青いな、と言わなかっただけまだ二人の老人は優しくしているつもりである。廊下に出たケンは直ぐに教授に追いついた。そのまま肩を並べて歩き出す。
先に口を開いたのは教授の方だ。
「彼はどうにも冷徹になりきれん部分があってな。表の世界でのみ生きるのならその性質は好ましいものだが、こちら側の人間であれば弱点にしかならん」
「なるほど。しかし、冷徹さだけでは人は付いてこないものだ。その弱点も利点に変える程の強かさを身につければいっぱしの傑物に育つだろう」
歩調を緩めること無く、二人の老人は低い声で会話を続ける。
「ところで、あの少女、本当にあれで良かったのかね? 貴殿の言うとおり、ほどほどに手を抜いて、わざと奴等に攫われるように仕向けたが、ウィリアム君はその事をしらんのだろう」
「その点では貴方に謝罪しなければならないな。本来ならあの程度の襲撃、軽くいなして余裕で彼女を守り切れたろうに、私の依頼のせいで貴方の顔に泥を塗ってしまった」
淡々と謝罪する教授に、ケンは特に気にした風もなく言った。
「なに、それは最初から織り込み済みだったからかまわんよ。おかげで私も捜し物の一つが見付かった。結果として、双方の望みが叶ったわけだからな」
「そう言って貰えると助かる。ウィリアムはあの娘の事となると冷静さを失うからな。正直に『あの娘を奴等を釣る餌にする』と言えば、彼女をつれて何処かへ逃げてしまったかもしれない。今回は本当に助かった」
軽く頭を下げる教授に、ケンが僅かに苦笑する。
「何も知らなければ、儂も貴殿の計画には反対したろう。しかし、知ってしまうとそれがどれほど理不尽なものであっても従わざるを得なくなる。それまで織り込み済みであの計画を建てているのだから、貴殿は恐ろしい」
「本来ならばもっと穏やかに事を進めたかったのだがな。だが、状況がそれを許してはくれなかった。よもや前首相を暗殺するのに、何十人もの人間を巻き込む手段をとるとはな。狂っているとしか言い様がなく、そして狂人を相手にする以上はこちらもなりふり構っては居られないと言うことだ。一人の少女の犠牲で済むならむしろ安い方だろう」
冷徹な口調でそう告げた教授だが、しかし、続く言葉には幾分の哀惜と憐憫が混ざっていた。
「しかし、あの娘もほとほと運が無い。本来なら貴族として何不自由なく暮らせていただろうが、ろくでもない祖父のせいで父親を失い、孤児院ぐらしどころかイーストエンドの路上っ子へ転落だ。あの年まで生きていられたのは奇跡に近いな」
「この国では戦争や革命もないのに、孤児が生き延びるのはそこまで厳しいものなのか」
些か驚いたように訊くケンに、教授が皮肉な口調で答える。
「そうだな。若く健康な青年ならともかく、孤児や中年以上の年齢が救貧院入りしたら、そこから這い上がることはなまなかな人間では不可能だ。ひたすらに虐げられ、まともな職にも就けなくなる。救貧院というのは名ばかりで、あそこは地獄の入り口のようなものだからな」
一応英国では、路頭に迷った人間のため、救貧院というシェルターが用意されている。
かつての救貧院は病院や教会などが併設され、職業訓練も出来るという、転落した人間の最後のセーフティとしての機能を保っていた。
しかし、一八三四年に新救貧法が定められた途端、救貧院は貧困者の監獄と呼ばれ、感化院か刑務所的施設へと様変わりしてしまう。
建物は監獄と同じ一望監視システムで作られ、内部では年齢、性別、就労の可否による類別収容が行われていた。親子、兄弟から引き離された人々は制服を着せられ、頭を刈られて『まきはだ』作りのような単純な作業を一日中させられていたという。一日の食事はパンと粥、ジャガイモや僅かばかりのチーズと薄いスープだけでまかなわれ、満腹になる事など皆無だった。
この悲惨な状況は新救貧法が福祉費用削減のために出来た法律だったせいでうまれた。慢性的な不景気のあおりで財政が厳しかった英国が貧民救済を切り捨てる為の言い訳を実践したらこうなった、という話である。
国は貧民救済を放棄した。そのせいで孤児院と救貧院は地獄への片道切符と呼ばれたが、当然、そこにすら入れなかった人間は更に悲惨な末路を辿る。大抵が路上で野垂れ死ぬか、犯罪に走るか、人買いに攫われて様々な方法で売られるかのいずれかだ。義父母によってイーストエンドに捨てられたメアリが、親切な占い師に拾われて、この年齢まで無事に生きてこれたのは本当に奇跡だろう。
教授から英国の救貧制度について解説を受けたケンが、ふと訊いた。
「なるほど……。しかし、運が無いと貴殿は言うが、そこまで劣悪な環境に放り込まれても、彼女は今尚生きている。それはやはり、彼女が《命の冠の少女》とかいう存在だからかね?」
ケンの問いに、教授が静かに首肯する。
「そうだな。《命の冠の少女》が何であるかはさておき、それはメアリ・ジズという少女には呪いのようなものだろう。その身に余る呪いを受けているからこそ、逆に加護があるようなものなのだろうが」
「加護?」
「ああ。彼女は結果的に何があっても五体満足で生き延びる。本人が意図しようが意図しまいが、必ずそうなり、そしてその課程がいかに過酷なものであっても、最終的には何事も無かったようにされてしまうのだ。それこそが彼女にかけられた呪いだとウィリアムは言っていたが、今回はその呪いを逆に利用させてもらった。攫われたとしても、彼女は呪いに守られて五体満足で生還するだろう」
「なるほど……。その事を貴殿はフォッグ卿には伝えたのかね? そうすれば、多少はあの青年の気も落ち着くだろうに」
「彼はああ見えて繊細だからな。不可抗力で攫われたのならともかく、呪いを利用してわざと攫わせたと知ったら、さすがに激怒するだろう。その相手をするのはいささか面倒だ」
終わりよければすべて良し、という言葉がある。シェイクスピアの有名な戯曲であるが、大抵は『物事は結末が大事であり、課程は問題にならない』という意味として使われる。しかし、結末さえよかったのなら、その課程がどれほど過酷であったとしても不問にされてしまうと言うことだ。
最終的に無事に救い出されたとして、その間に受けた理不尽はメアリの心をズタズタに引き裂いている事だろう。それをあの青年が許すとは思えかった。その怒りの矛先が教授では無く、自らに向くことも簡単に予想できた。
「なるほど。確かに自分の無力感と我々への疑問にさいなまれていた方がまだ彼にとってはましだろう。話すのはやめておいて正解だ」
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