その考えは正しかったようで、ジャン・ジャックが意味ありげに微笑んでみせる。
「そうだね、美術品ではない。その青年貴族が手に入れた物は、十五世紀に書かれたフィリップ・ラデツキーというボヘミアの下級貴族の日記とそれに付随する幾つかの書簡だった。ラデツキーはフス戦争に十字軍として参加した貴族のうちの一人でね……ああ、そうそう、シャーロット嬢、キミはフス戦争を知っているかな?」
「いいえ。浅学なので知りません」
その問いに、メアリは静かに首を振る。小馬鹿にされるかと思ったが、意外にもジャン・ジャックはその事に関しては何も言わない。ただ、フス戦争についての解説をしてくれる。
「フス戦争というのは、十五世紀初頭、プラハの神学者ヤン・フスが、カトリック教会の腐敗を批判し、改革を訴えた事から始まった戦争だよ。説明すれば長くなるから端折るけど、ヤン・フスという宗教改革家が免罪符やら何やらに噛みついて死刑になった。それで、プロテスタントの先駆けであるキリスト教改革派であるフス派がキレてローマに反旗を翻した、そんな戦争かな。フス派を黙らせるため、ローマ教皇と神聖ローマ帝国により、約十万もの十字軍が組織されて送り込まれたんだけど、結果的にフス戦争は、ヤン・ジシュカという天才軍師の手によって見事にフス派が勝利した。十字軍は敗北を余儀なくされたわけなんだが、件のラデツキーの日記は、その時の記録だったんだ」
十字軍に参加した騎士の、個人の目から見た戦争の資料であるなら確かに様々な意味で貴重ではあるだろう。しかし、それが何故、『やっかいな』代物であるのか。
メアリの疑問に答えるように、ジャン・ジャックの話は続く。
「日記に拠れば、当初ラデツキーがいた隊は、フス派の中でも急進派で知られるターボル派と戦うべく、十二万の兵を率いてプラハ近郊のヴィートコフの丘を目指していたそうだ。しかし、ヴィートコフの丘まであと数マイルというところまで進軍した時、急遽ローマから命令変更を指示する書簡が届いたらしい。その書簡には、一万ばかり兵を割き、至急バイエルンへ送るようにという旨が記されていたそうでね。その分隊の隊長として指揮を任されたのがラデツキーだったんだ。急進派とはいえ、ターボル派は精々八千人しか居ない小さな勢力だ。十二万も居る十字軍から、一万くらい兵を割いても負けることはあり得ない。それにバイエルン公国でもルター派の煽動で焦臭い動きがあったから、ラデツキーも彼等に睨みをきかせるための派遣だと思っていたようだから、特に疑問も持たずに方向転換をしたそうだよ」
言いながらジャン・ジャックはティースプーンで紅茶を掬い、テーブルの上に簡素なボヘミア王国の地図を書いてみせた。大まかな輪郭だけの地図だったが、地理に疎いメアリにはかなり助かる。
ジャン・ジャックバイエルンとプラハの位置に角砂糖を置き、どれくらいの距離かが一目で解るようにしたあとで、再び説明を再開した。
「プラハからバイエルン公国までは大体一週間程度の行程になる。日記に拠れば、その間、ローマから二度早馬がやってきて、詳しい襲撃場所と教皇からの指示を伝えたという。書簡によって指示されていたのは、バイエルンのゾールンホーフェンの修道院がある村を焼き討ちし、一人残らず殺せという事。そして、修道院の痕跡を跡形も無く消し去れ、という事だったらしい。それを見たラデツキーは、妙だと思ったそうなんだ」
「妙……ですか?」
「ああ。キミみたいな女の子が戦争になんて興味がないのは解っている。だから説明しよう。」
微かに皮肉を含んだ物言いで、ジャン・ジャックが薄く笑った。
「この時代、確かに異端認定された者は火刑に処される。だから焼き討ちをしろ、という命令は正しいんだがね。しかし、村人を一人残らず殺せと言うこと、そして修道院の痕跡をあとかたもなく消せ、と言うのが妙なんだ。たとえ改革派であったとしても、フス派のようにローマに向かって剣を向けない限りは、まずいったんは逮捕して、そこから裁判で再教育なり死刑なりを決めるものだ。知り合いに誘われたからという軽い気持ちで改革派に身を寄せてしまった者だって少なくはないからね。しかし、今回の命令では、有無を言わさず鏖殺せよというお達しだ。なんだかまるで、メインは修道院を消す事で、それを誰にも知られない為に村人全員の口封じをしろと言っているようなものだろう? ラデツキーが違和感を覚えるのも無理はない。いかな教皇の命令とは言え、民を闇雲に殺されたら、バイエルン公国を治めているヴィッテルスバッハ家だっていい顔はしないだろうしね」
この時代、国民は王や領主の『財産』だった。いわば牛や馬と同じ扱いである。自分の農場に無許可で踏み込まれ、飼っている牛を一匹残らず殺されて怒らない人間はいないだろう。ローマ教皇の命令だとしても、普通はもっと根回しをして、領主の了解を得てから行うような事だった。
「では、そのラデツキーという方は、村の焼き討ちはされなかったのでしょうか?」
普通では無いと感じたのなら、ラデツキーはその場で思いとどまったのだろうか。そう思って訊いたメアリに帰ってきたのは、陽気な声での否定だった。
「いやいや、十字軍の騎士にとって、教皇の命令は絶対だからね。多少の良心の呵責があったって、あとで免罪符を発行して貰えれば、当時の基準だったらそれで罪は消えるし、神に赦して貰えるんなら心の負担だって無くなるさ。それに、現地に着いた時、ラデツキー本人が感じたそうだよ。『この修道院は確かにこの世にあってはならない場所だ』と」
「この世にあってはならない場所……」
その言葉の禍々しさに、思わずメアリは繰り返してしまう。皆殺しを正当化するようなものがそこにはあったというのだろうか。
メアリの疑問に答えるように、ジャン・ジャックが頷いた。
「ああ、そうさ。日記にはこう記されていたそうだ。『この修道院は悪魔の巣窟だ。自らの手で化け物を作り、魔の経典を崇拝している』とね。彼等は悪魔を滅ぼすため、その仕事を命令通りにやってのけると、またプラハに戻ったのだという。プラハにはターボル派の殲滅を見届けるための教皇の使者も来ていたし、彼に報告書を渡すことで今回の仕事は完了すると考えたらしい。しかし、結局その報告書は教皇は勿論、使者の手にも渡ることは無かったんだ」
そこで一度言葉を切ると、ジャン・ジャックが意味ありげに笑う。メアリはこの表情がどうも苦手だ。なんだか本当に恐ろしいことが、さらりとその口から出るような気がするからだ。
そんなメアリの気など知らぬ気に、ジャン・ジャックの話は続く。
「何故かというとね、十一万もいた筈の十字軍は、僅か八千のターボル派によって壊滅させられていたからだよ。この戦いでターボル派が用意したのは、ピーシュチャラという銃の原型みたいな火器だった。ターボル派は十字軍と比べて圧倒的に兵数が少ない上、構成員の大半は農民でね。女子供も相当数が含まれていたんだ。ほとんどが、まともに武器を扱ったこともないような連中だったから、普通は騎士や傭兵で構成された戦争のプロである十字軍が負ける要素なんて欠片も無かった、その筈だった。しかし、そんな数で劣るターボラ派は十倍以上の兵力を誇る十字軍に勝っている。なぜならば、ターボル派を率いていたのはただの農民ではなかったんだ。そこにはヤン・ジシュカが居たんだよ」
また聞いたことのない名前が出てきた。メアリには、英国史ならまだしも、東欧史は完全にお手上げだ。だから、何も口を挟まずに黙ってジャン・ジャックの話に集中する。
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