、エレベーターが最上階へと付いたようだ。エレベーターのドアを潜りながら教授が言った。
「まぁ、君には唸るほど金があるしな。そういう趣味も良かろうよ、フォッグ卿」
当てこすりのようにも聞こえるが、皮肉や嫌味は何もない。淡々として、事実のみを述べる声だ。
フォッグ卿と呼ばれた青年は、教授を応接室に案内しながら小さく笑う。ほんの少し、口の端を吊り上げ言った。
「人生には趣味が必要ですからね。この世界は面白い。戦う価値はある」
宣戦布告にも似た言葉に、教授がほんの僅かに口を歪める。青年では無く、自分の中の何かを嗤う風だ。嗤ったままの顔で言った。
「そういえば、君の父上も闘争のためだけに全財産を賭けて八十日間で世界一周をしたのだったな。まったく親子の血は争えん。フィリアス・フォッグ二世の名は伊達では無いな」
その言葉に、青年――フォッグ二世は苦笑する。
「私自身は否定したくとも、この体に父の血が流れているのは事実ですから。ただ。半分は母の血ですよ」
「そうであろうな。しかし、半分どころか、四分の一しか同じ血が流れていなくとも、幸か不幸か何処かで人は似てしまう。血は水より濃いというのはある種の呪いだ」
まるで自分に言うように呟くと、教授は案内された応接室をぐるりと見回す。
応接室は豪華だった。革のソファーが並び、真ん中に置かれたテーブルは黒壇製だ。窓際には大きめのウォーディアン・ケースが飾られ、ともすれば事務的な雰囲気になりがちは室内に、妙な潤いを与えていた。
「この間、応接室用にミレーを買ったと言っていなかったかね? 見当たらないようだが」
是非見てみたかったのだがな、と続ける教授に、フォッグ二世が些か申し訳なさそうに返事をする。
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