五
地下一階には、絶えず低い音がする。ゴウン、ゴウンと響く音は、巨大な機関のものだった。長い廊下には、複数のドアがある。一番奥にあるドアからは、機関音の隙間を縫うように、青年の低い呻き声が微かに聞こえる。
「……ぅ、あ……ッ」
押し殺してはいるが、まるで身体を開かれているかのような苦痛の声だ。
声の主はウィリアムだった。暗がりに置かれた寝台に横たわっている。周囲は実に乱雑で、組みかけの何かの機械や、数式がびっしり書き込まれたメモ帳、複雑な幾何学模様のような記号が絡み合う設計図が所狭しと並んでいる。寝台の側だけが唯一物が無い場所であり、サイドテーブルには綺麗に畳まれた衣服一式が積んであった。
明かりは計器から漏れる燐光のみだ。苦悶の声を縫うように、ラーゼスの愉快そうな声が響く。
「いい加減慣れたまえ。最初の頃より、痛くはないだろう? むしろ心地よささえあるのではないかね?」
「……ッく、ふざける、な……そんなわけ……、ぃぎっ……」
何処かを強く押すような気配と同時に、苦痛の声もより深くなる。
「まったくお前は面白いな。鉄面皮かと思えば、こんな表情もするのだから。一体、その頭の中は、一体どうなって――」
不穏な気配が滲む声は、ベルの音でかき消された。気送管を通してカプセルが送られてきた合図である。
「やれやれ、折角興が乗ってきた所だったのに」
そう独りごち、ラーゼスは慣れた手つきで気送管からカプセルを取りだした。中に入っていたメモを一瞥し、鼻を鳴らす。寝台から動けない様子のウィリアムに向かい、残念そうな声で言った。
「ウィリアム。お前へエイシェト博士からの通信だ」
そういうと、手にしたメモをウィリアムの頭の脇へと投げる。震える指でそれを取り上げ、目を通したウィリアムは、不機嫌な事を隠しもせずに言った。
「……彼女が呼んでいる。今日はこれで終いだ。いいな」
「かまわんさ。今回も実に良かった。次はいつ、中を見せてくれるのかね?」
薄く笑うラーゼスを一瞬だけ睨んだ後、ウィリアムは酷く苦々しい声で答える。
「……さぁな。対価を支払う必要が無ければ、金輪際お前なんかに関わりたくない」
「ははは、言うようになったな。だが、あの娘が見付かったのなら、お前はどうしたって対価を払い続けるしかないのだ。自分の罪の対価がこの程度で済むのだから、安い物だろう」
「・・・・・・」
揶揄するラーゼスに、ウィリアムはもう答えなかった。歯を食いしばるような音が、微かに聞こえた。
地下からロング・ギャラリーへ上がると、ウィリアムは無造作に階段を上る。表情には多少疲労の色が濃いが、しかし、かなり速いペースで階段を登っても息を切らす様子は無い。
三階まで一気に昇りきり、突き当たりを左手に曲がると、三〇一号室の金プレートがついた扉があった。
ウィリアムは恐ろしいほど正確な間隔で、きっちりドアを二度ノックする。
中から、「どうぞ」という、穏やかな老女の声が聞こえた。その声に従い、何の躊躇いも予備動作もなく、ウィリアムはドアを開ける。
その部屋は、研究所には似つかわしくない造作だった。三方を窓に囲まれた、光に満ちた明るい部屋の中央に、大きなベッドがひとつある。そのベッドの真ん中に横たわるのは、酷く痩せた、穏やかな顔つきをした老女だった。若い頃は、さぞや美しかっただろうと思わせる、整った顔立ちをしている。今だって、長い白髪が光を反射し、それはそれで美しい。
老女は、ベッドの上で何か書き物をしていたようだ。入室したウィリアムに気付いた彼女は、紙とペンを脇へやり、優しく微笑む。
「ようこそ、ウィル。貴方も忙しいでしょうに、呼び立ててしまって悪かったわね」
落ち着いた、穏やかな声だった。ウィリアムは、無造作にベッドの脇まで歩みを進める。ちらっと横目で書き物を確認すると、それは出版社への定期購読の申し込みのようだった。
それを確認しながら、ウィリアムが静かに返事をする。
「否。許可を貰ったから大丈夫だ。具合はどう?」
ウィリアムの声は、驚くほどに優しかった。メアリにだって、こんな声で話し掛けたことなどない。老女が少し笑って言った。
「今日はね、だいぶん体の具合がいいのよ。フィリアス坊やが王立医師会にかけあってくれてね。新しい治療が受けられるようになったから」
「……フィリアスと王立医師会は、君に良くしてくれるかい?」
少し案ずるようなウィリアムの言葉に、老女がにこやかに答える。
「ええ、とても。昔の関係を思えば、信じられないくらいに丁重で親切だわ。尤も、昔から、ずっと彼等は『そう』だったのだけれど」
単に私達が彼等を信じられなかっただけなのよ、と呟くと、老女はまるで吐息を漏らすようにして微笑んだ。その笑みを見て、ウィリアムもぎこちない風に少し頷く。
「貴方の方はどう? 例の少女が見つかった、と聞いたのだけれど。さっき貴方と一緒にいた子がそうだったんでしょう?」
だから、貴方を呼んでしまったの、と、悪戯っぽく老女が言う。その仕草は驚くほど若々しく、そして、無理をしているようにウィリアムの目には映る。しかし、それには敢えて触れず、ウィリアムは淡々と事実だけを語った。
「ああ、見つかった。ナルスエドディン卿は既に亡くなっていたけれど、彼女の方は無事だった」
その言葉に、老女が寂しそうに溜息をつく。
「そう。……彼は、自分の罪を清算できたのかしら」
「……僕に訊いても答えは出ないよ、エイシェト」
無感情なウィリアムの言葉に、エイシェトと呼ばれた老女は、酷く寂しそうな目をして言った。
「そうね。罪は結局、他者がどうこう出来るようなものではないものね。願わくば、彼が最後に安らかであれたら」
小さく呟くと、エイシェトは、まるで黙祷するように目を閉じる。ウィリアムは、そんな彼女をただ静かに見つめるのみだ。
暫くして、エイシェトが目を開けた。ウィリアムを見上げて言う。
「彼女はどんな子になっていた? 貴方のことは、覚えていたかしら」
その問いに、ウィリアムが僅かに目を伏せるようにして答えた。
「……否。何一つ覚えていなかった。ただ、僕は、それでいいと思っている。彼女は何も知らなくていい」
淡々としつつも、断然とした物言いだ。それを聞いたエイシェトが、少しだけ寂しそうな顔をした。
「……彼女にとっては、それが一番の幸いでしょうね。でも、貴方にとっては、どうなの?」
「僕は彼女が倖せならば、それでいい」
相変わらずの断言に、エイシェトは僅かに目を揺らし、そうして呟く。
「彼女は倖せになれると思う?」
その問いに、ウィリアムは微かに目を瞬かせた。それが肯定なのか、否定なのかは、おそらくは当人にだってわかっていないのだろう。答のない問いには、答えることは出来ないからだ。
それがわかっているからこそ、エイシェトは独り言のように苦く言った。
「どうしてあんなことになってしまったのかしら。皆、ただ、ひたすらに世界を良くしようと思って努力していたはずなのに。結局私達がやったことは、パンドラの箱を無理矢理開けて、世界中に悪しきものを撒き散らすことだけだった。……一体どうして、私達はあんな恐ろしいことに手を染めてしまえたのか、幾ら考えてもわからないの」
呟くエイシェトは、苦悩と困惑の間にいるようだった。ウィリアムが微かに首を振って言う。
「それは、僕には答が出せない問いだ。善きことのためと連呼する声が、真実に善きことのために発せられていたのか、というのは、当人にしかわからない事柄だろう」
それは、否定ではなく、真実わからない、というような仕草だったし、口調でもあった。殆ど感情を表に出すことのないこの青年にしては、随分と感情的な振る舞いのように見える。エイシェトが少し笑った。
「そうね。あの頃、貴方はまだ幼かったものね。私達の振る舞いを見てもそれが何かわからなかった。私達がわからなかった事を幼い貴方がわかるはずもない」
懐かしそうに語るエイシェトに、ウィリアムがほんの少し、瞬きをして言う。
「おそらくは、今の僕でも、あの時の君達が正しいのか間違っていたのかなんて理解できないと思う。ただ、今の僕には基準があって、だからこそ、あの時の君達とは一緒には居られなかったのだとわかる。それが僕の、あの頃と違う唯一かも知れない」
「基準?」
「……何があっても、僕は『彼女』を守る、という事」
エイシェトの問いに、ウィリアムが短く、しかし、これ以上無いという断言をする。それを聞いたエイシェトが、改めて優しく微笑む。
「そうね。それが、貴方の初めての誓いだったわ」
「そうだよ。それが、僕が初めて得た、僕の意志だ」
ウィリアムもまた、この青年にしては珍しく、柔らかく微笑んだ。光に満ちた部屋の中、それは、どこか酷く影の濃いもののように他者には映る。
一頻り笑った後で、エイシェトが言う。
「私も、その子に会いたいわ。下まで、連れて行ってくれる?」
その言葉に、初めてウィリアムが案じるような顔をした。ほんの僅か、言い淀むように口を開く。
「だが、君の体は……」
「言ったでしょう? 今日は、体の具合がとても良いって。今日を逃したら、起き上がれる機会はもうないかも知れないし、それにあの子が見つかった以上は、ジェイムズ教授や、ラーゼス技師とも今後について話し合わなければならないしね」
ラーゼスの名を聞いた途端、ウィリアムがあからさまに嫌悪感を顔に出す。ぶっきらぼうに言った。
「……あの碌でなしと君が会うのは、あまり薦めたくはない」
それを見て、エイシェトが、ふふっと笑う。
「貴方は本当にラーゼス技師が苦手なのね」
「あれは、僕が嫌悪する、唯一のものだ」
苦手なわけではない、と言うウィリアムに、エイシェトはただ笑うのみだ。それに別段気を悪くした様子もなく、ウィリアムはエイシェトに上着を着せかける。そうして、本当に恭しい態度でそっと彼女を抱き上げた。気遣うように言う。
「車椅子に乗せるまで、少しだけこの姿勢を強いることを我慢してくれ」
「大丈夫よ、私が無理を言ってお願いしていることだもの。貴方が気に病むことでは無いわ」
そう告げるエイシェトの表情は、どこか酷く寂しげだった。何かを悟り、そうしてそれが近いというような事を知っている、そんな顔だ。ウィリアムは彼女を抱き上げたまま、静かに三〇一号室を出る。
誰もいなくなったベッドの上には、白い石のかけらがひとつだけ。
それは何処か美しい花びらのようでもあり、白い羽のようにも見えるが、しかし、紛れもない石だった。
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